雁鍋屋の会合 Part3
何やら鬼気迫る権藤の表情に、大蔵は少し気後れした。
「なんでしょう?市川三左衛門の錦絵でも踏まされるんでしょうか」
権藤は愉快そうに笑った。
「いいですな。私ならそれが天井画であっても、何とかして奴の顔を踏みつけてやりたいところだ」
市川三左衛門とは、今や水戸の権勢を掌握して攘夷派を阻む諸生党の首魁である。
「…だが、今回の水戸行きは、そう単純な話じゃない。あなたは此処にいてはいけない」
大蔵は時間を気にしながら応えた。
「心配していただいて申し訳ないが、私は端からこのような無謀な企てに加担する気はありませんよ」
「なら、なぜ来たのです?」
「命の恩人である貴方や有為の士にご忠告申し上げるためです。ここに集まった者は皆、大炊頭の調停で、藩内の政策が尊王攘夷に大きく舵を切られるなどと起きるはずのない奇蹟を期待している」
「分かっています。大炊頭(松平頼徳)は天狗党に加勢するためではなく、あくまで乱の平定に赴くのですから」
火鉢がパチンと爆ぜた。
大蔵は小馬鹿にしたように口の端を吊り上げた。
「だが、座敷でバカ騒ぎしている連中には分かっていない。連中と、こうしている今も関東一円を荒らし回る天狗党にどれほどの違いが?お上にとっては、横浜の鎖港などと時代錯誤の要求を振りかざす目障りな連中であることに変わりない。『話し合いにやってきた』と言って、水戸城を押さえている市川三左衛門が、彼らにすんなり門を開くと思いますか?大炊頭が、板挟みになるのは目に見えている」
今や思想的な対立は、藩政の主導権を巡る泥沼の争いにすり替わっていた。
「確かに、そう上手くいくとは思っていないが」
大蔵は意味ありげに人差し指を立てた。
「考えてもごらんなさい。いま三左衛門が慶喜公をちょっと突けばどうなるか。利に聡い彼にとっては目の上のたんこぶを一網打尽に出来る好機だ。彼らはみな、近い将来天狗党の一味と見なされ、旧時代に幕を引くための生贄としてご公儀に誅されることになるでしょう」
しかし、それを聴いても権藤の表情は変わらなかった。
大蔵はようやく悟った。
彼はすべて承知の上で此処にいるのだ。
「死を賭して『我々に正義がある』という断固たる意思を天下に示さねばならんときもあるのです」
「馬鹿な。武田耕雲斎先生の思想も、大海を股にかけた熾烈な生存競争の中ではもはや通用しない」
「やはり、恐ろしい人だ。あなたは」
それは大蔵の聡明さへの称賛だった。
しかし、大蔵はもはやこの議論に意味を見いだせなかった。
「潮時をみて、なにか適当な口実を作り、この件からは手をお引きなさい」
権藤は穏やかな顔で首を横に振った。
「そんなことになれば、貴方が水戸で机を並べ共に学んだ友も巻き添えになるのですよ?それを止めなければ。私は私にできることをやるまで」
「権藤さん!」
「だからと言って、皆が死ぬ必要はない。私は、貴方の才智が無駄に失われることを惜しみます」
大蔵は捨て鉢に嗤った。
「私のことを買いかぶりすぎだ」
権藤は大蔵の両肩を掴み、まっすぐに目を合わせた。
「いま、加盟を拒めば、あなたは臆病者の謗りを受けるかもしれません。ですが、ここは耐え忍び、生き伸びることを考えてください。我々が成し得なかったことを、貴方に託します。江戸に残り、今回の戦で落ち延びた同志を助け、そして、来る日まで機が熟すのを待つのです」
権藤は、懇々と諭したが、大蔵は眼を逸らした。
「なぜ私なのです。こう言ってはなんだが、そんなことは同郷の篠原さんにでも頼めばいい」
「それが出来るのは水戸藩の中にいる人間だけだからです。実は篠原さんに、あなたが城内の門閥争いに関わっているのかと尋ねました。彼によれば、伊東大蔵は婿養子に迎えられて家を継いだばかりだという。であれば、連綿と受け継がれた政敵への私怨や利害に捕らわれたりしないはずだ」
大蔵は苦笑した。
篠原が、つい先日まで浪人身分だった大蔵の成り上がりをどのように評したか、おおよその想像はつく。
その時、暮れの六つを知らせる寛永寺の鐘が鳴った。
「…だが、今はそれよりも差し迫った問題がある。権藤さん、実は新徴組が……」
腰を浮かせる大蔵を、権藤は力強い手で押し留めた。
「分かっています。だが…もうひとつ、置き土産があります。入りなさい」
襖が静かに開き、廊下から気配もなく小柄な男が現れた。
「弘前の生まれで、毛内監物といいます。物静かですが、学問も武芸もこなす器用な男です。きっとお役に立つはずだ」
権藤はそう言うと席を立って、二階の座敷へと戻った。
大蔵と毛内監物もその背中を追う。
座敷では、まだ雁鍋の湯気が立ち込め、酒の入った志士たちが「水戸の門出」を祝して気炎を上げていた。
「お静かに!」
権藤の裂帛の気合が込もった声に、座敷の喧騒がぴたりと止まった。
「権藤さん、どうなすった。今いいところだ」
赤ら顔で誘う庄司弁吉に、権藤は厳しい視線で応じた。
「まもなくここに新徴組が踏み込んできます。みな、今すぐ店を出てください。死に場所はここではない!」
一瞬の静寂。
その後、座敷は文字通りひっくり返ったような騒ぎになった。
「新徴組だと!?」
「くそ、どこから漏れた!」
さっきまで「死を賭して」などと息巻いていた者たちが、我先に刀を掴み、膳を蹴飛ばして出口へと殺到した。
雁鍋の汁が畳にこぼれ、脂の焼ける嫌な匂いが立ち込める。
「慌てるな! 窓から裏の土手へ逃げろ!」
「あー、しからば」
と、藤井勇七郎も、皆に続き二階の窓から飛び出していった。
真田範之助は蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく同志たちを不機嫌な顔で見渡すと、おもむろに愛刀を掴み、ドスドスと階段を下りて行った。




