雁鍋屋の会合 Part1
加納道之助たちはほとぼりが冷めるまでの間、江戸の雑踏に身を隠すことにした。
とは言え、全員が怪しまれずに潜伏できる場所に当てなどある訳もなく、加納の心当たりといえば伊東大蔵の道場だけだった。
「伊東先生を頼るしかあるまい」
加納道之助の提案に異を唱える者もなく、一行は深川へ向かった。
だが、江戸の警戒は想像以上に厳重を極めていた。
永代橋を渡り、深川の入り口に差し掛かったところで、加納らは浪士の一団に行く手を阻まれた。
「庄内藩預かり、新徴組である。…お前たち、どこから来た」
尋問したのは、中沢良之助だった。
「ずいぶん無礼な口を利くではないか」
篠原泰之進が笠の端を押し上げ、不快げに言い返した。
中沢は鼻で笑い、一歩詰め寄る。
「これは失礼。しかし昨今、この辺りも攘夷とやらに感化されて藩を脱した流れ者が多くてな。悪いがこれもお役目だ。身元を改めさせてもらう」
「貴様などに名乗る名はない!」
今にも刀の柄に手を掛けそうな佐野七五三之介を遮って、加納が間に入った。
「我らは、まだ仕える主君を持ちませんが、深川の伊東道場に食客として起居を共にしております」
加納はここで大蔵の名を出すことに多少の罪悪感を覚えたが、この窮地を逃れるためには致し方なかった。
だが、中沢は追求の手を緩めない。
篠原を指してさらに問い質した。
「だが、この彼の言葉は南の方の訛りだ。薩摩のお方か?」
「拙者は浪人ではない。久留米藩家老、有馬右近様の中間である。お疑いとあらば、三田の久留米屋敷に検められよ」
見栄っ張りの篠原は前歴を名乗り、ブラフを掛けた。
中沢はフンと鼻を鳴らし、今度は加納の隣に立つ佐野の袴に目を落とした。
「実は、横浜でフランスの陸軍士官が殺される事件があってな。不審な浪人を取り締まるよう、公儀からお触れが出ているのだ」
「私たちが、そうだと仰るのですか」
中沢は、顎で佐野の袴の裾を指した。
「そのシミは血の跡か?」
一瞬、辺りの空気が凍りついた。
佐野と篠原が密かに目配せを交わす。
(やるしかないか…)
一触即発の危機に助け船を出したのは、三木荒次郎だった。
「やあ、加納さん。こんな処でどうなさいました?」
加納が事情を話すと、荒次郎は笑いながら身元を請け負った。
「お勤めご苦労様です。面相の悪い者ばかりでお疑いはもっともだが、彼らは神道無念流の同門です」
「あなたは?」
中沢が問い返す。
荒次郎はズカズカと中沢に歩み寄り、愛想笑いを浮かべた。
「拙者は伊東道場の主、伊東大蔵の実弟、三木荒次郎と申します」
中沢は荒次郎の顔をじっと見据えた。
「…なるほど、少し似ているな」
「ほう!兄をご存じで?なら話が早い。ただ、ひとこと言わせて頂けば、私の方が少しばかりいい男ですがね」
中沢は軽口に閉口すると、背後の隊士たちに道を開けるよう合図した。
「各々方、せいぜい怪しまれるような振る舞いは謹まれることだ」
しかし、このような衝突は、もはや珍しい光景ではなかった。
このあとも政情不安は深刻化の一途を辿り、清河を失った浪士組は、この年の十月、幕府より江戸市中警護、および海防警備の任を正式に命じられた。
元治元年三月二十七日。
攘夷の勅にのらりくらりと応じない幕府に業を煮やした藤田小四郎が、同志六十人余りを結集し、即時鎖港の要求を掲げて筑波山で挙兵した。
世に云う「天狗党の乱」である。
その火種は関東一円に飛び火し、志士たちの血を沸騰させていた。
そして八月。
上野山下の料理屋「伊勢屋」で、雁鍋を囲む有志の集まりが計画された。
宍戸藩主・松平頼徳(宍戸は水戸の支藩)が水戸侯の名代として天狗党との会談に臨むにあたり、これを盛り立てようという人々である。
彼らは松平頼徳が天狗党の後ろ盾になると信じている。
彼らは後に「大発勢」として歴史に名を残すが、その決起の場に、伊東甲子太郎一派の姿があったことはあまり知られていない。
深川、伊東道場。
発起人・榊原新左衛門からの檄文を受け取った大蔵は、重苦しい沈黙の中で道場の面々に口を開いた。
篠原泰之進が加盟者の連名を一瞥し、眉を寄せる。
「故郷、久留米藩の者も名を連ねているようだ」
大蔵は吐き捨てるように言った。
「ばかばかしい。諸生党との内紛を煽るばかりではないか」
諸生党は、市川三左衛門を中心に結成された保守・門閥派の政治団体で、藩校・弘道館の書生を中心に構成され、尊王攘夷を掲げる「天狗党」と激しく対立、武装抗争を繰り広げている。
大蔵は加担を躊躇った。
私怨と権力闘争が入り混じる水戸の泥沼に、足を踏み入れる価値を見出せなかったからだ。
一方、新徴組と名を改め、庄内藩預かりとなった元浪士組は、上野で不逞浪士の集まりがあるとの情報を嗅ぎつけ、蜂起の現場に踏み込もうと準備を整えていた。
その日の昼、新徴組の中沢良之助は深川の道場に大蔵を訪ねた。
「今日は家で本でも読んでいろ」
中沢は大蔵に忠告した。
「なぜ?」
大蔵の問いに、中沢は声を潜めた。
「惚けなくていい。垂れ込みがあったのだ。山岡鉄太郎は上野で攘夷派の集まりがあることを嗅ぎつけ、あんたもろとも一味を一網打尽にする気だ」
大蔵は眉をひそめた。
なぜ新徴組がそれを知ることができたのか。
あの檄文を受け取った者の中に密告者がいるのかもしれない。
「理由は聞くな。浪士組は今日、上野界隈を虱潰しに当たる。俺たちには、暮れ六つ(午後六時)に寛永寺の境内に集まるよう下知があった」
それが本当であれば、新徴組はまだ正確な会合場所までは特定していないらしい。
「私にあなたを信用しろと?」
中沢は諦めたように溜息をつき、複雑な心情を吐露した。
「白状すれば、清河が死んだのを目の当たりにしたとき、俺は何か大切なものが失われたような気がした。認めたくはないが、彼の中にあったこの国のあるべき姿に、知らず知らず惹かれていたのかもしれん。彼の作った新徴組が、彼の掲げた理想の芽を摘むのは見るに忍びない」
「おやおや、驚いた心変わりだ」
中沢は少し高ぶった様子でその言葉を打ち消した。
「勘違いするな。清河が奸物だという気持ちは今も変わらないし、自分の生き方を変えるつもりもない。だが…あんたも、連中と徒党を組むくらいなら、自分のやり方を貫くべきじゃないのか」
それは、かつて大蔵が荒次郎に語った冷徹な理想とは、正反対の熱を孕んだ言葉だった。
「…君の意見は承った。知らせてくれて礼をいう」
大蔵は、中沢の背中を見送りながら考え込んだ。




