西波止場 Part4
篠原たちはイギリス水兵を縛り付けて野毛浦(現在の桜木町駅辺り)海岸通りに引っ張っていくと、猿轡をかまし、蹴り倒した。
陽が沈むのもすっかり早くなった。
佐野七五三之介は、足元で呻くエドワーズ中尉の肩をポンと叩き、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「横浜港に沈む夕日でも眺めながら、海の向こうの母国を懐かしんでくれ」
加納道之助は波打ち際で大きく深呼吸した。
「ふん、胸の透く思いだ」
「ああ。スッキリした」
大村安宅も、昨夜からの鬱憤を晴らした顔で頷いた。
六人は、砂を噛むイギリス人たちを置き去りにして、意気揚々とその場を引き揚げていった。ただ一人、リーダー格の篠原泰之進の表情だけは浮かない。
夜の帳が降りた砂浜では、アポネの亡骸も打ち捨てられた流木と区別がつかなかった。
大蔵に連れられて現場に戻った勝は、月明かりの中に横たわるこの黒い「塊」を見て絶句した。
「あなた正気なの?」
「私が取り乱しているように見えるか?」
繰り返す波の音を聴くうち、勝はわずかに冷静さを取り戻した。
「でも…彼はアメリカ人よ。こんなことして、ただで済むわけない」
暗がりの中で大蔵の口角が、ニヤリと吊り上がったように見えた。
「いいから手伝え」 彼はそう言うと、桟橋にあった小舟に死体を載せ、石を抱かせて菰を被せた。
「この港は山師みたいな連中の吹き溜まりだ。青い目をしていても、人間の業というやつは変わらないらしい。こいつも、関内で悪さを働くときはアボットというアメリカの武器商を名乗っていたが、実際はフランス人さ。仮に奉行所がアメリカ領事館に問い合わせても、アボットなんて商人の名はどの公文書にも載っていない。そんな男は初めからこの世にいないんだからな」
「…抜け目ないわね」
大蔵は小舟をもやいでいた縄を解き、勢いよく蹴り出した。
小舟は波に揺られながら、ゆっくりと沖の方へ離れていく。
都合のいいことに、横浜村ではラグーンと呼ばれる浅瀬部分が江戸時代の早い段階で新田として開発されており、海岸線のすぐ先には水深の深い海があった。
「もっとも、その心配もあるまい。あの船には大穴が開けてある。奴が海の底に着くころには、鱶の餌になってるだろう」
大蔵の酷薄な一面を垣間見た勝は、ゾクッと身を震わせた。
星の降るような夜だった。
勝はか細い声で「あの歌」を口ずさみながら、十二天の杜を歩いて行った。
大蔵は、その声を拾いながら、ゆるゆると後へ続く。
♪Nous n'irons plus au bois,(もう森へなんか行かない)
Les lauriers sont coupés,(月桂樹は切られてしまったから)
La belle que voilà
Ira les ramasser.(この娘がそれを拾い集めにいくわ)
Entrez dans la danse,(踊りましょう)
Voyez comme on danse,(ほら見て、こうやって踊るの)
Sautez, dansez,(跳んで 踊って、)
Embrassez qui vous voudrez.(お気に入りの子にキスしましょう)
La belle que voilà Ira les ramasser.(この娘がそれを拾い集めにいくの)
Mais les lauriers du bois,
Les lairons nous couper?(でも月桂樹は切られたまま?)
Mais les lauriers du bois,
Les lairons nous couper?(月桂樹を切られたままにしておいていいの?)
Non chacune à son tour (いいえ、一人ずつ、)
Ira les ramasser.(順番に拾い集めに行きましょう)
やがて視界の先に運上所が見えたとき、勝は立ち止まって大蔵を振り返った。
そして、いきなり大蔵の両肩に手を置き、その唇に静かにキスをした。
「あなたのこと好きよ。でも多分…そうね、もう私、ついていけない」
翌日、事態は一変した。
波止場には、昨夜の報復を誓う大量のイギリス水兵が降り立ち、血眼になって襲撃犯——篠原たちを探し始めた。
が、番所付下番のお役目がある篠原らは、公務の見回りのために関内に立ち入らざるを得ない。
笠を目深にかぶり顔を隠して歩くが、辺りには一触即発の不穏な空気が立ち込めていた。
「ふん。奴らには日本人の顔はみな同じに見えるというではないか」
佐野七五三之介は、虚勢を張り、篠原が止めるのも聞かず、大胆にも弁天町を独り歩きしていた。
今日ですべてを終わらせると決めた大蔵は、危険を承知で関内に残っていた。
荒次郎と勝は日本人街の商家に金を握らせて、朝まで匿わせてある。
大蔵は佐野の動向を察知すると、聴き込みに駆け回る水兵たちを港崎遊郭で待ち構えて、有用な情報を提供してやった。
「朱鞘の若いお侍なら、さっき見ましたよ」
(なに?どこだ?)
「あっち」
大蔵は日本人街の方を指さした。
“Hey, look at that red scabbard guy!(おい、あの朱鞘の男を見ろ!)”
水兵の一人が叫んだ。
佐野七五三之介の朱鞘は、イギリス人たちにとって絶好の目印だ。
彼はその場で取り囲まれ、四方からエンフィールド銃を突きつけられたが、細い路地に逃げ込んで、寸でのところで危地を脱した。
「滝善」という陶器屋で、勝たちと落ち合う約束をしていた大蔵は、捕りものの様子を店先から盗み見て、思わず舌打ちした。
「ちっ、これだけお膳立てしてやって、一人も捕らえられぬとは。うすのろの水兵め」
思わず漏れた本音を、合流した勝と荒次郎に聞き咎められた。
「なに?」
「いや、何でもない」
大蔵は視線を逸らした。
カミュに直接手を下した佐野や大村をイギリスへの生贄に捧げてやるつもりだったが、思うように駒が動かない。
彼と一緒に脱出の機会を窺っていた勝と荒次郎は、そんな大蔵の思惑を知る由もない。
「不味いわ。彼ら、捕まったら殺される。だって昨日、運上所で私と一緒にいるところを見られてるもの」
「なに? そりゃどういう意味だ?」
勝は、問いかける荒次郎を無視して大蔵を直視した。
「岩亀楼でイギリス人と一緒にいた老人を見たでしょ?」
「ああ。あれは誰だ」
「神奈川奉行支配定番役頭取取締(かながわぶぎょうしはいじょうばんやくとうどりとりしまり)、窪田治部右衛門」
神奈川奉行と聞いて大蔵はおおよその筋書きを察した。
「…カミュの一件を内々に納めるための政治工作か。イギリスが日本とフランスの仲介に?」
「そう言えば聞こえはいいけど。いま横浜にいる外国軍人のほとんどはイギリス人よ。彼らは捜査権を持つ奉行所に圧力をかけている。窪田は、これ以上フランス人殺害の件に口を挟まないよう、イギリス側に金を積んで黙らせたってわけ。仲介と言うより、もみ消しね」
「お前はその場に居合わせたのか」
「ええ。密談の一部始終をこの目で見、この耳で聞いた。必要なら通訳も。だから、あたしやその事情を知る者には、生きてられちゃるってわけ」
大蔵は眉根を寄せた。
「バカな選択をしたものだ。関われば、あとで口を塞がれると思わなかったのか」
「あたしに、他の選択肢があった? 岩亀楼に着くまで何も聞かされてなかった。死ぬのを少しでも先延ばしにできるなら、やるしかないじゃない!」
「わかった。もういい」
大蔵は短く応えると、荒次郎に向き直った。
「お前たちは、加納を頼って関所を抜けろ」
「まてよ。兄上はどうする?」
まさか、ここで死ぬ気なのではと荒次郎は訝った。
「琴」が死んだと聞かされて以来、兄は時々ぞっとするような眼をすることがある。
「そんな(遊女の)恰好で現れたときは、こりゃそうとう自暴自棄になってるぞって心配になったが、そうじゃないよな?」
荒次郎の懸念は、当たらずしも遠からず、と言ったところだった。
「こんな格好で、加納達の前に姿を晒すわけにもいくまい?私は自分で何とかする。いいから行け」
大蔵は二人を追い立てた。
荒次郎と勝は、眼の色を変えて街を徘徊する水兵たちの眼を掻い潜り、
運上所に逃げ込んで、ようやく番所付下番の加納道之助たちと合流することが出来た。
「まだこんなところにいたのですか。一刻も早く関内を出てください!」
荒次郎の顔を見るなり、加納は声を荒げた。
「どうしろって言うんだ?お前たちは異人をふん縛って行っちまうし、いまは、女連れで関所を通れる雰囲気じゃない」
荒次郎が抗議の声をあげたところに、佐野が息を切らして戻ってきた。
「どうやら面が割れてるようだ。奴ら町中に網を張ってやがる。どうやら長居はヤバそうだぜ?」
上役である篠原は低い声で唸り、渋々関内脱出を決断した。
「こうなっては仕方ない。我らも彼らと一緒に関所を出よう」




