西波止場 Part2
半刻のち。
関内、西波止場。
佐野七五三之介は、カミュ殺害のほとぼりが冷めるのを待ち、
この日、報酬を受け取るため、人目を避けて波止場に武器商人アボットを呼び出していた。
「約束の金を貰いに来た」
アボットは慇懃に頷くと、財布を取り出して金を数え始めた。
“Je sais, je sais. Mais je ne peux pas dire que vous avez fait du bon travail. On vous a vus, et maintenant, c'est tout un boucan dans cette ville.(ああ分かってる。しかし、君たちはいい仕事をしたとは言えんな。現場を見られたせいで、いまこの町はちょっとした騒ぎになってる)”
例の学生がアボットの言葉を伝えると、佐野はいらいらした様子でやり返した。
「事件を調べるのは俺たち奉行所の人間だ。下手人は捕まらんよ」
“C’est bien. (なら結構)”
佐野は金を受け取ると、獰猛な目つきでアボットを睨みながら念を押した。
「言っとくが、これで俺たちは共犯だ。もし、俺たちを売ろうなんてしやがったら、あんたも一緒に地獄へ引きずり込んでやるから、そのつもりでな」
通詞の男がアボットに囁こうとするのを佐野は手で制した。
「訳さなくていい。この旦那にはちゃんと通じてるさ」
そこへ、運上所の方から歩いてきた三木荒次郎が割って入った。
運上所とは現在の税関で、イギリス領事館の目と鼻の先、西波止場の敷地にあった。
「おっと失礼。逢い引きの最中か」
「商談中だ。見れば分かるだろう」
佐野は露骨に嫌な顔をしたが、荒次郎は動じない。
「分かった、済まない。邪魔をする気はなかったんだが…役人のあんたには、一応言っておいた方がいいと思ってね」
「なんだ、急ぎの用じゃないなら…」
荒次郎は親指で、背後の運上所を指した。
「おっと、そうだった。俺は別に急いじゃいないが、中の連中はそうでもないようなんでね」 「もったいぶるな!」
「今、イギリス人どもが運上所の中で普請掛をぶん殴って、帳面掛を床に叩きつけたところだ。訴訟掛と月番掛が二人で必死に抑えようとしてるが、それもいつまで保つかは分からんよ」
「それを先に言え!」
佐野は、背後を振り返った。
運上所からは怒号と破壊音が聴こえてくる。
大蔵が仕掛けた「騒ぎ」が始まったのだ。
“Mon Dieu... ce singe croit vraiment pouvoir traiter d'égal à égal avec moi. Il va falloir que je lui apprenne sa place. Enfin, peu importe, ce maudit sous-lieutenant est enfin hors d'état de nuire. Il est temps de porter un toast ce soir.(やれやれ、あのサルは私と対等な取引ができる気でいるようだ。一度身の程を知らせてやらねばならん。ともあれ、これであの忌々しい少尉殿はいなくなった。今日は祝杯をあげねばな)”
アボットが港崎遊郭の方へ足を向けようとしたとき、堤防の石積みに腰掛けていた女が声を掛けてきた。
「…あら、赤毛の旦那。こんな昼日中から遊里通いかしら?」
伊東大蔵である。
アボットは足を止め、その涼やかな目元と洗練された立ち姿に目を細めた。
扇子で口元を隠してはいるが、その美貌は疑いようがない。
“Tiens, tiens... Une belle enfant égarée à une heure pareille ? Les quais ne sont pas sûrs, Mademoiselle. (おや、こんな時間に美しい迷い子か。波止場は物騒だよ、マドモアゼル)”
アボットも、近ごろ関内に出没する通り魔的な女の噂は耳にしていたが、好色な性質が警戒心に勝った。
「どうかしら。海を見ながら岬へ続く遊歩道を散歩なんて如何?」
アボットは陶酔したような笑みを浮かべ、女の差し出した白い手に自らの手を重ねた。
カションの倒錯した趣味に感化されていたアボットは、自分も一度あのような快楽を味わってみたいと切望していた。
「もういい。お前は帰れ」
通詞を追い払うと、アボットは女の手を引いて波除の石垣の影へと消えていった。
波音だけが響く砂浜、辺りに人影がないのを確認して、大蔵は口元を隠していた扇子を閉じて、アボットに顔を晒した。
「私が誰か分かるな」
大蔵はアボットの顔を見ながら静かに問いかけた。
流木に腰を預けたアボットが両手を拡げる。
“Oh, tu es encore plus belle que ce que j'avais imaginé.(おお、想像していた以上に美しい)”
色欲に目の眩んだアボットはまだ気づかない。
「…本当に、私の顔を覚えていないのか」
大蔵は懐からカションの鞭を取り出した。
それを見たアボットの顔から血の気が引いていく。
“Toi...?! C'est pas possible...!(お、おまえは…!)”
「この鞭のことは覚えていたようだな。いいか?よく考えて答えるんだ。返答次第では、お前は今日、ここで神に召されることになる」
“Je ne bite rien à ce que tu baragouines.(何をほざいているのか、分からんな)”
アボットが太々しく応えると、大蔵はニヤリと笑った。
「ムッシュー・アポネ、エ・ス・トワ・キ・ア・ゾルドネ・ドゥ・テュエ・ル・スー・リョートナン・カミュ? レポン・パール・ウィ・ウ・パール・ノン。(アポネさん、カミュ少尉を殺すように命じたのはあんたか?イエスかノーで応えろ)」
勝から教えてもらった、片言のフランス語。
「アポネ」という本名を暴かれて、男は顔色を失った。
"Je... Je ne sais pas ! Et ce n'est pas mon nom, je ne m'appelle pas Apponay !(し、知らん。それに私はアポネなどという名前ではない)"
アボットは恐怖に顔を引き攣らせながらはぐらかしたが、大蔵の返事は簡潔だった。
" C'est compris, Monsieur.(よく理解したよ。ムッシュ)"
この男を殺せば横浜の均衡は崩れるかもしれない。
だが、もう戻れない。
大蔵は隠し持っていた小刀で心臓を一突きして、ゆっくりと捻った。
「答えはその表情で充分だ。本当なら、お前の趣味に適うよう、恐怖を堪能させてやりたかったが、この着物を血で汚したくないのでな」
「…」
アボットは遠のいていく意識の中で恐ろしい白昼夢を見た。
我々アメリカ人は、今や日本人を支配しつつあるはずだ。
彼らは西洋文明の洗礼を受け、やがてはその教義や倫理観に染まるだろう。
だが、果たして本当にそうだろうか?
この得体の知れない民族は、自分たちの文明を貪り食い、取り込んでしまおうとしているのではないか。
遠い未来、この極東の蛮人たちは、我々の与えた科学文明を以て、より強大に肥え太っているかもしれない…。
それは、言い知れぬ恐怖だった。
やがて、悪夢は闇に溶けていった。




