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西波止場 Part1

大蔵おおくらは、約束の時間よりかなり早く関内へ入った。

いつものように遊女に身をやつしてはいるが、用心のためアイリスのかんざしだけは外した。

度胸試どきょうだめしのような無謀むぼうな賭けに乗るつもりはない。

度重なる襲撃を経験した外国人たちは、常に銃を携行している。

彼らを暗殺するには、周到な準備を重ねる必要があった。


港崎遊廓みよざきゆうかく煌々(こうこう)とした灯りが見えてくると、大蔵おおくら岩亀楼がんきろうの様子を伺った。

やがて、玄関から見覚えのあるイギリス将校が千鳥足ちどりあしで姿を現した。

「あれは、エドワーズとかいうイギリス将校…護衛ごえい付きか」

エドワーズ中尉は、二人の部下、クラウディとダンカン・ボイズという水兵を従えていた。

しかし、その後ろに続く男女の姿に、大蔵おおくらは軽い驚きを覚えた。

「お勝? …それに、あの男は誰だ」

それは田島勝(勝奴かつやっこ)と、初老の日本人だった。

身なりを見るかぎり、それなりの地位にある人物と思われる。

彼らの様子から推察すいさつするに、勝は玄関まで見送りにきた楼主ろうしゅとイギリス人たちの意思疎通いしそつうを助けて様子を伺ったいるらしい。

どうやら彼女は、自ら窮地きゅうちを切り抜け、彼らの通訳(通弁つうべん)という立場を勝ち取ったようだ。


この奇妙な状況に至る経緯けいいについて触れておこう。

拘束された勝は、関内の外、山手居留地やまてきょりゅうちのイギリス軍駐屯地(ちゅうとんち)に連行され、尋問を受けていた。


“なぜお前は英語ことばを話せる?”

エドワーズ中尉の詰問に、勝はけむに巻くような薄笑いを浮かべた。

“そんなに意外かしら。出島の厩番うまやばんが、アメリカさんの言葉を話せるようになったなんて先例もあるくらいです。その彼に言わせりゃ、馬も紅毛人こうもうじんも大差ないってことですわ”

“なんだと!”

部下のクラウディが気色けしきばんだ。

“いやですよ、あたしが言ったんじゃありません。その厩番うまやばんは馬とだって話せて、ですからまあ、異人さんに毎日おしゃくをする芸者が言葉を覚えたって、別に不思議はないでしょう?”

エドワーズは、女の機智きちに富んだ受け答えに少し興味を示し始めた。

“なるほど面白い。で?その厩番うまやばんは今どうしてる”

“さあね。通詞つうじとして軍艦奉行について、アメリカに渡ったとか”

“出来すぎた話だな”

“もちろん、そう良いことは続きません。馬と話す芸がアメリカの水兵さんにも気に入られて、調子にのった厩番うまやばんは、お役目もおろそかにもっぱら水兵と馬の通訳に明け暮れたそうです。ところが、とうとうお奉行の怒りを買って、船底にくさりでつながれちまったらしい”

“で?”

“でもね、それすら彼にとって罰にはならなかった。なぜって、船底には馬が繋がれていて、半年もかかる船旅の間、ずっと話し相手には困らなかったから。彼はその間、軍艦奉行の貧相なイチモツについて、馬連中が下品なジョークを言うのに笑い転げながら、快適な船旅を続けたって話です”

“まったく、おまえは面白い女だ。それから?その後どうなった”

“さあねえ。品川に船が帰港したとき、その厩番うまやばんの姿はなかったって話です。あるいは、向こうに忘れられてきたんじゃありませんかねえ?”

“そろそろ本当のことをしゃべったらどうだ?”

捕らわれた勝は、あくまで毅然きぜんとした態度を崩さず、過去の身分を明かした。

“あたしは長崎の御家人ごけにんの娘で、遊女あそびめじゃありません”

不埒ふらちな行いをすれば、外交問題にすると脅したわけである。

イギリス人たちが怯んだところで、彼女は取引を持ち掛けた。

“ですが、外交にかかわる家を出た者の務めとして、もしお望みなら、横浜に滞在中は通弁(通訳)として神奈川をご案内しましょう”


売女ばいたの言うことなど信用できるか”

エドワーズ中尉は取り合わなかった。

“いやまて”

将校のエドワーズはしばらく考え込み、申し出を呑んだ。

“ふむ…。いいだろう、おあつらえ向きの仕事がある。お前の提案に乗ってやろう”



大蔵おおくらは、大胆にも岩亀楼がんきろうを出てきた一行の前に身をさらし、知人を装って声をかけた。

「あら、お勝ちゃん」

「あ…どうも。こんにちは」

大蔵おおくらの正体に気づいた勝も機転を利かせて、二人はアイコンタクトで調子を合わせた。


大蔵おおくら艶然えんぜんと微笑み、すでにかなり酒の入っているエドワーズの胸板むないたに手をわせた。

入船町いりふねちょうにある『伊勢熊いせくま』という店をご存知? ここの牛鍋は絶品ですよ。宜しければ、わたくしがご案内しましょうか」

大蔵おおくらの放つ魔性ましょうのような色香に、イギリス人たちは毒気を抜かれた。

"Gyunabe, eh? Not a bad idea.(…ギュウナベか。悪くない)"

一行を牛鍋屋ぎゅうなべやへ誘い込んだ大蔵おおくらと勝は、甲斐甲斐かいがいしく酒を注ぎ、さらに彼らを泥酔でいすいさせた。


大蔵おおくらは頃合いを見計らい、勝を店の外に引っ張り出した。

海風に当たりながら、勝がふうと息を吐く。

「いつだって冷静なのね」

「別に礼はいらん。行きがかり上、たまたまお前を救うことになったというだけだ。…だが、そうだな。礼と言ってはなんだが、一つ協力してもらおう」

「ハア…なんなりと」

大蔵おおくらは、勝の耳元で密かに策を授けた。

「この後、西波止場にしはとばで荒次郎たちと落ち合うことになってる。お前は、上機嫌の連中を利用して、波止場はとばで騒ぎを起こしてくれないか」

「ちょっと待ってよ。女一人であんな酔っ払いをどうやって波止場はとばまで引っ張っていけって言うの?」

領事館りょうじかんも船も、西波止場にしはとばにあるんだ。ただ、帰るよう促してやればいい」

勝は疑わし気に大蔵おおくらの顔をのぞき込んだ。

「これって、何かの陽動作戦ようどうさくせん?」

「そんなとこだ。方法は任せる」

大蔵おおくらは素っ気なく応えた。


このひとは、また少し変わった。

勝は、大蔵おおくらの目の奥にうごめく、冷たい炎のようなものを見た気がして、少し怖くなった。


挿絵(By みてみん)



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