蟷螂の斧 Part2
大蔵は挑発的な笑みを浮かべた。
「では、試してみますか?」
佐野は、大蔵の静かな圧力に飲まれて、ごくりと唾を飲んだ。
その憂いを含んだ横顔を、篠原は薄気味悪そうに眺めた。
この青年は得体が知れない。警戒した篠原は話を逸らした。
「その気になっていただき祝着にござる。奴らが居留区でどれだけ傍若無人に振舞っておるか、私はこの眼で見ましたからな。アレをみれば、奴らを斬り捨てるのに僅かばかりの負い目も感じぬでしょう。ただ待っていても神風は吹かん」
荒次郎はふんぞり返って嘲笑を浮かべた。
「だが、あの時、あなたは尻尾を巻いて逃げたとお見受けしたが?」
篠原はムッとして腰を浮かした。
「貴方の連れていた、アレは娼婦だ。違いますか?私は、皇国に捧げるべき命を、取るに足らぬ小事のために捨てることをお諫めしたまで」
「…何だと?」
荒次郎と加納は耳を疑った。
だが、誰より先に詰め寄ったのは、これまで黙っていた服部三郎兵衛だった。
「話が違うではないか。窪田様に話をつけると言ったのはウソか」
「バカを言うな。わしは、政の潮目を読み、将来、攘夷という大義を成すために、利害得失を計れと言ってる」
「詭弁を弄するな」
服部が低く凄んだ。
大蔵は皆の怒りを逸らすように先を促した。
「ほう。興味深いお話だ。まあ、篠原さんの考えを聴こうではないですか」
服部の勢いにたじろいだ篠原は少し身体を引くと、虚勢を張るように胸を反らした。
「では机上論ではなく、実際にあった話を例に引きましょう。関内には各国公使の館があり、実は先日、そこから逃げ出した女が、今まさに紅毛人どもに連れ去られようという場に行き当たったのです」
「その女は、いわゆる羅紗緬ですか」
大蔵は、臆面もなく尋ねた。
「関内には港崎遊廓というのがあって、そこは外国人専用の汚らわしい遊女屋ですが。見るところ、女はそこから無理やり身請けされたようでした。妾にされることを恥じたらしい」
どこかで聞いたような話だ。
自らは、事もあろうか、あの金髪碧眼の軍人に心を奪われておきながら、紅毛人に身体を許した女を蔑むなど…自分にそんな資格はないな…。と大蔵は自嘲した。
しかし実直な加納は、関内の現実を何も知らなかったことに怒りを覚えた。
「関内では、そんなことがまかり通っているのですか!」
篠原は、それを無視して、街道で起きた出来事を少々脚色して披露した。
「揚心流で、その紅毛人どもを投げ飛ばしてやったところ、目を白黒させておりましたよ」
一同が感心する中、大蔵がクスリと笑った。
「何がおかしい」
嘘を見透かされたような気がした篠原は、真っ赤になって問い質した。
「いえ、篠原さんに痛い目にあわされた毛唐どもの顔を想像したら、何だか笑いが込み上げてきましてね。それで?」
大蔵は、冷静に取り繕った。
「そ、それで?」
「奴らはどうなりました?女は逃げたのですか」
「いや…わが身を儚んだか、女は私の見ている前で喉を突いて死んでしまった。不憫なことです。しかし、紅毛人に身を許した女の末期としては、まことに天晴な死にざまと言わねばならんでしょう」
荒次郎は喰ってかかった。
「だから、お勝も死んでいいと?勝手なことを言うな!お勝は数寄屋町の芸者で、外国人に身体を鬻ぐような真似はしていない!」
大蔵が、やんわりとそれを宥めた。
「落ち着け、荒次郎。篠原さんは、お勝のことを言ってるわけじゃない。ふるあめりかに袖はぬらさじ…そうですよね?実に立派な女性だ」
「ええ。名を『琴』といいました。もっとも、聞けたのはそれだけです」
刹那、大蔵は足元から地面が崩れ落ちる錯覚を覚えた。
(琴!)
そして、あのときの部屋の凍えるような寒さ、畳の匂い、軒から落ちる雪の塊の音、全てがフラッシュバックした。
誰もいない座敷で、喉に懐剣を突き立てて死んだ最初の妻みつ。
「なぜ、お前が死ぬのだ」
見つけたのは大蔵だった。
篠原たちがいつ、どのようにして辞去したのかすら大蔵は覚えていなかった。
焦点の合わない目で虚空を見つめる兄を尻目に、荒次郎が独り毒づいている。
「ふん、保身に走りやがって。あの篠原という男は、ただの小心者だ」
「…そうだな」
荒次郎はその空返事だけで、兄が姉のことを考えているのを悟った。
「まさか、姉さんが羅紗面に堕ちて、死んだと思ってるのか?琴などありふれた名だ…あの姉さんに限って、そんな訳があってたまるか」
「かもしれん。あるいは…」
「おいおい兄上!まさか、あの佐野とかいう男の挑発に敢えて乗っかり、関内に乗り込もうなんて、おかしな考えを起こしたわけじゃあるまいな?」
「…お前に、まだ話していないことがある」
「偶然だな、私もだ。実は、うちは先祖代々切支丹の家系でな」
ここに至って、まだふざけようとする荒次郎を、大蔵は冷ややかな視線で嗜めた。
荒次郎が肩をすくめ、自嘲的に嗤った。
「いいさ。好きにしろ」
「なにが?」
「私が何を言おうが、兄上は行くんだろ?止めはせん。だが、私も一緒だ」
「おいまて。私は…」
「件の琴という女性が何者であれ、外国人から理不尽な扱いを受ける謂れはないはずだ。そんな話を聞かされた以上、勝奴をこのままにしておくことは出来ん…」
荒次郎はそう言ってしばらく黙り込んだ後、兄に鋭い視線を投げた。
「…兄上は、あの女と寝たのか」
「ふん、バカな。分かっているはずだ」
大蔵は軽くいなす。
それを否定と受け取った荒次郎は、少し表情を和らげて立ち上がった。
「…私のせいなんだ。あの篠原という男は信用できん。兄上が何と言おうが、私は行く」
もっとも、大蔵にも横浜に行かねばならない理由があった。
「つまり、お前はあの女が好きなのだな」
「芸者が嫌いな男などいない。だろ?」
「恋慕の情に流されるなど、お前らしくもない。いや…おまえらしいのかも」
荒次郎は、照れ隠しにことさら大袈裟な身振りで否定した。
「私は至って本気だが、没落した武家の次男坊に身を固める甲斐性などないことは周知の通りさ。いつだって色恋の主導権は女にあるんだ」
一方、道場を辞した加納道之助は、悶々としながら東海道を歩いていた。
結局、最後までなにも聴けず仕舞いだった。
あの女の姿の大蔵は、自分の妄想が見せた幻覚だったのだろうか。
「いや、そんなはずはない」
思わず声が漏れて、大村安宅に妙な顔で見られた。
「なに?」
「いや、なんでもない」
大蔵はなにか目的があって、あの場所にいたのだ。
しかし、だとしたら、あの涙はどういうことなんだろう。
いくら考えても答えは出なかった。




