蟷螂の斧 Part1
隅田川の川面には薄い霧がかかっている。
季節は秋。
永代橋を渡る風も、もはや湿り気を失い、冬の予感を孕んで冷ややかだった。
橋のほど近く、伊東道場。
荒次郎が例のごとくズカズカと上がり込んできた。
彼は懐から例の水兵帽を取り出すと、兄に突き出すように渡した。
鈴木大蔵、改め伊東大蔵は不躾な弟に尋ねた。
「なんだこれは」
荒次郎は不機嫌に吐き捨てる。
「分からんが、しばらく預かっててくれ。誰にも見られるな」
「なに?また厄介ごとを持ち込む気か?」
「そんな顔をするなよ。こっちはそれどころじゃないんだ」
大蔵が荒次郎を睨みつけながら帽子の縁をなぞっていると、師範代の内海次郎が部屋に顔を出した。
「先生。加納が来ています」
「加納が? なら、案内など請わず、勝手に入ってくればよかろう」
「それが、篠原何某と仰るお連れ様と一緒のようで」
大蔵は少し眉をしかめ、何か思い出したように立ち上がった。
「……ああ、例の。すぐ行く」
内海は住み込みの弟子で、いつも大蔵のそばに影のように控えていた。
補佐役というよりは、寡黙な助手のような存在だ。
滅多にものを言わない男だが、この日は一言付け加えた。
「他にも、目つきの悪いのが数人…あまり、あのような連中とは関わらない方がよろしいかと」 「内海は心配性だな」
板敷きの間に通された加納は、「あの日」以来、初めて会う大蔵にどんな顔をすればいいのか分からずにいた。
しかし、現れた大蔵は何もなかったかのように、涼やかな顔で会釈して席に就いた。
大男が二人、そしてもう一人、小柄で顔立ちの整った吊り目の男が座っていた。
陽気そうな方の大男が、その体躯に相応しい大声で名乗った。
「筑州浪士、篠原泰之進と申します」
「鎗次郎、お客様にお茶を」
大蔵は幼い弟子に命じた。
「お勝の件はどうなった?」
兄の隣に座った荒次郎が、挨拶が終わるのも待たず口火を切ったが、篠原は泰然と茶を啜る。
「まあ、そう急きなさんな。お役所というのは、何事も時間がかかり申す。お奉行様にはちゃんと話を通してありますから、間もなく帰ってくるでしょう。気長にお待ちなさい」
篠原は湯呑を置くと、おもむろに話し出した。
「さて。加納君からは、先生のご高見と高い志をお聞きしております」
大蔵は加納をちらと見て苦笑した。
「先生はよしてください」
大蔵の振舞いを見る限り、あの日の出来事は自分の見間違いだったのかと、加納はかえって戸惑いを深くした。
篠原は、早速本題を切り出した。
「単刀直入にいきましょう。ぜひ我らの同志に加わっていただきたい」
「え?いや、今日のところは…」
性急な話の運びに加納が焦って制止しようとしたが、荒次郎がそれを遮った。
「ひとつ確認しておきたい。未遂に終わったが、あの清河八郎が異人街を焼き討ちしようとした事件がありましたね? あなた方は、異人を取り締まるというより、その窪田という男に体よくあしらわれて異人を護らされているのでは?」
それはまさに、加納が日々危惧していた実態を言い当てていた。
「それは事実ではない。窪田様は、清河が居留地を探る手引きをされた。我らの真の目的は、居留地に入り込むことによって諸外国の国情を探り、来るべき攘夷実行に備える事」
「それはどうかな。私は地獄耳でね。窪田様のご子息が、清河の腹心山岡鉄太郎に騙されて、彼らを関内に招き入れたと噂に聞きましたが」
荒次郎の舌鋒は、まるで熟練のジャーナリストのように鋭い。
彼の意外な情報収集能力に一番驚いたのは大蔵だった。
篠原は明らかにイライラして、声を荒げた。
「…それは、ご公儀を欺く方便でござる。そも、なぜ今さら清河に拘るのです? 私に言わせれば、浪士組は、僅かな給金欲しさにご公儀に尻尾を振った腰抜けだ」
大蔵がそこで口を開いた。
「だが、浪士組は黒船のいる横浜に戻ってきた。あるいはその逆なのかも」
吊り目の男、佐野七五三之介が大蔵の顔を覗き込んだ。
「浪士組のことなど今はどうでもいい。奴らが変節したのなら、御家人であろうが旗本であろうが斬り捨てるまで。…あんた、人を斬ったことは?」
「いや…」
佐野は小バカにしたように口元を歪めた。
「恐いのは最初の一度きりだよ」
「外圧に対して、差し迫った危機を感じているのは私も同じです。だが、その覚悟をどうやって証し立てろと?」
「簡単なこと。奴らの生白い首を刎ねればいい」
大蔵は意味ありげに佐野の眼を覗き込んだ。
「…まるで、斬ったことがあるような口ぶりだ。だが、生麦の頃とは訳が違う。あの厳重な囲みを破って紅毛人に一太刀浴びせるには、何か策を講じねばならんでしょう」
「奴らとて、それぞれの国益を背負ってはるばる日本まで渡ってきている。つまり一枚岩ではないから、実は付け入る隙もある。あとは、あなたの覚悟次第だが、フランス人を斬りたければ、アメリカ人に…」
得意げに手柄を吹聴しかけたところで、篠原が咳ばらいをして佐野の口を封じた。
だが、聡い大蔵にとっては、それだけで口を滑らせたも同然だった。
この男はアボットに金で雇われてアンリ・カミュを殺したのだ。




