ヨコハマ・アイリス
窪田治部右衛門から下された不審な女の捜索令に従い、
篠原たちは割り切れぬ想いを抱えたまま、提灯の灯り始めた関内・弁天通りの巡察に当たっていた。
だが、しんがりを行く加納道之助の心は此処になかった。
十二天の杜で起きたあの出来事以来、伊東大蔵のことが加納の胸を絶えずかき乱している。
謎めいた行動と、あの涙の理由。
(あれはなんだったんだ)
その時、先頭を行く篠原の鋭い眼光が、茶屋の店先に座る一人の女を捉えた。
「おい!そこの女、動くな」
有無を言わせぬ尋問口調。
しかし、能天気な声が緊迫した空気を破った。
「よお!加納君、きたよ」
茶屋の縁台から手を振っているのは、大蔵の弟、三木荒次郎だった。
篠原が目を付けた婀娜っぽい女性は、どうやら荒次郎の連れであるらしい。
「荒次郎さん。なぜここに?」
「昔からタコが苦手で海には近づきたくなかったんだが、兄上が見聞を広めるため黒船を見てこいとうるさくてね」
「はは、そうですか。では、巡察がてら、ご案内しましょう。ときに、このお方は?」
加納の立場上、連れの女性に触れざるを得ない。
「お勝ちゃんだ」
「はあ」
胡乱げに勝を眺める加納に、荒次郎は人差し指を立てて笑った。
「ここだけの話にしてくれ。男の一人旅は味気なかろう?下谷の芸者を連れ出してきた」
加納は呆れ果てたが、厳しい視線を放つ篠原の手前、ひとこと苦言を呈さざるを得ない。
「お嬢さん、その羽織、奢侈の禁令に触れるのでは?」
「お堅いこと言いなさんな。浜風がもう冷たいのよ」
気風の良さが売りの辰巳芸者、勝奴は取り合わない。
加納の案内で一行が目抜き通りを歩いていると、町会所の前で王立海軍の水兵たちと出くわした。
荒次郎が悪戯っぽい眼で笑った。
「ちょっと揶揄ってやろう」
「おい、よせ!」
篠原の制止も聞かず、荒次郎は軍人から水兵帽を買い取ろうと談判を始めた。
「そのへんてこな帽子を譲ってくれないか。なんなら私のタバコ道具と交換してやってもいい」
物怖じしない荒次郎の態度は、いかにも危なっかしい。
水兵は、どうやら難色を示している。
「何を言ってるのかさっぱり分からんが、気に入ったんだ。金なら払う。いくらなら売るか聞いてくれ」
荒次郎に促され、勝が流暢な異国語で仲介を始めた。
加納は目を丸くした。
「言葉がわかるんですか?」
勝は涼しい顔で答えた。
「フランス語やオランダ語なら。彼らの喋ってる英語はあまり得意じゃありません」
驚く加納たちに、荒次郎は得意げに笑う。
「彼女のお父上は、長崎で通詞(通訳)をやってたんだ。だから連れてきた」
しかし、勝と水兵の対話は徐々に雲行きが怪しくなってきた。
“You speak the lingo well for a Jap lass.(日本女にしてはずいぶん言葉が達者じゃねえか)”
“Maybe she's the spy they're talkin' about.(ひょっとして、例の女じゃねえのか?)”
赤ら顔の水兵の雰囲気が険悪なものへと変わる。
「なんで怒ってる?まさか君は、彼の目と鼻と口が顔の真ん中に寄ってるとか、なにか傷つけるようなことでも言ったんじゃないだろうな?」
勝は勘弁してくれという顔をして見せた。
「…あたしが“ヨコハマ・アイリス”じゃないかって、疑ってるみたい。誰なの?」
とはいえ、それが誰のことを指しているのか、勝にはよく分かっていた。
しかし、その名を聞いた瞬間、篠原たちの顔が引きつった。
“Oi there! You don’t look like one o’ the Miyozaki Yūkaku girls. What’re ye doin’ skulkin’ about Kannai at this hour, eh? Smells bloody queer, that does.(おまえは港崎遊郭の女には見えんな。こんな時間に若い女が関内を歩いているのは怪しい)”
水兵の瞳に嗜虐的な色が混じる。
次の瞬間、タトゥーの入った野太い腕が勝を組み伏せにかかった。
「おい、この野郎!何の真似だ!女の髪を掴みやがって!」
揉み合いのドサクサで、荒次郎がヤケになって水兵帽をむしり取ると、事態はさらに悪化した。
勝は逆上した水兵たちに腕を捻り上げられ、怒号とともに引き摺られていく。
事の成り行きを傍観していた加納ら番所付下番も、こうなっては黙っていられない。
「おいまて!」
加納が後を追おうとしたが、篠原に腕を掴まれた。
「何をする気だ。今騒ぎを起こすことは許さん」
「篠原さん! まさか女を置いて逃げる気か? 助けなくては!」
佐野七五三之介も刀の柄に手をかけて同調する。
「そうとも。奴らをまとめて始末するにはいい機会だ」
だが、篠原は冷静にそれを制した。
「奴らは銃を持っている。井土ヶ谷であんなことがあったばかりだぞ?今は辛抱しろ」
勝は一度だけ振り返り、加納を見た。
その瞳には助けを求める色はなかった。
「そんな悠長なこと言ってられるか!お勝が慰み者にされちまう!」
逆上して飛び出そうとする荒次郎の首筋に、体術に長けた篠原の手刀が入る。
荒次郎は声を上げる間もなく崩れ落ち、
篠原は彼を抱え上げると、舌打ちしてその場を離れた。
彼らは荒次郎を奉行所の長屋に連れて帰るわけにもいかず、吉田屋という料理茶屋の奥の間に運び込んだ。
荒次郎がなんとか意識を取り戻すと、篠原は詰め寄る仲間たちを諭した。
「安っぽい正義感を振りかざすのも結構だが、巻き添えは御免被る」
荒次郎は首の後ろをさすりながら激高した。
「あんたらが尻尾を巻いて逃げるのは勝手だ!なら私を放っておいてくれ!」
「三木君、まあ落ち着け。いずれにせよあの女は、奉行所に引っ立てられるんだ。先回りして、ゆっくりと向こうで待つさ。奉行所で身柄を預かれば、あとは窪田様が悪いようにはせん」
普段は無口な服部三郎兵衛が、その巨体で篠原に詰め寄った。
「信用していいのだろうな」
篠原は落ち着き払って酒を一杯煽り、口を開いた。
「不満なら、おぬしらで奉行所に斬り込めばいい。別に止めはせんが、それでは無駄死にだと思わんか」
荒次郎と服部は顔を見合わせる。
「窪田様とて、異人にいい感情は持っておられぬ。拙者は、あのお方と懇意だから口を利いてやる」
その言葉に、一同は渋々鉾を納めた。




