気乗りしない仕事
その日、篠原泰之進は神奈川奉行所を訪ね、この時間帯は使われていない公事場の一角で待つよう申し伝えられた。
遅れてやってきた支配定番役頭取取締の窪田治部右衛門は、公事台に腰掛けると、雪駄に目を落としたまま唸った。
「…無茶をしたな」
篠原は直立不動のまま、やはり苦渋に満ちた表情で下を向く。
「やつらは、異人が日本の女を襲っていたと…」
「お前たちが異人を殺めたことについて咎める気はない。だが、やり方が不味かったな」
「それは…」
窪田は顔を上げ、険しい眼で篠原を睨んだ。
「今回の件ではフランス警備隊ばかりでなく、プロシアやアメリカの領事までが現場に乗り出している。しかも、お前の間抜けな部下どもは、井土ヶ谷の住人に顔まで見られる始末だ!」
篠原は唇を噛んだ。弁解の余地もない。
「…申し訳ござらん」
窪田は押し殺した声で続けた。
「焼きがまわったか、篠原。奴らに隙を見せるな。お前たちの失敗で、私が弱みに付け込まれるのだけは我慢ならん」
「我らは、これからどうなるのでしょうか」
「この件は、すでに私の頭を飛び越えて、合原猪三郎様(神奈川奉行並)がお調べの陣頭指揮に当たられておる。村の連中には金を握らせて口を塞いでおいたが、いま私に出来ることはそれくらいだ。お前たちは怪しまれぬよう、日々のお役目を卒なくこなし、他にもこの件を知る者がいるなら…これで始末をつけてこい」
窪田は服紗に包んだ金を無造作に突き付けた。
受け取った篠原は、その手に伝わるズシリとした重みに驚いた。
十両はある。
事の重大さに背筋が凍る思いをしながら、篠原は金を袖に仕舞い、深々と頭を下げた。
「御意」
篠原に随行した大村安宅は、お白洲でのやり取りの一部始終を、部屋の隅に控えて見ていた。
二人が囁きあう声までは聴きとれないが、篠原が窪田から金を握らされている。
奉行所を出るなり、大村は篠原の背中に疑問を投げた。
「篠原さん? さっきのはなんだ…?」
「黙っていろ。お前は知らなくていいことだ」
篠原の冷徹な一言が、二人の間に見えない壁を作った。
その、一月ほどのち。
篠原泰之進以下、加納道之助、服部三郎兵衛、佐野七五三之介、元井和一郎、大村安宅の六人は、その日の朝、海岸沿いにある運上所に呼び出されて「気に入らないお役目」を言い渡された。
彼らは、ある事件の専従捜査を命じられたのである。
近ごろ、異人たちが通りに立つ女に斬りつけられるという不審な事件が散発していた。
当時、幕府は関内の街娼などを厳しく取り締まり、わざわざ外国人専用の遊郭まで作ってやったほどだったから、その女は法を犯して商売をしていたことになる。
それでも客がついたのは、彼女が際立って美しかったからだった。
異人たちは、正体不明のその女の肌の色や、身につけているものから
「パームシュガー」とか、
「ヨコハマ・アイリス」とか、
あるいはただ単に「例のストリート・ガール」などと呼んでいた。
噂は独り歩きをはじめ、一か月ほど前、フランスのアンリ・カミュ少尉が殺された現場にもその女の姿があったなどという者もあった。
「その女を引っ立ててくるんだ」
命じたのは、窪田治部右衛門直属の部下の一人で、菰田元治という男だった。
定番出役、いわゆる士官で、篠原たちの直属の上司に当たる。
この指令の裏には、神奈川奉行すら力の及ばない上層部からの圧力があった。
あの武器商人アポネが、幕閣に手をまわしていたのだ。
カミュ暗殺の目撃者を、公権力を使って排除しようという腹づもりだ。
「おいおい、俺たちに夜鷹を捕まえろってかい?」
佐野七五三之介が喰ってかかった。
菰田は士官と言っても気の優しいところがあったから、部下たちの剣幕に少したじろいだ。
「在留の外国人から複数の被害が訴えられている。いいか、これも仕事だ」
納得のいかない加納は説明を求めた。
「どういうことです? 自分たちは、居留地の外に住む同胞を外国人から守っているはずでは? これではアベコベではないですか」
その拒絶反応は、理屈ではなかった。
二百年以上も外界から遮断されてきた日本人にとって、外国人への嫌悪はむしろ生理的な反射に近いものだ。
菰田は、諭すように道理を説いた。
「無論、我々の本分は、横浜の外国人を取り締まることだ。しかし、これは居留地の中で起きた事件だ。我々以外、他の誰が対処する?」
加納は、それでもまだ納得がいかなかった。
「本当に? こんなこと、考えたくもないが…ひょっとして我々は、居留地の外から攻め込む攘夷派から、外国人を護らされているんじゃないのですか?」
これでは講武所にいたときと同じではないか。
彼にとって、この疑念は日を追うごとに膨らんでいる。
菰田は答えに窮した。
彼自身がこのお役目をどのように捉えていたかはともかく、加納の問いは問題の核心を突いていた。
しかし、視点を変えれば、加納たちは「鎖国」という高い塀の中に捕らわれた無自覚な囚人だったと見ることもできる。
確かに、この頃、国論は開国と攘夷に二分されていたが、開国派に与したのは、あくまで国家上層部と一部の知識階級だけである。
これはつまり、囚人と看守の「世界」という概念に対する視野の違いが生んだ確執だった。
なぜなら、看守は塀の上に立って、外の世界を眺めることも出来たからだ。
窪田治部右衛門の信用を取り戻したい篠原としては、敢えて矛盾には目を瞑り、この任務を割り切って考えることで菰田を庇った。
「よさんか。そんなことがあるはずなかろう。だが、治安が乱れれば、割りを食うのは神奈川の領民だ」
「それはそうかもしれませんが…」
「ちっ! もういいよ」
加納と佐野は、納得できないまま渋々意見をひっこめた。
佐野は奉行所の門を出た途端、道端の石を力任せに蹴り飛ばしてボヤいた。
「ふん、腰抜けの幕臣どもが! まったくやってられん」
彼らは居留地の提灯がぽつりぽつりと灯り始めるのを、忌々し気に眺めた。




