井土ヶ谷事件
横浜居留地から約三マイル。
二人は井土ヶ谷という小村に出た。
森を抜けると、視界が急に開けた。
秋の陽を受けた田畑がゆるやかに広がり、刈り取りを待つ稲が風に揺れている。
遠くでは百姓が牛を引き、乾いた土道の上を野良犬がとぼとぼと歩いていた。
横浜の喧騒が、まるで別の世界の出来事のように遠い。
カミュは子猫をそっと地面に降ろすと、その後ろ姿に声を掛けた。
“Ne viens plus seul dans la forêt.(もう、一人で森へ来ちゃだめだぞ)”
子猫は一度だけ振り返り、か細い声でお礼を言うように鳴くと草むらの奥へ消えていった。
大蔵の頭の中には、まだあの歌がリフレインしていた。
Sautez、 dansez、(跳んで 踊って、)
Embrassez qui vous voudrez.(お気に入りの子にキスしましょう)
立ち上がったカミュが顔の目の前には大蔵の顔があった。
二人はしばらくの間、無言で見つめあった。
秋の風が、二人の間を静かに通り抜ける。
「さっさと要件に入ってくれ」
大蔵が急かすと、金髪碧眼の青年は、衝動的に“女”を抱き寄せ、口づけをした。
「な、何をする!」
大蔵は、カミュの胸板を突き飛ばし、自身も後ずさった。
“Je suis désolé. Tu étais si belle que je n'ai pas pu m'empêcher de t'embrasser(いや、すまない。貴方があまりに美しかったので、つい!)”
カミュは、何とか身振りで意思を伝えようとしながら、大蔵に歩み寄った。
しかし、実のところ大蔵もまた、相手の顔に魅入っていた自分に取り乱していた。
「汚らわしい!私を羅紗緬(外国人向けの娼婦)扱いするつもりか。それ以上、近寄れば、喉を切り裂く」
その声はかすれて弱々しい。
大蔵は、あの時カミュを受け入れた自分自身を認めたくなかった。
“Tu saignes.(血が出ている)”
「えっ?」
言われて初めて気づいたように着物を見ると、赤く血が滲んでいる。
“C'est une plaie ouverte. Laissez-moi la voir.(傷口が開いたんだ。見せろ)”
カミュは半ば強引に大蔵を抱き寄せた。
その瞬間、
懐に隠していた戦利品の拳銃が、乾いた音を立てて地面へ転がった。
“…Je savais que c'était toi qui l'avais volé.(…やはり、君だったのか)”
カミュは一瞬、その拳銃に視線を奪われた。
そして、視線を上げて大蔵のはだけた胸元に気づいた。
“Je ne pense pas… mais es-tu un homme(…き、君は…男なのか?)”
大蔵は舌打ちした。
“Je vois, c'est donc comme ça. Même sa voix ressemble à celle d'une femme. J'ai failli vous tromper complètement...(そういうことか。声まで女のようだ。すっかり騙されるところだった…)”
カミュの表情が変わり、彼はサーベルを抜いた。
“Vous êtes un Joi Shishi、 n'est-ce pas ? Que fais-tu ici ? Allez-vous vous déguiser en prostituée et assassiner un officier français ?(お前は攘夷志士というやつだな?ここで何をしている。売春婦に化けてフランス将校を暗殺するつもりか)”
それはすでに尋問口調に変わっていた。
「ふん。そんな言葉で捲くしたてられても、さっぱり分らぬわ!」
大蔵は拳銃を拾い上げ、カミュへ銃口を向けた。
しかし―引き金にかけた指は、動かなかった。
長い躊躇、
永遠に続くような沈黙を破ったのは、
カミュの背後から聴こえた激しい葉擦れの音だった。
草むらから人影が現れたかと思うと、
次の瞬間には白刃が閃いていた。
追って来た佐野らが、銃に気を取られて背後に無警戒だったカミュを斬りつけたのだ。
血飛沫が、秋の空気に散った。
牛を引く百姓が立ち止まり、遠巻きに様子を見ている。
野良犬が尻尾を下げて逃げていった。
佐野が牙を剥いた。
「毛唐が!所かまわずサカリおって!」
「よせ!私たちは話し合っていただけだ!」
大蔵の銃口が、佐野とカミュの間を交互に彷徨う。
カミュは肩を押さえながら、よろめきつつ馬にまたがった。
その血に染まった手を、大蔵へ差し出す。
“Jolie dame, voulez-vous venir avec moi ?(かわいいお嬢さん。僕とくるかい?)”
その声からは、先ほどまでの猜疑心が消えていた。
だが――
佐野たちが馬上のカミュへ殺到した。
刃が振り下ろされ、
差し伸べられていた右腕が、宙を舞った。
(カミュ!)
大蔵は叫びそうになる自分を必死で抑えた。
佐野と大村は落馬したカミュを取り囲み、
「よせ!」
制止する加納の叫びも空しく、
大蔵の目の前で刀を突き立てた。
鈴虫の声だけが、変わらず響いていた。
もう息をしなくなったカミュを見下ろして、加納は唇を噛んだ。
「…どうしてこんなことになった」
大蔵はただ茫然と加納の震える手を見つめていた。
「彼が何をした!なぜこんな、惨いことを…」
詰め寄る加納に佐野は冷たく言い放った。
「こいつは日本の土を踏んだ。理由はそれで十分だろ」
「それは国同士の問題で、彼の責任じゃない!」
加納は佐野の襟首をつかんだが、佐野はそれを振り払った。
「俺たちは同志であってお友達じゃない…それ以上言えば、白黒つけなくてはならんぞ」
「望むところだ」
刀に手を掛ける加納を大村が止めた。
「よせ。いま此処で揉めてどうなる。それに、こいつはもう死んでる」
その言葉に、大蔵の肩が震えた。
加納は舌打ちして、居合わせた「女」を振り返った。
「怪我はないか?だが、あんたもあんただ。若い女がこんな所に突っ立っていれば、誘われて当然だ。身持ちのいい女なら、こんな馬鹿な真似はせん」
加納に手をとられたとき、大蔵は、自分の感情に愕然とした。
(私は、この男たちに激しい怒りを覚えている?)
加納は、女の奇妙な反応に不審を覚え、その顔を見つめるうち、ハッとして思わず声を漏らした。
「い、伊東…先生…?」
女の正体に気付いた加納は、思わず後ずさった。
大蔵は加納の手を振りほどき、
そして絶命したカミュを見返りながら、森の中へと駆け込んだ。
(くそ、くそ!私としたことが…)
大蔵は、後悔に苛まれながら、森を駆けた。
加納は、大蔵の見せた表情に戸惑い、その場から動けなくなった。
「…泣いていた?」
森の奥で、大蔵は走りながら理解した。
涙が、とめどなく流れた。
「そうか、つまりそう言うことか」
呪われていたのは、自分たちだ。
黒船は、意図せず260年の呪いから、日本人を解き放ったのだ。
呪いに捕らわれた者と、呪いから逃れた者の対立。
それが、この騒乱の正体だ。
背後で、人々のざわめきが聴こえる。
佐野たちは、あとから追って来た二人のフランス将校の姿を見て、慌てて保土ヶ谷方面へ逃げ去った。
だが、その姿はすでに村人から目撃されている。
大蔵は夜陰に乗じて旅籠へ戻り、そこで一夜を明かすと、深川の道場へ帰り着いた。
妻の卯梅が、いつものように長屋門の前を掃いている。
「お帰りなさい」
大蔵は、まるで初めて見るように卯梅の顔を見つめた。
「どうしたんです…?」
卯梅が小首を傾げ、静かに声をかけた。
その心地よい声が、大蔵の脆弱な部分を突き刺す。
「すまない。…今日だけは、そばに居てくれ」
大蔵は震える手で竹箒を持ったままの卯梅を抱きしめた。




