十二天の杜
文久三年九月二日。
横浜、港崎遊郭。
番所付下番を務める佐野七五三之介と大村安宅は、岩亀楼の玄関先で足を止め、廊下を行き交う遊女たちの艶やかな姿を物欲しそうに眺めていた。
奥の座敷からは、三味線の音に混じって、どんちゃん騒ぎが漏れ聞こえてくる。
「なるほど。板頭の榮山てな、あの娘にちがいねえ。異人野郎にくれてやるには惜しい女だ。畜生、あの男、ケツを触りやがったぞ!」
佐野が忌々しげに吐き捨てると、大村も肩を落として同意した。
「ちぇ、結構なご身分だなあ。こっちは爪に火を灯すような生活にウンザリだってのによ」
「要するにだ、大村。金なんざ、あるとこにはあるんだよ。何をやるにしても、まず必要なのは金ってこった」
大村は目を剥いて、空っぽの両手を拡げて見せた。
「へえ?そりゃいったい何処に?」
「目の前に持ってる奴らがいるじゃないか。そこから金をいただく」
物騒な言い草に、大村は顔を強張らせて周囲を窺った。
「よせよ。こんなとこで油売ってんのを見られたら、あの口うるさい菰田にドヤされる…さあ、もう行こうぜ?」
大村が佐野の背中を押して大籬の前を通り過ぎようとした時だ。
「ドモ、ゴクロウサマ」
片言の日本語で声をかけてきた外国人がいた。
武器商人のアボット(アポネ)である。
アボットはうやうやしく頭にかぶっていた帽子を掲げ、お辞儀をして見せた。
その傍らには、二人と同じ年頃に見える通弁(通訳)の若者が控えている。
「あんたたち、ちょっといいかい?」
学生らしき通弁が二人に声を掛けた。
当時、運上所の前には「英学所」という語学の教育機関(ヘボン式ローマ字で知られるジェームス・カーティス・ヘボンが運営)があって、アボットはそこに通う下級武士の子弟や医者の息子など、金のない生徒たちに小遣い銭を渡して都合よく使っていた。
佐野が野良犬のような凶暴さで通弁に喰ってかかった。
「俺に言ってんのか?斬られたくなきゃ、あっち行ってろ。紅毛人の犬が!」
通弁は尊大に微笑み、なだめるように両手を振ってみせた。
「まあ、そう熱くなるなよ。アボットの旦那の言うことを聞いて損はないぜ?その証拠に、俺はあんた達よりずっと金を持ってるし、岩亀楼の花魁だって抱ける」
佐野は、通弁のぶら下げた餌に興味を示した。
「ふん、何の用だ」
「ちょっとした儲け話さ。おまけに、あんた達が嫌いな外国人を痛い目に合わせられる余禄つきだ」
佐野は、傍らに佇むアボットを横目で睨みつけた。
「どういうことだ。紅毛人同士の内輪もめか?」
通弁は、アボットが口を開く前に説明を始めた。
「同じじゃない。つまり、いいか?これは商取引における場外戦ってやつだ。アボットの旦那は、アメリカの内戦終結で大量に余ったエンフィールド銃を、お宅ら幕軍に安く譲ろうと骨を折ってなさるんだが、商売敵のフランス人がそれを邪魔してる。その手先を少々痛めつけてほしいってわけさ」
今度は、大村が身を乗り出した。
「痛めつけるってのは、どの程度だ」
「力自慢の奴なら、腕の一本も折れば済む話だが…奴は口八丁だから、まあ、そうさな。二度と口が利けなくなる程度とだけ、言っておこうか」
佐野の狂犬のような眼がギラリと光る。
「なるほどな…いくらだ?」
通弁はアボットとひそひそ話を始め、やがて佐野に向き直った。
「6ドルでどうかと仰っている。あーつまり、4両と2分ってとこか」
「安く見られたもんだな。ひと一人殺すのに、そんなはした金で…」
「おいおい、声が大きい。俺は殺せなんて一言も言ってないぜ?だが、いいか?奴は将校だ。事が済んだ後、身ぐるみを剥ぎゃいいのさ。連中が持ってるギラギラした短筒のグリップを見たことあるだろ?あれを売っただけで、いったい幾らになると思う?」
大村は、物騒な内容に腰が引けて、佐野の顔色を窺った。
しかし、佐野はいくばくの躊躇もなく決断した。
「いいだろう。だが、半分は前金でよこせ」
大村が狼狽えた様子で佐野の肩を掴む。
「お、おい!勝手に安請け合いしていいのか」
肩を掴む大村の手を、佐野は払い退けた。
「っせえな!交渉は俺に任せろ」
――かかった。
通弁はニヤリと笑った。
「アボットさんは、交渉成立と仰っている」
二人きりになると大村は佐野を問い詰めた。
「いったい、どういうつもりだ?」
「さっき言った通りになったろ。いいか?連中は悪どい方法で日本人から金を巻き上げてる。遠慮はいるまい」
佐野は懐にねじ込んだ前金の重みを確かめ、狡猾な笑みを浮かべた。
「そりゃそうだが、私利私欲のために…」
「おいおい、俺は攘夷の話をしてるんだ。奴らの金で奴らの船を沈める。そのお釣りで少しばかり遊んでも罰は当たるまい。妙案だろ?」
大村はゴクリと唾を飲み込んだ。
佐野の狂気に当てられたのか、じわじわと卑俗な欲望に飲み込まれていく。
「榮山の酌で酒を飲みながら、燃えるクロフネを見物か。そりゃ痛快だ」
「いいか?この件は篠原さんには内緒だぞ。あの人は窪田様に飼いならされてる。言ったって止められるのが落ちだ。下手すりゃチクられるからな」
「分かってる。これは天誅だ」
大村は頷いた。
その日の午後。
十二天の杜。
大蔵は勝奴に書かせた手紙をフランス公使館に届けさせ、この杜へカミュを呼び出した。
「私は奴と会って、なにをしようというのだ……」
懐に忍ばせた拳銃の重みが、今の自分には酷く場違いに感じられる。
攘夷の情念は消えていない。
だが、あの手紙に記された言葉が、熱病のように大蔵の思考を侵食していた。
一方、別の思惑を持った者たちもまた、この杜を目指していた。
カミュ少尉は、フランス陸軍アフリカ第三連隊兵舎を同僚と三人で乗馬に出たが、巧みに隙を突いて仲間を撒き、単身で密会現場へと向かった。
しかし「番所付下番」では、交代で関所の警備を担当しており、佐野たちが関外へ出る外国人を見落とすことはあり得ない。
「みろあの袖章を。奴が例の士官だ」
検問を務めていた服部三郎兵衛と元井和一郎が小さく合図を送ると、
物陰に潜んでいた佐野七五三之介と大村安宅、そこに加納道之助が加わり、後を追った。
山々が紅葉に染まる中、クロマツの木々は秋の訪れにも青々と色を変えず、ただ吹き抜ける潮風だけが季節の移ろいを感じさせる。
十二天の杜の奥深く、鈴虫の細い声が降り注ぐなかで、
アンリ・カミュ少尉とヨコハマ・アイリス(大蔵)は対峙した。
“Comment vont vos blessures, mademoiselle ?(傷の具合はどうだい。マドモアゼル)”
大蔵はただ無言で見つめ返した。
カミュは苦笑して肩をすくめ、自分の胸に手を当てる。
“Je m'appelle Camus. Je m'appelle Henri Camus.(私の名はカミュ。アンリ・カミュだ)”
「カミュ…」
“Oui. Quel est votre nom ?(そう。貴女は?)”
カミュは歩み寄り、もどかしげに、だが誠実な日本語で問いかけた。
「ドウスレバ私ヲ信用シテモラエマスカ?」
「ふん、それでは龍の首の珠でも持ってきてもらうかな」
大蔵はあくまで好戦的な態度を崩そうとせず、竹取物語になぞらえた謎かけを返した。
「おまえが会いたいというから呼び出したのだ。用件を言え」
カミュは少し眉を顰め、そして何かを伝えようとしたとき、
頭上の枝から心細げな「ミャー」という鳴き声が聞こえて、口を閉じた。
見上げれば、一匹の小さな黒猫が細い枝先で震えている。
"Pourquoi diable y a-t-il un chaton ici ?(なぜ、こんなところに猫がいるんだ)"
カミュが首を傾げて呟いた。
「まだ仔猫だ。犬にでも追われたか、あるいは夢中で鼠でも追ううちに降りられなくなったんだろう」
"Les Anglais ont un proverbe : la curiosité tue le chat.(好奇心は猫を殺すというからな)"
カミュは身をかがめ、背中越しに大蔵を見上げると、自分の肩をポンポンと叩いて見せた。“Montez sur mes épaules.(肩の上に乗れ)”
「まさか、肩に載れと?バカ、そんなことできるか」
大蔵は思わず一歩退いた。
今さら、武士としての矜持が邪魔をする。
“...Je sais que vous êtes en colère contre nous, les étrangers.(…君たちが我々外国人に腹を立てているのは知ってる)Je suis fidèle à mon pays, mais j'ai au moins de la peine pour vous... Mais la justice entre pays n'existe pas. Il n'y a que des gagnants et des perdants.(私は祖国に忠誠を誓っているが、君たちを気の毒に思う気持ちくらいは持ち合わせてるつもりだ…。しかし、国と国との間に正義などという概念は存在しない。あるのはただ、勝者と敗者のみ)C'est la seule vérité que je connaisse dans ce monde, ayant combattu en Italie, en Chine et aux Cochin-Chine d'une bataille à l'autre.(それが、イタリア、中国、コーチシナと転戦してきた私の知る、この世界唯一の真理だ)Cependant, il serait cruel d'imposer cette logique du monde humain à ce chaton, n'est-ce pas ?(とはいえ…その人間界の理屈を、あの子猫に押し付けるのは、さすがに酷というものだろ?)”
カミュは大蔵を見つめ、静かに問いかけた。
“Vous allez laisser ce garçon là et rentrer chez vous ?(君はあの子をそのまま見捨てて帰るつもりか?)”
子猫はさらに激しくミャーミャーと鳴いている。
「…くそ!しょうがないな」
観念した大蔵は、カミュの肩に手をかけ、その背へとしがみついた。
腕を伸ばし、枝先へ手を伸ばした瞬間、脇腹の弾傷がズキリと疼く。
大蔵は一瞬、苦痛に顔をしかめた。
カミュは大蔵を乗せたまま、素朴な歌を口ずさみ始めた。
“♪Nous n'irons plus au bois、(もう森へなんか行かない)”
大蔵は木の枝に伸ばした手を止め、振り返った。
「その歌は…」
下谷の夜に聞いた、あの哀切なメロディ。
大蔵は、歯を食いしばって子猫の首筋を掴み取った。
カミュは大蔵から子猫を受け取ると、懐に抱いて、愛おしそうにその小さな頭を指で撫でた。
カミュは馬の轡を取り、二人はそれから黙ったまま、ゆっくりと森を歩き出した。
秋の陽光が松の枝の間から差し込み、足元には無数の松ぼっくりが転がっている。
大蔵はカミュの横顔を見ながら考えた。
自分はこの男を、外国人たちを責められるのか。
姉のことがなければ、自分は清河が街を焼くのを知っても、それを止めようなどと考えなかった。
あの日、清河の目論見通り焼き討ちが実行されていれば、女子供を含めた外国人や、関内に住む同胞の多くも焼け死んでいただろう。
自分はそれを見過ごすつもりでいたのだ。




