恋文
初秋。
関内の西、現在も「フランス山」の名が残る小高い丘に、フランス陸軍アフリカ第三連隊猟兵の小分遣隊が駐屯していた。
まだ痛みの残る脇腹に顔を歪めながら坂を登りきると、兵舎を囲む鬱蒼とした木々は、徐々にその色を変えつつある。
遊女に扮した大蔵は、木立に身を潜め、建物の様子を伺った。
例のカミュという軍人を探して此処までやって来たものの、周囲には銃剣を構えた兵士が厳重に配されている。
その人数を見て、どうやらこのまま近づくのは危険だと悟った大蔵は、木の影をそっと離れた。
「…いったい私は何をやってるんだ」
色仕掛けで門番を篭絡するつもりだったが、見通しが甘かったようだ。
自らの無謀な思いつきを呪いつつ、とぼとぼと街道まで戻ってきたとき―。
「羅紗面!」
「売女!」
「廓に帰れ!」
薪拾いに来ていた数人の少年たちが、罵声を浴びせながら石ツブテを投げてきた。
村人にとって外国人相手の商売女は「売国奴」であり、無知な大人たちに感化された子供は、その意味すら知らずに彼女たちを蔑んでいる。
大蔵が扱いに困っていると、どこからか一人の夜鷹が現れ、棒切れを振り回して少年たちを追い払った。
「このガキども! やめないと、その腕をへし折ってやる!」
「うわ!鬼婆!」
「逃げろ!」
子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「…ありがと」
大蔵が小声で礼を言うと、その女は訝し気に大蔵の顔を覗き込んだ。
「ねえ、あんた」
「…ごめんなさい。あなたの縄張りを荒らす気はないの」
蚊の鳴くような声で謝って、脇を通り過ぎようとすると、女は大蔵の袖を強引に引き寄せた。
大蔵が振り返ると、女は無造作に一通の手紙を突き出した。
「これ。 あんたにって」
「…え? 誰から?」
ドキリと心臓が鳴り、一瞬、痛みを忘れた。
「青い目の旦那よ。あんたこれ、読めるの?」
「異人に知り合いはいない、客以外はね。なぜ、これを私に?」
「だって、アヤメの簪の女って、あんたでしょ?」
大蔵が芸者の勝奴から借りた簪にはアイリスを模った細かい彫金が施されていた。
この頃、横浜の外国人たちの間で関内に現れる謎めいた娼婦のことが噂になり始めていた。
もちろん大蔵自身知る由もないが、この謎の女は簪の華に擬えて“ヨコハマ・アイリス”と呼ばれていた。
大蔵は簪にそっと手をやり、観念して大きく息を吐いた。
「そういうこと…そうね、ひとまず預かっとく。ありがと」
「いいのよ、たっぷり前金を貰ってるから。あんた、いいお得意を捕まえたみたいね?」
夜鷹は品をつくって、小さく微笑んだ。
「そう思う?」
大蔵は、外国人に身を許した女に、わずかな侮蔑を込めて問い返した。
「ええ。彼、私にこう言ったわ。我々外国人のせいで、あなた方がひどい扱いを受けているのを申し訳なく思うって。けど、軽蔑されるべきは女性を差し出して媚びを売ろうとするサムライたちで、あなたには何ら恥じるところはないってね」
大蔵は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
「…あの男が、そんなことを?」
確かにそうかもしれない。
だとすれば自分も、石を投げたあの子供たちと同じくらい、愚かだったということだ。
翌日、下谷の料理茶屋。
大蔵は窓縁に腰掛け、しめやかな雨の音に耳を傾けていた。
傍らには、キセルを燻らす勝奴が座っている。
「それにしても、私を呼び出した用件がお酒のお相手とは意外ね。ひょっとして、こないだのお礼のつもり?」
「駕籠代や看病代を服紗に包んで返すなんて無粋だろう? 私にも酔いたい日はある。だいたい、芸者に酒の相手を頼んで驚かれたのは初めてだ」
勝奴はキセルを吹かしながら、あまりこの話題に興味のなさそうな大蔵を横目で睨んだ。
「普通のお座敷遊びなんて、物足りないのかと」
「でもない。例えば、君の出自など酒興をそそるじゃないか。フランス語を話す芸者など聞いたことがない。立ち入ったことを訊くが、ひょっとしてお父上は身分のある方なのでは?」
勝奴はキセルを置いて、大蔵に酌をした。
大蔵は、まだ弾傷が痛むのか、盃を差し出しながら少し顔をしかめた。
「よしてくださいな。この通りの下町育ちで、生まれは下谷御徒町の柳川横丁。父は、しがない飾り職人ですよ」
であれば、このすぐ近所だ。
勝奴の父は腕のいい飾り職人で、あのアイリスの簪も彼女の父が彫金を施したものだった。
アヤメはフランスの国花で、元々は外国向けのお土産として作った品を、気に入った勝奴が譲り受けたのである。
「だが、その続きがあるんだろう?」
勝奴は諦めたように溜息をつき、先を続けた。
「ええ、そう。父は外国人相手に珊瑚や瑪瑙の買い付けをするうち、片言ながら外国語を覚えましてね。その噂が、どこからどう伝わったものか、ご公儀の御召しがあって、あれよあれよのうちに、気が付けば長崎の出島詰めで通詞並のお役目に納まったんです」
「では、君も長崎にいたのか?」
「ええ」
「通詞と言えば、歴とした幕臣だろう?たいそうな出世じゃないか」
「まあ、そうなるのかしら。そんな訳で、あたしの周りには子供のころから異国の言葉が溢れていたの。ですから、彼らの言葉をいつから使えるようになったかなんて、考えたことすらありません。でも、こんなお話は退屈でしょう?」
大蔵は傷の痛みを誤魔化すように盃を飲み干したが、その味は分からなかった。
「…実は、これを読んでもらおうと思ってね」
大蔵は懐から、あの手紙を取り出した。
「恋文?馴染みの芸者に、ずいぶん酷なことをなさるじゃありませんか」
「無粋は承知だが、なにせ相手がフランス人とあっては勝手が違ってな」
大蔵の真剣な表情を見て勝奴は黙り込んだ。
やがて。
「…そんなあたしが、なぜ辰巳芸者に身を堕としたか、お聞きにならないの?」
ひらりと要件を交わされた大蔵は、苦笑した。
「もし、聞いてよければ」
「父は、生糸の取引などで、外国人と外で会う機会も多うございましたから、そのうち攘夷論者の長州人からつけ狙われるようになりましてね。夜道で斬りつけられて、あわや命を落としかけたなんて事もしばしばで、いよいよ家内も危なくなったというので、あたしと縁を切り、江戸に送り返したんです。けど、こっちには父の職人仲間くらいっきゃ頼る伝手もありません。渡されたお金もたちまち底をついて、後はもう、女ひとりで生きていくのに仕事なんぞ選んじゃいられませんものね?」
勝は澄ました顔で笑ったが、聞けば波乱万丈、驚くべきバイタリティだ。
大蔵は、どう返せばいいのか、言葉に詰まった。
沈黙の後、勝奴はすっと手を差し出した。
「それ、拝見しましょう」
大蔵が手紙を渡すと、勝奴は部屋の隅にあった床几に片肘を預けて、目を走らせる。
やがて、大蔵が見たこともない羽根のついた筆を執ると、半紙にサラサラと文字を書きつけて、推敲するようにそれを眺めた。
「…貴方の傷を心配してる。ねえ?これってどういう意味かしら。『失くしたものを想う時、アイリスの香りが恋しくなる』」
勝奴はペンの羽根を唇にあて、眉を寄せた。
大蔵はその問いをはぐらかすように話題を変えた。
「君の本当の名をまだ聞いてない」
「勝よ。田島勝」
大蔵は、その答えを引き取って、釘を刺した。
「そうか。ではお勝、分かっていると思うが、この件は弟にも内密に」
「結局、あたしの身の上話ばかり…変なお客ね。あたしは芸者ですから、なんであれ、酒席での秘め事を口外したりしませんよ」
勝奴はぶっきらぼうに言って、手紙とその訳文を突き返した。
「なら良かった」
大蔵は目を通すこともせず、それを懐に仕舞い込んだ。
手紙が触れる場所が、また熱く疼いた。
「…やっぱり、貴方は釜次郎さんに似てる」
釜次郎とは、幕臣榎本武揚のことで、勝奴こと田島勝とは、この下谷界隈で一緒に育った幼馴染だった。
榎本はこの頃、海軍技術や国際法などを学ぶため、幕府からヨーロッパに派遣されていた。
彼女はその縁で、のち、歴史に名高い宮古湾海戦において、新選組の土方歳三とフランス士官たちをつなぐ重要な役割を担うことになる。
【用語・地名・人名】
・フランス山:横浜開港場(現在の横浜市中区山手町・港の見える丘公園の一部)にある小高い丘。文久3年(1863年)から明治初年にかけて、居留地防衛を名目にフランス陸軍の歩兵や猟兵部隊が駐屯したことからこの名で呼ばれた。
・小分遣隊:本隊から切り離され、特定の警備や偵察などの任務のために一時期だけ特定の場所に配置された、少数の兵力による部隊。
・銃剣 歩兵が使う小銃(ライフル銃)の銃口の先端に装着する刃物。白兵戦(近接格闘)のほか、劇中のように警備兵が警戒や威嚇のために構える。
・夜鷹 江戸時代、主に夜間に路上で客を引いた下級の路娼(私娼)のこと。貧民窟などに拠点を置き、ゴザを持って街頭に立った。特定の縄張り(営業エリア)を持ち、困窮した女性が身を投じることが多かった。
・ヨコハマ・アイリス:大蔵が芸者の勝奴から借りた「アイリス(アヤメ)」の簪を挿して変装していたことから、横浜の外国人の間で呼ばれ始めた彼の通り名。
・出島:長崎港に築かれた扇形の人工島。江戸時代の鎖国体制下において、ヨーロッパで唯一国交のあったオランダとの交易が認められた国内唯一の窓口。
・宮古湾海戦:明治2年(1869年)3月、戊辰戦争(箱館戦争)中に岩手県宮古湾沖で発生した激しい海戦。旧幕府軍の回天丸が、新政府軍の最新鋭甲鉄艦を奪取しようと「アボルダージュ(接舷殴り込み)」を仕掛けた。この作戦には新選組の土方歳三や、旧幕府を支援したフランス軍人が深く関わっており、田島勝(お勝)が将来彼らの架け橋となる。




