デビルスター Part1
深川、伊東道場。
早朝。
祝言を挙げて間もないというのに、大蔵の態度は冷淡に思えるほど素っ気ない。
蜜月の甘さなど、最初からこの結婚には存在しなかったかのようだった。
卯梅が尋ねたいことは十指に余った。
何日も家を空けて、一体何処へ行っているのか。
なぜ時折、生々しい傷を作って帰り、それを隠そうとするのか。
その治療や、度重なる外出に使うお金はどう工面しているのか。
そして、何より彼女の胸を締め付けるのは、帰宅した大蔵の着物から微かに漂う、あの白粉の香りだ。
それは自分が嗜む香気とは違う、夜の街の女の匂いだった。
けれど、いざ面と向かって大蔵と眼を合せると、その氷のような双眸に射すくめられ、何も言葉が出てこない。
彼の瞳の奥には、自分など到底入り込めない、昏く燃えるような「何か」が常に居座っている。
卯梅は、震える手でしょんぼりしながら膳を片付けた。
「また、お出かけになられるのですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど細かった。
大蔵は袴の紐をきつく締め直し、一度もこちらを振り返ることなく答える。
「ああ。帰りは遅くなる」
その背中を見送る時、卯梅の胸に込み上げてきたのは怒りではなく、鋭い痛みだった。
ああそうだ。私はこの人のことが、本当に好きなのだ。
卯梅は今さらそんな残酷な事実に気づいて、なぜか打ちひしがれた気持ちになった。
横浜、関内。
遊女の衣装に身を包み、この異界に足を踏み入れると大蔵のスイッチは切り替わる。
本町通りまでやってくると、会津屋徳兵衛という商人が声を掛けてきた。
彼らは輸出入の仲介や、幕府の通貨交換(両替)、外国人居留地への物資調達などを生業にしている。
「姐さん、こんなとこで客を取っちゃ、番所の下っぴきにしょっ引かれるぜ?」
ちょうどいい鴨が釣れた。
大蔵は指先でしなを作り、濡れたような瞳で応じた。
「けど、親切なお客が釣れた」
「へへ、それって俺のことかい?」
「あたしね、本当は神奈川宿の飯盛り女なんだけど、お使いついでに物見遊山に来たってわけ。でも、そうね。案内してくれたら、何でも言うこと聞いたげる」
徳兵衛は鼻の下を伸ばしながらも、それ以上近づこうとしない。
「あんたみたいのと通りをほっつき歩いてたら、おっかないカミさんに見られちまう」
「大丈夫。あたしが見たいのは、あっち」
大蔵は優雅な手つきで、石畳が続く通りの向こうを指した。
「あっちって…向こうは異人連中の街だぜ?」
「それがどうかした? 行ったことくらいあるんでしょ?」
「そりゃまあ。俺たちは奴らと商売するためにこんな処に住んでるんだからな」
徳兵衛の案内で、外国人居留区の奥に入ってゆくと、レンガ造りの建物が並ぶ一角に、日本人たちが「天主堂」と呼ぶカトリックの教会が建っていた。
金色の十字架を頂いた鐘楼をもつ、小さなゴシック風の建物である。
「ここは?」
「ああ、天主堂と言って、切支丹の寺院さ」
「ふうん」
気のない返事をしたが、目的地はまさにここだ。
港崎遊郭を足抜けした喜佐子は言っていた。
琴はフランス公使お抱えの茶坊主が身請けして、妾にされた、と。
すると正面玄関から、他の外国人とは明らかに違う、スータンと呼ばれる黒い司祭服を着た男が現れた。
手には黒光りするステッキを持っている。
大蔵には、それが得物であるように見えた。
「寺院から出てきたあの黒ずくめは、つまり聖職者か……」
徳兵衛は小バカにするように鼻を鳴らした。
「聖職者ねえ? もうひとりのジラール神父の方はなかなかの人格者で、実のところ日本人街にも密かに慕う者があるんだが、あのカション神父はてえと……まあ、あまり良い噂を聴かねえな。怪僧なんてあだ名で呼ぶ奴もいるくらいだ」
全身黒ずくめの装束に、禿げ上がった額、油断のない鋭い眼つき。
なるほど、怪僧と呼ばれるのもうなずける風貌である。
怪僧カションは、当世風のラウンジスーツを着た小太りの中年外国人を付き従えていた。
大蔵は、カションと目が合ったのを感じた。
カションは大蔵をじっと見つめたまま、何事か考える風に人差し指を顎の先に沿わせると、ゆっくりとその指を大蔵に向け、お付きの男の耳元に何事かささやいた。
お付きの男が大蔵たちに近づいてきて、身振りを交えながら意向を伝えた。
“Father over there wants to talk to you.”
おそらく「神父様が、貴方と話したいと申されている」といったようなところだろうと、大蔵も察した。
しかし、徳兵衛が横槍を入れる。
「おいおい、この女は俺様が先約だぜ? She's my girl!」
お付きも、徳兵衛の抗議を理解したらしい。
その男は徳兵衛の同業者らしく、速やかに彼を追い払うため、ポケットから出した一分銀を握らせた。
商談はあっという間に成立した。
「まいどあり! すまねえな、姉ちゃん。あのカションって男には気をつけな。とんでもねえ濡れ坊主だって噂だ」
「ふん、紅毛の坊主に三綱五常を説いても仕方あるまい」
大蔵は怯える様子もなく、されるがまま教会の前に引っ張って行かれながら、小声で毒づいた。
「ハレルヤ!美しいお嬢さんだ」
驚いたことに、カションは流暢な日本語を操った。
「ほ、これは話が早い」
大蔵は心の中でほくそ笑んだ。
「だけどなぜ、あなたのような娘さんが、こんな場所におられるのでしょうか」
カションは神職者らしく、慈愛に満ちた声で尋ねた。
大蔵は注意深く心に潜む侮蔑を押し隠し、楼門を見上げながら、涙に目を潤ませた。
「実は、私は港崎の遊女ではありません。もしかして此処に生き別れた姉がいるかも知れないと思い詰め、お咎めを覚悟でこのような格好で忍び込みました…よく考えれば、そうであったとしても、わたしに出来ることなどないのですが」
カションは嘆かわしそうに、首を横に振った。
「気の毒な。つまり姉上は、売られたのですね…私は楼主とも親しい。きっと力になって差し上げましょう」
「ほんとうに?」
大蔵はすがるような、期待に満ちた目でカションを見つめた。
「ええ。詳しくお話を聴かせてください。まず貴方のことを良く知らなくては」
その話が本当で、彼女が単なる「飯盛り女」ではなく、訳ありの生娘だとしたら思わぬ拾い物だ。
カションは、内心舌なめずりしながら、なおも甘言を弄した。
「少し歩きながら話しませんか?景色の良い海べりの小径を行った先に美しいクロマツの森があります」
その言葉の裏にある「ふしだらな目的」を、大蔵が察しないはずもなかった。
神父はこれまでも、そうやっていたいけな少女たちを森の奥へと連れ込んできたのだ。
カションは大蔵を関内の外に連れ出した。
といってもさほど遠くはない。
十二天社は、天狗の鼻と言われる岬の突端に在り、海を背にした拝殿を周りこめば、遠く木更津まで見渡すことができる景勝地だった。
その社を覆い隠すように群生したクロマツが「十二天の杜」である。
昔から、その森の奥には天狗が棲むと言い伝えられていた。
しかし、今や、外国人たちの行楽のための遊歩道などが整備されている。
岬の突端。
目の眩むような切り立った崖に辿り着いたところで、カションは同行させていた小太りの男を振り返った。
“That's enough, go, Abbott. Wait outside the forest. If anyone comes, call out.(もういい、行けアボット。森の外で待っていろ。誰か来たら呼ぶんだ)”
神父は、手引きをした商人を追い払った。
“Yes, Father Cachon.(はい。カション神父様)”
大蔵の耳が聞き覚えのある音を拾った。
「アボット…」
それが、きっとこの商人の名前だ。
喜佐子を辱めたアメリカ商人、その彼と偶然出会ったのだ。
「これが喜佐子の言っていた男か。なるほど好色そうだ」
大蔵は引き返していくアボットの背中を見つめながら、ニヤリと笑った。
二人きりになった途端、カションの態度は豹変した。
いや、本性を現した。
「私はね、対話というもので何某か得るものがあると信じている。例え、互いの思想や宗教が異なっていたとしてもね。まさにそうして成った条約によって、今、私はこの地に立っているのだから。
しかし時に…千の言葉より一つの行いが理解を深めることもある。さて。ピクニックを愉しみましょう。いまは、言葉より“行為”が、まず先に在るべきだと思わないかね」
カションはそう言って大蔵との距離を詰め、ねっとりとした手つきでその頬に触れた。
「やめてください!」
大蔵に手を撥ねつけられたカションは、大袈裟な身振りでため息をついて見せた。
「君たち日本人の妙な自尊心には、正直もううんざりだよ」
そして、うやうやしく聖書の一節を引用した。
「ローマ人への手紙8章33節―34節、神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が正しいと認めてくださるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるイエス・キリストが、神の右の座に着き、私たちのために取り成していてくださるのです…つまり私の解釈はこうだ。あなたたち日本人には、我々を断罪する資格など初めから与えられていない」
カションは、太い幹のクロマツに大蔵の背中を押し付けると、ポケットから二尺(約60㎝)程度ある革製の鞭を取り出した。
大蔵は怯えた目つきで訊ねた。
「それは?」
「これかい?これは苦行の鞭と言ってね。本来は改悛の苦行のために使う道具なんだが、なにしろ、この街ときたら物騒この上ないだろ?身を護るために持っているのだ」
カションは、幾筋もに分かれた鞭の先端を指で梳きながら、卑猥な笑みを浮かべた。
「さて、これでおまえを打てば、色欲の罪を犯すのと同時に、悔い改めることもできる。実に便利な道具だろう?我々は二人で楽しんだ後、背徳感に苛まれることなく、すっきりした気分でお別れが出来るという訳だ」




