台の茶屋
少し時間を遡る。
篠原泰之進は、二月をかけて、諸国の有志と交わったのち、江戸に帰って来た。
旅の中で彼が出会った人物の中には、故郷久留米藩で攘夷派を牽引する水野正名など、数名の大物も含まれており、大いに触発された彼は、横浜港に居座り続ける外国人を駆逐すべしとの決意を新たにした。
人の縁とは数奇なものである。
ほぼ時を同じくして。
篠原にとっては、扱心流体術の師にあたる窪田治部右衛門という男が、神奈川奉行の支配定番役頭取取締という大役をまかされることになった。
すなわち、開港場横浜の治安維持を一手に担う士官のトップである。
窪田治部右衛門が、まず手を付けなければならなかったのは、このエリアをカバー出来るだけの人を搔き集めることだった。
当時、外国人に許された行動範囲(遊歩規定)は、東は多摩川、北は八王子、西は酒匂川までと定められており、このボーダーラインには窮屈さを感じる外国人も少なくなかったが、管理する奉行所にとっては、手に負えない広さである。
そうしたわけで、ちょうど江戸に戻ったばかりの篠原泰之進にも声が掛かった。
恩師の下で働く武官「番所付下番」の徴募に応じるよう要請されると、篠原は喜び勇んで同志数人を引き連れ、ただちに横浜へと馳せ参じた。
彼らに与えられた役目は、横浜港関内を手分けして見廻る仕事で、不良外国人を取り締まるという。
そして、伊東大蔵の弟子、加納道之助も、篠原と行動を共にする同志の一人としてそこに加わった。
ところが、お役目に就いてしばらくもすると、篠原たちは宿場町の台の茶屋「田中屋」でサボるのが日課になっていた。
――そして、まだ残暑の厳しい季節。
切り立った崖の上に建つその店は、眼下に見える海の眺望を売りにしており、窓からは対岸の木更津まで見渡せて、そこが彼らのお気に入りの場所だった。
この頃、篠原泰之進が率いていたメンバーは、加納の他、服部三郎兵衛・佐野七五三之介・元井和一郎・大村安宅の5人。
加納は、手持ち無沙汰に窓の外へと視線を泳がせた。
港には20隻を超える軍艦が停泊している。
その手前の浜辺には、黒船を前にしながら、呑気に潮干狩りをする庶民の姿も見える。
どうやら緊張も長く続くと、感覚が麻痺してくるらしい。
大村安宅が加納の顔を覗き込んだ。
「何を考えてるんだ?」
彼は年の近い加納と仲が良かった。
「いや。おかしな感じだと思わないか?長閑なもんだ…」
大村は「キョ、キョ、キョ」と聴こえるような奇妙な笑い方をした。
「俺たちは、彼らの日常を護るために働いている。いいことさ」
彼は何処にでもいるような人の良い男で、なぜこのような人間が、殺伐とした攘夷の最前線に志願したのか、加納には不思議でならなかった。
ただ彼が自身を顧みることがあれば、凡庸という点においては大差ないことに気づけたはずだ。
現に加納は、このぬるま湯のような日常が当たり前になっている現状に苛立ちを覚えており、こうして普通の若者たちが、得体の知れない焦燥に駆られて、次々と動乱に身を投じていった雰囲気こそが、この幕末という時代の正体だったのかもしれない。
「あーあ!まったく忌々しい。我が物顔で居座りやがって!」
加納の気持ちを代弁する様に毒づいたのは、仲間の一人、佐野七五三之介だった。
憎しみを込めた目で軍艦を睨みつける佐野も、篠原が連れてきた猛者の一人で、身体こそ小さいが、剣術にも長けている。
元々は尾張の神職の出だというが、神に仕えるには少々血の気が多く、朱鞘などを差して攘夷志士を気取っていた。
その気性は、加納に、どことなく狂犬を連想させた。
「だいたい、奴らはなんだって、この国に居つきたがるんだ!交易が目的なら、用が済めば、さっさと帰りゃいい!」
加納は、窓越しに広がる水平線を指し示した。
「彼の国は遠く、この海の反対側にあるそうです。我々を隔てる大海原には大量のクジラがいて、彼らは鯨油を求めて波濤を越えてくる。日本が港を開けば、アメリカは横浜や長崎で食料や燃料の補給が出来るという訳です。しかも、この国を足掛かりにすれば、清との交易も可能だ」
アメリカ人がジャパングラウンドと呼んだ大捕鯨海域は、北海道と小笠原諸島、ハワイを結んだトライアングルの中にあって、産業革命のさなか、灯火用の燃料を大量に必要としたアメリカにとって、日本の港は、是が非でも手に入れたい中継基地だった。
実際、ペリー率いる東インド艦隊が浦賀に至った航路は、加納が指さした方角とは地球を逆に回るルートで、
東海岸のノーフォークから大西洋を渡り、陸伝いにケープタウンの喜望峰を回って、インド洋経由で日本に入っている。
実に半年以上に及ぶ航海だが、水や食料、燃料の安定した補給を考えれば、太平洋を横断するより、はるかにリスクは少なかった。
同じく長期の航海を余儀なくされる捕鯨船も、物資の補給は常に頭を悩ませる問題で、現状では安全策を採るため、この東周りの航路に甘んじている。
「ほう、物知りだな」
寡黙な服部三郎兵衛が、めずらしく感嘆を漏らした。
彼はギリシャ彫刻のような肉体と、彫りの深い顔立ちをした武人で、そのずば抜けた戦闘力は皆からも一目置かれている。
「剣術道場の師範の受け売りですがね」
その言葉に、篠原泰之進が非難めいた視線を投げた。
「ずいぶん夷狄かぶれの先生じゃないか」
「鈴木大蔵と言って、まずは敵を知らねばならんというのが先生の持論です。どうですか、一度お会いになられてみては?先生も篠原さんのお話に興味があると仰っていた。よろしければ、紹介しますよ」
鈴木大蔵、たしか以前にも、誰かからその名を聞いた覚えがある、篠原はそんなことをぼんやりと考えた。
「ふむ…考えておこう。が、そろそろ公務に戻らんとな」
「この店も飽きたな」
「入船町に伊勢熊という牛鍋屋が出来たんだ。行ってみるか」
「この南蛮かぶれが!」
笑い合う志士たちの背後には、漆黒の軍艦に埋め尽くされた海が凪いでいた。




