祝言の夜
伊東家の屋敷の内外は祝言の支度に追われ、門弟や手伝いの者が絶え間なく行き交っている。
家中は、かえっていつもより人の気配が濃かった。
白無垢の袖が廊下の角をゆるやかに曲がるたび、絹の衣擦れがひそやかに鳴る。
媒酌人を務めるのは、大蔵の師にあたる金子健四郎である。
武家における祝言は、単なる男女の契りではない。
家と家、また師弟の縁をも固める儀式である。
張り詰めた静寂の中、式三献――三々九度の盃が始まった。
金子の落ち着いた声が、座敷に静かに響く。
「比翼連理の契りを結び、末永く相和し給え――」
雄蝶・雌蝶に扮した童子が、朱塗りの盃へ酒を注ぐ。
一献、二献と重なるごとに、酒面は淡く揺れ、灯りを映してほの赤く光った。
卯梅の指先が、盃の縁でわずかに止まる。
伏せていた睫毛が上がり、真正面から大蔵を見据えた。
白粉の奥の瞳は、この瞬間、夫となる男の胸中を量ろうとしているようにも見える。
大蔵は五つ紋の黒紋付羽織袴に身を包み、静かに盃を受けた。
その姿は凛としている。
が、その胸中は卯梅には計り知れなかった。
三献が終わり、しばしの中立ちを経て膳が運ばれる。
焼き鯛の香りが漂い、卯梅は白無垢を改め、華やかな色打掛へと身を移した。
家に入る証としての装いである。
やがて披露の宴が始まると、大蔵は客の間を巡り、一人ひとりに酒を注いで回った。
「おめでとうございます、先生」
「道場もこれで安泰ですな。立派な入り婿殿だ」
祝辞を向けられるたび、大蔵は巧妙に作った微笑で応じた。
門弟たちは赤ら顔で騒ぎ、金子は満足げに頷いている。
端から見れば、これ以上ない門出であろう。
「…ありがとうございます」
大蔵は朱の盃を差し出す弟・三木荒次郎の前に膝を突いた。
「兄上、おめでとう」
荒次郎はすでに酔いが回っているのか、緩んだ顔で笑った。
宴も果て、喧騒の余韻だけが屋敷の隅々に澱んでいた。
庭には提灯が所在なげに揺れ、通りへ消えていく酔客の笑い声が遠くに残っていた。
だが、主客のいなくなった座敷の空気だけが、夜気と混じり合って妙に冷えている。
荒次郎は、忙しく後片付けに追われる家人や下男たちを他人事のように眺めながら、暑そうに羽織を脱ぎ捨てた。
大蔵の前に胡坐をかくと、手近な銚子を振って残り酒を確認する。
「にしても、老先生はしぶとかったですなあ」
老先生というのは、この道場の主であった先代伊東誠一郎のことだ。
「それでお悔やみのつもりか?」
大蔵は、背筋を伸ばしたまま弟の不義理を責めた。
「よしてくれ、私の師匠じゃない。ほら、ついこないだまで初盆の法要に追われてたのに、今度は兄上の祝言だろ?色々気苦労も多かろうと一応お愛想を言ったまでさ。それに湿っぽいのは苦手でね。だからこうやって、ハレの席には顔を出したじゃないか」
お愛想にも何もなっていない。
言い訳を並べ立てる荒次郎に、大蔵は冷笑をもって応じた。
「白々しい。ふるまい酒が目当てだろう? まったく、お前の放蕩ぶりときたら、あきれたものだ」
しかし、弟もなかなか太々しいもので、冗談に紛らせて軽く受け流す。
「その艶っぽい微笑みで、お卯梅さんの心を射止めたか」
その光景を傍らで見ていた加納は、張り詰めた儀式の後のこのやり取りを、むしろ微笑ましくさえ思った。
あの鈴木大蔵が、昼間から酔い潰れている弟を叱責している。
彼が、唯一「兄」としての顔を見せる瞬間だからだ。
大蔵は加納の視線に気づくと、わざとらしく決まりの悪そうな顔をして肩をすくめた。
「すまんな、加納。大事なことを言い忘れていたが、私の弟は馬鹿なんだ」
その言葉に加納はただ困ったような笑みを返した。
優秀で眉目秀麗な兄への劣等感のせいか、弟の荒次郎は、ずいぶんひねくれてしまっている。
だが、加納はこの「愚弟」を何故か嫌いになれなかった。
剣の腕は十人並み、自堕落で、厭世的で、皮肉屋で、おまけに酒浸りだが、どこか怜悧な兄に通じる部分があり、実は兄に比肩する才智を隠しているのではないかと思わせるところがある。
「とにかく、みっともない姿を晒すな」
早速ウトウトしていた荒次郎が、びくりと肩を震わせる。
「おいおい兄上、今日は、祝言だぞ。酔って何が悪い?」
今はもう葉も散らした庭の桜を、大蔵は静かに見つめた。
「『花は半開を看、酒は微酔に飲む』という。つまり節度の問題だ。お前は酒のせいで、あたら才能を無駄にしている」
荒次郎は、その古臭い金言を小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、酔いに任せて、またクドクドと抗弁をはじめた。
「お堅い兄上が、勤皇だの友愛だの一和同心だのと、すすけた御伽噺の世界に埋没しているせいで、一方の弟は、酒に女に博打、現世の、薄汚い現実と向き合って、釣合いをとらざるを得んという訳です。ねえ、ではこういうのはどうです? 『一本の酒瓶の中には、全ての書物に勝る思想が存在する』とは、フランスの学者が云った言葉らしいですよ。この点に関しては、奴らにも一理ある」
大蔵は無言のまま、ギロリと荒次郎を睨んだ。
「おお怖い! 兄上の夷狄嫌いは筋金入りだな。つまり、私が言いたいのは、この濁った眼が、兄上に見えないものを映すこともあるんだって話ですよ」
大蔵は鼻で笑うと、その端正な口元を歪ませた。
「ふん、それを言うなら、今の横浜についてお前の意見を聞かせてくれ。あれこそ、わが国の置かれた“現実”というやつだろう?」
横浜の「現実」とは、いわゆる黒船のことである。
荒次郎は、二の腕をぱちんと叩いて顔をしかめた。
「まったく、蚊が多くてかなわん…ごめん。なんだって?いま考え事をしていた」
大蔵がもう一度睨みつけると、荒次郎は荒っぽく手を払った。
「おいよしてくれ。私の異人嫌いは知ってるはずだ。それに、ヒック、横浜は遠い。イギリスの軍艦三隻が港に乗りつけ、世間では今にも戦争が始まるのではないかと噂しているのに、少なくとも、奴らの砲弾が届く場所に近づきたいとは思わんよ」
大蔵はふうと溜息をつき、加納へ視線を転じた。
「では、おまえに見えている現実など、至極偏狭なものと言わねばならん。加納君、君が見たものを、この愚弟に聞かせてやってくれないか」
「いや、わたしなど…」
促された加納は背筋を正し、大袈裟に手を振った。
「見たのか?」
荒次郎は、身を乗り出して加納の顔を食い入るように見つめた。
「ええまあ。今や神奈川沖には何十隻ものクロフネが浮かんでおります。その船体は弁才船(輸送用の大型帆船)の優に倍以上あって、甲板には砲台がズラリと並んでいる」
「どうにも、ぞっとしないね」
「ええ。航海遠略策なんてものを標榜する者もいるが、とても友好的に話し合える雰囲気じゃないことは確かですね」
加納の言う「航海遠略策」とは、むしろ積極的に世界に打って出て、交易で列強に伍する国力をつけようという政策である。
「それが現実だとすれば、聴いただけで気勢が削がれるが」
「私が初めてクロフネを見たのは、まだ十六の頃ですから、敵の姿を目の当たりにして血気に逸ったとでもいうのか…しかし、何より許せなかったのは、己の心の在り様です」
「では、話は終わりだ。退屈な精神論を聴くと、私は寝てしまう癖があるんでな」
加納は少しおどけたように目を見開き、荒次郎の制止を無視して話をつづけた。
「山手から見下ろしたペリーの艦隊は、まさしく勇壮としか言い現わせぬ情景でした。その巨大で精巧な鐵の船体と、驚くべき操舵技術で統率された艦隊陣形に圧倒され、私は不覚にもしばらく見とれてしまったのです。しかし故郷に帰って、あの煙を吐く艦隊の到来が、この国にもたらした災厄を思えば思うほど、じわじわと怒りが込み上げてきて居ても立ってもおれず、気が付けば伊豆を飛び出して、江戸の剣術道場の門を叩いていたのです」
同じものを見たはずなのに、加納のそれは、大蔵の抱いた印象とはずいぶん異なっていた。
荒次郎は大袈裟に顔をしかめ、腕を組んだ。
「ま、私にも覚えがあるが、女を知らぬうちは得てして感情に任せた短絡的な行動に走りがちだ。ヒック、しかし、船を見ただけで伊豆くんだりから江戸の道場に駆け込むなんて、それにしても君はどうかしてるぞ」
荒次郎は、加納の突きつけた「現実」の重さをはぐらかした。
「それで思い出したが、兄上はいつまでこんなとこで駄弁ってる気だ?」
「なにが」
「これだから、お勉強ばかり出来てもダメだというのだ。今日は新婚初夜だぞ!こんな立派な道場を継がせてもらった入り婿が、花嫁のご機嫌をとらないでどうする!」
大蔵は苦笑しながら、弟の意見を受け入れた。
「おまえの言うことは正論だな」
おどけたように片眉を吊り上げて見せ、寝所に退散しようと席を立ったが、廊下に一歩踏み出してふと振り返った。
「ありがとう」
加納は膝を正して黙礼し、弟の方は大袈裟に謙遜した。
「とんでもない!兄上のためなら!」
廊下の奥、薄明かりの行灯の向こうに、卯梅の影が静かに揺れているのが見えた。祝言の紅を落とし、白い襟足だけが闇に浮かび上がっている。
大蔵は“やめてくれ”という風に手を払って、出て行った。




