誤解
八月も半ばを過ぎた頃。
高く晴れた深川の空に反して、世情は日に日に重苦しさを増していた。
道場の庭先では、卯梅が洗い上がった手拭いを竹竿へ掛けている。
指先は軽く、足取りも自然と弾んでしまう。
祝言の日取りもほぼ定まり、大蔵との暮らしが、ようやく現実のものとして見え始めていたからだ。
もっとも―
その相手は相変わらず、なにを考えているのか、まるで分らなかった。
三日続けて部屋に閉じこもったかと思えば、急に出かけて何日も戻らない。
戻ってきたと思えば、床几の前で終日考えに耽っている。
それでも最近は、卯梅には時折ふっと柔らかな表情を見せるようになった。
卯梅は、その小さな変化が嬉しかった。
だが。
世間は祝言どころではなかった。
京から飛び込んできた知らせが、江戸の町をざわつかせていた。
八月十八日の政変――。
朝廷の実権を握っていた長州派公家が、突如御所から締め出されたのだ。
伊東道場の板間で、師範代の門弟たちが興奮気味に話していた。
「長州は京を追われたらしい」
三条実美ら急進派の公家と長州藩が画策した「大和行幸」。
―天皇自らが軍を率いて外国を討つという、実質的な幕府打倒の暴走―は、会津・薩摩の藩兵による御所九門の封鎖という周到なクーデターによって、一晩にして圧殺された。
失脚した七人の公家が豪雨の中を長州へ落ち延びる姿は、京における攘夷派の天下の終焉を告げていた。
「長州とて、栄枯必衰の理には抗えん、か…」
師範代の内海次郎からその報せを聞いた大蔵は、ただじっと手元の書物に目を落としたまま、浮かない表情を浮かべ、呟いた。
内海と入れ違いでお茶を運んできた卯梅は、その憂い顔の意味を取り違えた。
「真田様のことが気がかりなんじゃありませんか?」
「…なに?」
大蔵は怪訝そうに眉を寄せる。
以前、父が進めていた縁談は、結局うやむやになったままだった。
「私たちの婚約のこと、まだお伝えしてません。それを気にされているのでは?」
「…いや」
大蔵は視線を逸らした。
「気にしていないと言えば嘘になるが…折を見て私から―」
「いいえ」
卯梅は首を振った。
「あれは父が勝手に進めた話。大蔵様に押し付けるのは筋違いというものです」
そう言ったものの、胸の奥が妙にざわついた。
翌日。
卯梅は神田お玉ヶ池の玄武館を訪れた。
その道場は、深川の伊東道場とは比べものにならないほど広大だった。
高い塀。
立派な門。
広々とした中庭。
門弟たちの数も桁違いに多い。
案内された控えの間で座っていた卯梅は、次第に落ち着かなくなった。
(遅い…)
一向に真田は現れない。
暇を持て余した卯梅は、つい好奇心に負けた。
そっと廊下へ出てみる。
磨き抜かれた板敷き。
掛け軸。
庭園。
(すごい……)
自分の育った貧乏道場とのあまりの違いに、興味を惹かれるまま、ふらふらと奥へ歩を進めてしまう。
ふと低い話し声が聞こえた。
「―八月十八日の政変で、京の攘夷派は一掃されてしまった。計画を急がねばならん」
真田の声だ。
奥書院の障子が、わずかに開いている。
「高崎城を襲う準備は整いつつある」
「兵備を固めた後、鎌倉街道を下り、横浜を焼く。異人どもは一人残らず斬り捨てる」
男たちの押し殺した話し声。
卯梅は息を呑み、さっと血の気が引くのを感じた。
武器の数。
人数。
日取り。
耳に入ってくる言葉は、まるで現実と乖離していて、理解が追いつかない。
(戻らなきゃ)
卯梅は音を立てぬよう、そっと後ずさった。
だが。
「…卯梅殿」
すっと障子が開け放たれ、そこには真田範之助が立っていた。
卯梅の身体が凍りついた。
「聞いてしまったんだな。…そういうわけで、残念だがわたしは妻を娶るどころではなくなった」
「わ、私は何も……」
震える声で訴える卯梅の唇に、真田はそっと、無骨な指を押し当てた。
「正直なところ」
その瞳は、恐ろしいほど静かな光を湛えている。
「俺は、あんたのことを気に入っていた。だから、あんたの口を無理やり塞ぐような真似はしたくない」
「例えわたしが漏らさなくても、このような大それた企みはいずれ露見します! お願いですから、バカな考えは…!」
涙声で訴える卯梅に、真田は目を細めた。
「それは、あんたの心配することじゃない」
平板な口調だった。
「だから、このことはあんたの胸だけに仕舞っておいてくれ。面倒はかけん」
「けど―」
真田は指を離し、ぐっと顔を近づけた。
その呼気が、卯梅の頬に冷たく触れる。
「…だが、もしこの事を少しでも外に漏らせば、俺はあんたや、その周囲の者たちを誅さねばならん。…が、それは俺の本意じゃない」」
卯梅は呼吸をすることも忘れ、そして滲む視界を見つめた。
「…脅しているのですか」
「これは大事の前の小事。そう思ってもらって構わん」
真田の手が離れた瞬間、卯梅は弾かれたように玄武館を飛び出した。
夕暮れの街を、涙を流しながら、ただ夢中で走った。
涙で前が見えなかった。
父・誠一郎が生前、熱心に語っていた「攘夷」という大義の裏側にあるものの正体を、初めて見た気がした。
伊東道場へ戻った頃には、空はすっかり暮れていた。
門をくぐった卯梅は誰にも顔を見られぬよう俯き、そのまま足早に自室に駆け込み、そして襖を閉めた途端、張り詰めていたものが一気に崩れた。
呼吸が上手くできない。
あの人たちは、人を斬ることを、町を焼くことを、まるで明日の天気でも話すように語っていた。
「…怖い」
涙が枯れることはなかった。
その異様な様子を訝った大蔵が、後を追ってきた。
「…入るぞ」
襖を開けた大蔵は、泣き崩れている卯梅を見るなり眉をひそめた。
「どうした?玄武館で何を言われた」
「大蔵様…わたし、怖い…」
まだ声が震えている。
大蔵は何も言わず、その場へ腰を下ろした。
「わたしを取り巻く人たちは、その微笑みの下に、みな恐ろしい素顔を隠している。なにより恐ろしいのは、死んだ父も、それを望んでいたということです」
卯梅は拳を握り、涙がぽたぽたと畳へ落ちた。
「今日まで、わたしは何も分かっていなかった…」
大蔵の表情がわずかに曇った。
「…いったい、何を見てきた?」
真田の顔が浮かぶ。
―外へ漏らせば。
「それは…」
唇が動かなくなった。
「お願い。わたしのこと、ぎゅっと抱いてください」
大蔵は小さく息を吐いた。
「おおかた、真田範之助の物騒な考えに当てられたのだろうが…」
卯梅は思わず顔を上げた。
「え…?」
「…心配には及ばん。奴らの浅はかな考えなど、絵に描いた餅だ」
その言葉だけで、胸の中に巣くう恐怖が溶けてゆくような心地がした。
だが次の瞬間。
「私なら―」
そう言って、大蔵の口元がわずかに緩んだ。
卯梅の背筋が冷たくなった。
この人も―そうではないと、なぜ言えるのだろう。
そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、卯梅は急に冷静になった。
「い、いえ…なんでもございません」
無理に作った笑顔を、大蔵はしばらくじっと見つめていたが、それ以上は何も聞かなかった。
「疲れたのだろう。今日はもう休め」
そう言って静かに立ち上がると、廊下に出て、後ろ手に障子を閉める。
部屋には虫の声だけが残った。
卯梅は膝を抱え、小さく身体を震わせた。
なにもかもが恐ろしかった。
…なにより、ほんの一瞬だけ見えた、大蔵の知らない顔が。
蒼ざめた月が、二人の間に越えられない深い溝を描き出すように、部屋の床を照らし始めていた。
・八月十八日の政変:文久3年(1863年)8月18日、薩摩藩と会津藩が結託して京都で起こしたクーデター。朝廷を専横していた長州藩や三条実美ら急進派の攘夷派公家を京都から追放した。これにより、過激な攘夷(外国排除)運動は一時的に大きく後退することとなった。
・御所九門:京都御所(禁裏)を取り囲む外郭にある9つの門。政変の際、薩摩・会津の両藩兵がこの門の警護を実力で掌握し、長州藩兵を締め出した。
・大和行幸:八月十八日の政変の直前、長州藩や急進派公家が計画した一大政治パフォーマンス。孝明天皇が神武天皇陵(奈良・大和)などへ直々に赴き、外国を討つための軍議を開く(攘夷親征)という名目だった。しかしその真意は、天皇を幕府の手から引き離し、実質的な倒幕の兵を挙げるための暴走工作であったため、天皇自身や公武合体派の警戒を招き、クーデターの引き金となった。
・七卿落ち:八月十八日の政変で失脚し、京都を追放されて長州(山口県)へと落ち延びた三条実美ら7人の急進派公家のこと。政変当日は激しい豪雨であり、彼らが公家衣裳を濡らしながら都を去る姿は、攘夷派の没落を象徴する哀れな光景として歴史に刻まれている。
・赤城山挙兵計画:文久3年の後半、真田範之助や御堀耕助ら玄武館系の過激派浪士たちが実際に企てていた未遂のテロ計画。上野国(群馬県)の高崎城を乗っ取り、武器を奪って赤城山に立て籠もり、さらに横浜を焼き討ちして外国人を抹殺しようとした。この計画は寸前で同志の説得や幕府の察知により破綻する。




