葛藤
北辰一刀流、伊東道場。
大蔵は久しぶりに弟子たちに稽古をつけていた。
祝言を目前に控え、明日からはしばらく道場の稽古も止めることになるだろう。
間もなく大蔵は、正式に水戸藩士の一員となるのだ。
しかし、気分は鬱々として晴れなかった。
八月十八日の政変で、長州と攘夷派の公家が京から追われ、攘夷決行という悲願は大きく後退した。
失意の中にいた大蔵にとって、竹刀を振るうことだけが唯一の慰めとなっている。
再び道場を訪れていた加納道之助もまた、今日はある決意を以て師と対峙していた。
大蔵は爪先立ちで両足の幅を狭く取り、竹刀を軽く握る。
切先が獲物を狙う小鳥のように細かく振れている。
いわゆる、北辰一刀流特有の「鶺鴒の構え」である。
加納の剣先が、ピクリと動いた刹那、
大蔵は、一気に間合いを詰めてその竹刀を打ち落とし、
それが、そのまま突きに変化して、
加納の身体を突き飛ばした。
師範代の中西が、声を張り上げる。
「一本。お見事です」
大蔵の剣は洗練された美しさをまとっていた。
理論派の大蔵にとって、北辰一刀流は相性がいい。
加納はようよう立ち上がると、悔しそうに声を絞り出した。
「…参りました」
大蔵は面を外し、袖で額の汗をぬぐった。
「まだまだだ」
加納は深々と頭を下げた。
「精進いたします。ありがとうございました」
大蔵はふいに笑った。
「ちがうよ。私のことだ」
過ぎた謙遜を、と中西が苦笑する。
「先生ほどの方が、これ以上何を…」
「私の理想とする剣の完成形は姉だ」
「姉上、ですか」
「ああ。一切の無駄がない動き、速さ、鞭のようなしなやかさ」
「金子健四郎先生や、伊東誠一郎先生をも凌ぐと?」
中西は信じられないといった表情で問い返した。
「どちらが強いとか、そういう問題ではなく、これはあくまで私の理想とする型の話だ。ただ…おそらく私の知るどの剣士より、姉は強い」
弟子たちはみな、「そんなことが本当にあり得るだろうか」と考えずにいられなかった。
「正しく整合のとれた型や論というものは、それだけで美を顕現する。だからこそ、私はあの醜悪な黒船の姿に、列強の驕慢と独善を見たのだ」
大蔵はそこまで言って、ふとカミュの姿を思い浮かべ、苦い顔をした。
(…なのに、なぜ貴様はあのように美しいのだ!)
また、答えの出ない問いに足を引きずり込まれかけたとき、
視界の隅に、盆をもつ許嫁の姿を捕らえて、大蔵は我に返った。
卯梅は一瞬、加納と目を合わせると、小さく肩をすくめ、意味ありげに微笑んでみせた。
「お水を」
「ありがとう」
彼女もまた、大蔵の言葉を疑うひとりだった。
長い不在のせいで、大蔵は琴の残像を美化し、あり得ないほど理想化している。
自分は、その“完成形”の代わりに選ばれたに過ぎないのではないか。
そんな不安がよぎるたび、卯梅は必死にそれを振り払った。
自分がそれほど嫉妬深いとは思っていなかったものの、それでも近ごろ頻繁に家を空ける大蔵を疑わずにはいられない。
祝言の日も迫り、道場内は家財の整理と掃除でいつも以上に慌ただしい。
卯梅は大蔵の部屋の掃除をしながら、ふと部屋の隅に置かれた文机に目が止まった。
常に鍵をかけ、決して触れさせようとしない引き出し。
のではないかというた。
そこには、自分が決して踏み込めない秘密の断片が隠されているのかもしれない。
好奇心に駆られ、指先が吸い寄せられるように引き出しの取っ手に触れようとした、その時。
「ああ、そこは開けないほうがいい。煙が出てきて、白髪の婆さんになっちまうぞ」
不意に背後からかけられた声に、卯梅はビクッと身体を震わせ、振り返った。
そこに立っていたのは、大蔵の弟、荒次郎だった。
「お恥ずかしいです。私は嫉妬のあまり、武家の娘としてあるまじき行いをしました」
「義姉上は大袈裟ですなあ。まあ、用心深い兄のことですから、浮気の痕跡を家に持ち込んだりはせんでしょう」
複雑な表情を浮かべる卯梅をみて、荒次郎は困惑したように笑い飛ばした。
「いや、はは、冗談ですよ」
「失礼します!」
耐えきれなくなった卯梅が、逃げるように部屋を飛び出していくと、
入れ替わるように、稽古着の大蔵が入ってきた。
「二人で何をしていた」
「何もなかったですよ。兄上が入って来るのがもう少し遅ければ、どうなっていたか分からんが」
嫉妬を煽っても、大蔵の冷静な態度は常と変わらない。
「ふん、ふざけるな」
と、冷たく切り捨てた。
「ただの世間話だよ。兄上が嫉妬したのを知れば、お卯梅さんは喜ぶ」
「…正直、ああいう女は苦手だ」
「またそんな。あんなに可愛くて美人で純粋な娘はそういないぜ?もう少し、大事にするべきだ」
大蔵は小さく首を振った。
「結婚というものは…」
男女の契約が、まるで時代の濁流から逃げ出すための口実に思えてならない。
祝言が近づくほどに、大蔵の心は冷えていった。
「失礼します」
自らの内に沈んでいく大蔵を引き戻すように、部屋の外から加納の声が聴こえた。
「入れ」
大蔵が促すと、加納はどこか緊張した面持ちで部屋へ入ってきた。
「婚儀の雑用など手伝わせて悪かったな。おまけにあんな立派な鯛まで用立ててもらって」
大蔵が労いの言葉をかけると、加納は畏まって頭を下げた。
「お気になさらず。実は昨年、神奈川で諸国を遊歴されている篠原泰之進という御仁と知り合ったのですが、彼が日本橋(の魚河岸)に伝手がございまして」
「神奈川、か…」
そう言ったきり黙り込んだ大蔵の心情を、加納は推し量った。
「…先生、結婚のことは誠におめでたいと存じますが、先生の背中を押したのは、例の長州の一件なのではないですか」
加納の言う長州の一件とは、八月十八日早朝に起きた政変のことである。
その日、薩摩、会津が結託して、御所九門の警固を掌握。
朝廷を専横して攘夷親征を強引に推し進めていた三条実美ら急進派の公家を朝議から締め出し、彼らの政策を否決した。
当然、三条らのバックで糸を引く長州勢が黙っているはずもなかった。
禁裏に押しかけ、薩摩・会津藩兵らと対峙して緊迫した睨み合いが続いたが、このクーデター決行の裏には孝明天皇の意思が働いていると知らされては、尊王を掲げる彼らに、もはや引く以外の選択肢はなかった。
政変の一報は、東海道を駆け抜け、またたく間に江戸市中に知れ渡った。
「まさか。結婚は三月も前から決まっていたことだ。考えすぎだよ」
有耶無耶に否定したものの、長州と攘夷派の公家が京から追放されたと聞いたとき、清河の横浜襲撃に続いて、またもや潰えた攘夷決行の夢に大蔵は落胆した。
「…ならいいんですが」
だが結婚に振れた気持ちと、政治への失望が無関係とは言い切れない。
朴訥な加納にすら、その迷いを見透かされている。
「下町の道場主として安閑と人生を終えるもよし、か。我ながら、諦めが良すぎるな」
「それがどういった決断であれ、先生の決めたことなら間違っていません。しかし」
「しかし?」
お前もまた説教めいた忠告をしようというのか?
大蔵の険しい表情が、そう物語っていた。
「あ、いえ…。どうか、後悔のない選択を」
加納はそれだけ言って、まだモジモジ立ち上がろうとしない。
「どうした?お祝いの言葉なら、もうたくさんだぞ」
「えっ?あ、いや、もうひとつ、ご報告したいことがありまして」
「その報告とやらを聴こう」
「実は、件の篠原さんの誘いで、神奈川奉行所の番所付下番というお役目に着くことになりました」
「それは、おめでとう」
加納はきまり悪そうに頭を掻いた。
「どうでしょう。旗本・御家人の部屋住みから我々のような浪人まで、千人以上採用されたと聞きますから、十把一絡げというやつです。喜んでいいものやら」
すると傍らで胡坐をかいていた荒次郎が割り込んだ。
「その番所付下番てのは、何をやるんだい?」
「横浜の居留地をウロついている不逞な異人どもを取り締まるのです」
「そいつは面白そうだな。いったい、どういった伝手で、そんなお役目にありついたんだ?」
「それはまあ、ツイてたとしか言いようがないんですが。その篠原という人は、久留米の脱藩浪士でしてね。彼は、この度神奈川奉行支配定番役頭取取締を拝命された窪田治部右衛門様の御屋敷に、一頃居候していたことがあったそうで」
攘夷を志していた加納にとって、この申し出は願ってもない落としどころだった。
荒次郎は大袈裟に顔をしかめてみせた。
「神奈川奉行支配定番…なんとか、なんて舌を噛みそうな役職だな。そういうのは長ったらしいほど偉いと相場が決まってる。長いものには巻かれろってね、その、治部右衛門殿っていったか?私もあやかりたい」
大蔵は冷ややかな目で荒次郎を睨んだ。
「まあ、確かに。その篠原殿が諸国で交わったという壮士のお話をぜひ伺いたいものだ」
「ええ。お二人がよろしければ、今度道場にお連れしましょう」
加納の言葉に、大蔵は静かに頷いた。




