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冷たい月 Part2

「失礼します」

加納は、静まり返った奥の私室のふすまを静かに引いた。

文机ふづくえに向かっていた大蔵は、筆を置くことなく問いかけた。

「しばらくぶりだな。横浜はどうだ」

「ええ。色々ありますが、毎日が修行だと思っています。婚儀こんぎが決まったというので、お祝いを述べに参りました」

「ふん。義理堅ぎりがたいことだな」

感謝を述べるでもなく、ただそう言って黙り込むと、やがて大蔵は筆を置き、ゆっくりと立ち上がった。

「どうだ、久しぶりに立ち合い稽古けいこでも?講武所剣法こうぶしょけんぽうという奴を見せてくれ」

「え?今ですか?」

「少し身体を動かしたい。鬱々(うつうつ)と気分が晴れなくてな」

祝言しゅうげんを控えた幸福な男の台詞せりふとは思えなかったが、なんとなく大蔵らしいと加納は思った。

「私で良ければ…お相手いたしましょう」

大蔵は加納の返事を聞き終える前に、もう道場の方へ歩き出していた。


「暑いな」

道場の格子窓こうしまどを開けると、うるさいほどせみの声が入ってきた。


加納は手もなくひねられた。

見事な面を三本ほど取られたところで、二人は面を取り、外に出て木陰こかげで風に当たった。

「実はな、まだ悩んでいる」

不意に大蔵がつぶやいた。

「何をです?」

「…」

大蔵は応えなかったが、加納は結婚のことを言っているのだと思い当たった。

「今さら、それはないでしょう」

大蔵は否定も肯定もせず、遠くを見つめたまま続けた。

「神奈川に居るなら、つまり君も横浜港の状況はよく知ってるわけだな。結婚などと浮かれる気分になれないのは分かるだろう?」

「それとこれとは、話が別ですよ」

加納は、大蔵のうれいを含んだ横顔をじっと見つめた。


初めてこの道場を訪ねた時のことが、昨日のことのように思い出される。

応対に現れたこの師範しはんを一目見て、なんと美しいひとだろうとしばらく棒立ちになった。

今も、稽古けいこ着を着ていなければ、まったく女にしか見えないだろう。

男色の趣味などないが、それでも大蔵が師の娘をめとると聞いたとき、大蔵と卯梅うめ、自分がどちらに嫉妬しっとを覚えているのか、混乱したほどだった。


「変だな。内弟子うちでしの内海や中西にもこんな話はしないのだが…」

加納は鈴木大蔵すずきおおくら心酔しんすいしていた。

容姿だけではない。

その学識や剣技、そしてその人格に至るまで、全てを熱烈に崇拝すうはいしていた。

うれしいお言葉です。先生、私は…!」

加納は、大蔵に胸に秘めた決心を打ち明けようとした。

――自分は講武所こうぶしょを辞め、身をていして尊王攘夷そんのうじょういの周旋に打ち込むつもりだ、と。

しかし、これから幸せな家庭を築こうという大蔵に、そんな話をすることが正しいのか。

加納は寸前で言葉を飲み込んだ。


大蔵は、加納の告白を黙って待ち続け、彼がその言葉を飲み込んだ後も無理に聞き出そうとはしなかった。

代わりに、静かに語りかけた。

「加納、私は君を信頼している。私がこの先、道を外れそうになったら、その時は君がいさめてくれ」

「冗談でしょう?私には何一つ先生に及ぶところなどありません」

剣技や知識、全てにおいて及第点きゅうだいてんをとれるが、反面、取り立てて特技を持たない平凡な男。

加納道之助が自身に下した評価を、大蔵は否定した。

「そうやってすぐ卑屈ひくつになるのが、君のいけないところだ。君は、私の知る誰より誠実で善良な人間だ。私に欠けているものを、すべて持っている」

「先生は、私のことを買いかぶりすぎです」

大蔵はやさしく微笑ほほえんだ。

「もし、天が私に成すべき仕事を与えたとき、君にはそばにいて私を補ってほしい」

加納は感動して、返す言葉も見つからなかった。

「…私などでよろしければ、微力びりょくながら…」

「いま返事を急がなくていい」

「あ、いえ!今のは本心です。あの、実はしばらく江戸にいるつもりなのですが、今日は私も泊っていっていいでしょうか?」

「ああ、もちろん。母屋おもやに部屋が空いてる」



道場には夜の静寂せいじゃくが降りていた。

大蔵はひとり、月明かりの差し込む縁側えんがわに座り、鈴虫の声を聴いていた。

そこへ、控えめな衣擦きぬずれの音とともに、卯梅うめが盆に載せた湯呑みを運んできた。

「お疲れではございませんか」

卯梅うめは大蔵のかたわらに座ると、そっと茶を差し出した。

「ありがとう」

「…加納さんと、何を話していらしたのですか?」

「なに、他愛たあいもないことだ。横浜の様子や、彼の修行の具合など、な」

二人はしばらく黙って虫の声に耳を傾けた。


「…本当にいいのか。この道場が私のものになるんだぞ?」

大蔵は突然、核心に触れた。

卯梅うめは、真田範之助を選ばなかった。

なのに自分は、この平穏な日常に窒息しそうになっている。

これは、互いにとって幸せな結末なのだろうか。


卯梅うめひざの上で拳を握り、決意を固めたように顔を上げた。

「ええ。父もそれを望んでいました。それに…簡単に決めたわけじゃない」

「そうか。では、我々の結婚についてひとつ言っておきたいことがある」

「え?え?な、なんでしょう?」

卯梅うめは愛くるしい眼をまん丸にしてたずねた。

「私は…なんというか、世間でいうところの気難しい性格だ。何日も家に戻らなかったり、何日も口を利かなかったり、あるいは、何日も部屋にこもって食事をらないこともあるかもしれない。だがそれは、気分を害したり、身体を壊したせいではないから、下手へたに気をまわす必要はない」

「けど、それじゃまるで…」

ただの同居人のよう。

大蔵は突き放すように卯梅うめの言い分を封じた。

「そういう時は、ただ放っておいてくれればいい。それが私と今後も上手くやっていくコツだ」

それが、彼が示すことのできる精いっぱいの誠意だった。

卯梅うめは口元を真一文字に引き結び、武家の娘としての誇りを振り絞るように、りんとした声で答えた。

「ええ、構いません。不束ふつつかながら、私は生涯しょうがい大蔵さまをお支えすることをお誓い申し上げます」

「では、私も一つだけ約束しよう。本日ただいまより死ぬ日まで、私はお前に誠実であり続けると」

蒼ざめた月の光が、二人のかんばせを照らしていた。


挿絵(By みてみん)



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