ユニオンジャック Part2
彼らが辿り着いたのは、田中屋からもほど近い「甚行寺」であった。
この寺の本堂は改造を施され、フランス公使館として徴用されている。
長行はイギリス東インド艦隊司令長官のオーガスタス・レオポルド・クーパーに面会を求めるも門前払いを食らい、次善策としてフランスを頼り、調停を依頼するつもりだった。
公使館の門前に、見覚えのある姿があった。
「あの男…」
馬上に跨り、長行の随員を冷徹に見下ろしているのは、以前、関内で自分を救ったフランス将校カミュだ。
“Monsieur le Ministre est fort occupé, il ne vous recevra pas ! (公使は多忙ゆえ、お会いになられぬ!)Dites-le à Son Excellence dans son palanquin ! (駕籠の中の老中殿に伝えられよ!)Cessez ces bavardages et cédez aux exigences britanniques. Je vous conseille vivement de placer, sans plus tarder, la sécurité de cette ville sous le contrôle de notre Marine française !”(つべこべ言わずイギリスの要求に応じ、早々にこの街の治安を我がフランス海軍の統制下に置かれることをお勧めするとな)
カミュは言い放った。
通詞と思しき男が、駕籠の中の男に何やら伝えている。
ただ、言葉の分からない大蔵にも、断固たる拒絶と不遜なニュアンスは充分伝わった。
「ふん、おおよそイギリスとの示談が難航してフランスを頼ってみたものの、こちらも取り付く島なし、といったところか」
茂みに身を潜め、ほくそ笑みながら様子を窺っていると、前方からひそひそと低い話し声が聞こえてきた。
『…今日は下見だけのはずでは?』
『行きがけの駄賃だ。一人は斬る。お前は奴の馬の脚を狙え』
大蔵は息を呑んだ。
どうやら自分の他にもふたり、頭巾を被った男が、様子を伺っている。
彼らは、いわゆる攘夷志士のようだ。
フランス公使館を狙うつもりらしい。
小笠原長行一行は渋々引き下がり、元来た道を帰っていく。
カミュは険しい表情で、その後姿が小さくなるまで見届け、やがて安心したように背を向けた。
刹那、頭巾を被った男が、音もなく鯉口を切った。
大蔵は男の背後からその腕をそっと抑えた。
「およしなさい」
低く、艶やかな声。
男はびくりとして振り向き、さらに驚いた。
「…なぜ、こんなところに遊女がいる?」
不審げに潜めたその声に、今度は大蔵がハッとした。
刺客の正体は、真田範之助と、その配下、藤井だった。
「ラシャメン(異人囲いの女)か」
藤井が蔑むように吐き捨てた。
二人とも、白粉と紅を引いた「女」が、大蔵であることには気づいていない。
「彼の後ろを御覧なさい」
大蔵が顎で指した先、カミュの背後には、最新式のシャスポー銃と銃剣を携えた警備兵が二人控えている。
「飛び出した途端、蜂の巣にされますよ」
真田はムッと唸り、悔しげに身を潜めた。
「こんなところで無駄死にされては、ご家族も悲しまれるのではありませんか」
抜け駆けのように卯梅との結婚を決めたことに多少の後ろめたさを感じていた大蔵は、あえて「恋敵」に鎌をかけてみた。
「…ふん、俺が死んでも悲しむ連れ合いなどおらん。今さら妻を娶る気もないがな」
真田は吐き捨てると、大蔵を睨んだ。
「女、お前はあの仏蘭西どもの夜伽の相手か」
大蔵は、悠然と馬上に跨るカミュをちらりと一瞥した。
「よしてください。あんな獣と寝るくらいなら、舌を噛み切って死んだほうがましです」
坂道を下り、元町の川縁までやってきたところで、大蔵は真田たちと別れた。
あの男は、自分への幼稚な対抗心から、卯梅のことをまるで勝利者の褒賞のように考えている。
そう思うと気持ちが幾分軽くなった。
いずれにせよ、あの調子ではそう長く生きられないだろう。
しかし。
「…まるで自分のことを言ってるようだな」
大蔵はふと苦笑を漏らした。
翌日、五月九日。
横浜の空は、今にも泣き出しそうなほど重く低い雲に覆われていた。
横浜にある講武所の出先機関では、早朝から加納道之助のような門下生たちに召集が掛けられた。
「いったいなんのために集められたんだ」
みながひそひそと囁きあっている。
彼らに与えられたのは、神奈川運上所から運び出される「積荷」の極秘警備という、奇妙な指令だった。
「…老中閣下から直々のご指示だ。神奈川奉行にも、断じて知られてはならぬと厳命されている。一切の口外は無用、分かったな」
上官が、硬い表情で指示した。
「余計な詮索はせず、厳に周囲を警戒せよ」
目的地すら知らされぬまま、二十二、三台もの荷馬車の隊列が動き出す。
荷馬車の車輪は深く轍に食い込み、不気味なほど重々しい軋みを上げていた。
不審に思った加納は馬の傍らを歩きながら、隙を見て幌の隙間を覗き込んだ。
暗がりに並んでいたのは、頑丈な木箱の山だった。
(…千両箱?いったい、いくらあるんだ?)
加納は訝った。
(何に使う金なんだ…)
これほどまでの巨万の富を、幕府はどこへ運ぼうとしているのか。
やがて、隊列が止まった。
(こんな大袈裟な構えで隊列を組んでおいて、やけに近いじゃないか)
加納は顔を上げ、目の前の建物を見て愕然とした。
「…ここは」
建物の門に掲げられていたのはユニオンジャックの旗、イギリス公使館である。
この日の未明、午前一時。
小笠原長行はイギリス代理公使、エドワード・セント・ジョン・ニールに対し、賠償金支払いの通知を送り届けていた。
それに応じて、ニールは即日の支払いを要求。
そしていま、加納の眼前で二千ドルを詰め込んだ箱が次々と門のなかへ運び込まれている。
運上所の役人とイギリス公館職員が、機械的な手つきで箱を検分する光景を、加納は呆然と見つめるしかなかった。
「あの金は、イギリスに差し出す賠償金だったのか。クソッ!俺たちはいったい何をやらされてるんだ!」
その胸には、吐き気のするような失望感と不信感が込み上げていた。
その夜。
大蔵がようやく品川宿まで辿り着くと、そこには意外な姿があった。
「大蔵様!」
髪を乱しながら駆け寄ってきたのは、卯梅だった。
その瞳は怒りと、不安で潤んでいる。
「…なぜこんなところに?」
大蔵の冷ややかな視線にも、卯梅は怯まなかった。
「なぜ?なぜですって?門下生からあなたを品川で見かけたと聞いて、心配してきたのです!こんなに度々無断で家を空けるなんて!これから貴方は、毎日小石川の上屋敷に詰めることになるのですよ!」
言ってから、卯梅は自分の口を押さえた。
それは、大蔵と自分の結婚を意味するからだ。
大蔵は真田の言葉を思い出し、ふと微笑んだ。
「な、なにが面白いのですか!」
卯梅は赤くなりながらも、大蔵をなじった。
大蔵は卯梅の肩越しに、ちらと街道の前方を見やった。
視線の先には、今まさに品川宿を立とうとする大名行列がいる。
…これで、あの謎の男は面目を保ったわけだ。彼が江戸に着くころにはすべてが終わっている。
すると、やはりあれは、一橋慶喜本人だったんだろうか。
「大蔵様?」
「いや、すまない。私にとっては大切な用事だが、君を裏切るようなことはしていない。今は、理由を聞かないでくれ」
「そ…!」
卯梅は大蔵の優しげな表情に何も言い返せなくなった。
「帰ろう、道場へ」
大蔵は静かな声で告げた。
それは、彼女を守るための小さな嘘だった。




