ユニオンジャック Part1
文久三年、五月八日。
初夏の陽光が照りつける神奈川宿、台町の坂上。
清河八郎の非業の死を知り、その横浜焼討ち計画が露と消えたことを悟った鈴木大蔵は、再び横浜の地を踏んでいた。
定宿にしている旅籠「田中屋」へと続く坂の途中、大蔵はふと足を止め、眼下の海へ視線を投げた。
「…あれは」
穏やかなはずの横浜湾の沖合で、二隻の艦船が異様な速度で追跡劇を演じていた。
前を行くのは、一本の大きな煙突を突き立てた木造軍艦。
白地に黒い横一文字―徳川幕府の中黒の旗が掲げられている。
幕府海軍の「蟠竜丸」。
それを、巨大な黒船が猛追していた。
幕府の軍艦の三倍はあろうかという真っ黒な船体。
三本の巨大なマストには、これまで見たこともない、青と赤と白の十字が交差する旗―ユニオンジャックが翻っている。
英国海軍のコルベット艦「エンカウンター」である。
大蔵は嫌な予感を胸に、田中屋の暖簾を潜った。
田中屋の二階、高台に張り出した縁側からは、横浜湾が一望できた。
窓辺に腰掛けていた勝奴が大蔵を迎えた。
「窓の外を御覧なさいな。面白いものが見えますよ」
「ああ。なぜ幕府の軍艦が、異国船に追われている…」
「あら。もうご存じなのね」
二人は並んで窓の外を眺めた。
イギリス艦の黒い船体の両舷には、巨大な砲門が並んでいる。
遠目にもただならぬ緊張感が見て取れた。
「まさか、あれを撃つ気か?」
しかし、蟠竜丸が本牧の手前を旋回し、湾内へと舵を切ると、
追撃していた黒船は、悠然と速度を落とした。
そして、猛獣が寝ぐらへ戻るように、ゆっくりと横浜の港へと引き返していく。
「今のあれは…何だったんだ?」
大蔵たち市民のあずかり知らぬところで事態は進行している。
幕府は、もはや断崖絶壁に追い詰められていた。
イギリス側から突きつけられた生麦事件の賠償期限は、とうに過ぎており、五月六日、イギリス海軍司令官クーパーは「これ以上の猶予は無意味」と断じ、各国公使を招集した。
放たれた最後通牒は、即ち「戦端」を意味していた。
この日の朝、老中格・小笠原長行は、「京都へ行く」と称して「蟠竜丸」で品川沖を出発。
だがそれは、攘夷を叫ぶ志士たちの目を逸らすための、命懸けの虚言だった。
もし長行が、言葉通りに本牧の岬を越えて西へ舵を切っていれば、背後のイギリス艦は容赦なく火を噴き、横浜の空は黒煙に覆われていたはずだ。
「…どうやら、何かが起きていることは確かなようだ」
大蔵は、静まりゆく波間を見つめながら呟いた。
勝奴は、目を伏せて薄く笑った。
「あなたも凝りないのね?それ、準備しといたわ。あたしの芸者衣装じゃ地味だものね」
勝奴が顎で指した先には、大きな葛籠が置かれていた。
「ありがとう」
大蔵は素っ気なく礼を言ってそれを開いた。
入っていたのは、薄紫の紬、山吹色の帯、足袋と女性用の下駄、顔を隠す御高祖頭巾。
いずれも遊女たちの外出着に近いものだ。
さらに、付け毛、白粉の道具、そして、菖蒲を象った簪が添えられている。
「白粉を溶く水をもらってくる」
勝奴が襖を開けると、目の前を若い侍が横切っていった。
「失礼」
男は一声掛けると、そのまま隣の部屋に入ってゆく。
小袖の着流しに簡素な羽織をつけた、何処にでも居そうな若者だが、勝奴は沈香の残り香が漂うのに気づいた。
(あの着物には不釣り合いな香りね)
少し気になったが、水を汲んで部屋に戻るころには忘れていた。
大蔵は鏡の前に座ると、流麗な所作で白粉を溶き始めた。
男としての鈴木大蔵を殺し、横浜の闇に溶け込む傾城の美姫へと貌を変える。
「手慣れたものね」
勝奴が皮肉めかして揶揄う。
「関内に潜るには、これが一番手っ取り早い」
大蔵が部屋を出ると、白い洋装の男が隣の部屋に入っていくのが見えた。
金筋の入った袖口と、ぴしりと糊のきいた立ち襟。
先ほど横浜に寄港したばかりの「蟠竜丸」の士官に違いなかった。
勝奴が大蔵の袖をつかみ、部屋に引き戻す。
「なにか変よ」
勝奴は先ほど隣の部屋に入っていった男の「違和感」を思い出した。
「…わかってる」
大蔵が囁き、襖をそっと閉じると、二人は開け放った窓に身を乗り出すようにして、隣の部屋から漏れ聴こえる声に意識を研ぎ澄ました。
『…ご苦労。私は川崎で時を稼ぎ、江戸到着は今夜の十時過ぎになる予定だ』
若侍の声だ。
勝奴の脳裏に、先ほどの沈香の香りが蘇る。
『承知いたしました。公が江戸に駆け付けるも、時すでに遅し、イギリスへの賠償金は今日、ここ横浜で既に支払われていた、その筋書きで進めております』
『うむ。小笠原(長行)には憎まれ役を押し付けて申し訳ないが、薩摩や長州の目もある。私の立場としては、あくまで“強硬な攘夷論者”として江戸へ戻らねばならん」
『承知しております。閣老は蟠竜丸にて品川を出たときから、すでに覚悟を決めておられる。イギリスへの賠償金は“老中の乱心による独断専行”として、公がおひとりで泥を被るおつもりです』
『小笠原にはこの借りは必ず返す、と伝えてくれ』
『江戸では水戸の武田耕雲斎なども攘夷、攘夷と騒ぎ立てておりますゆえ、ご注意を』
『わかった。後始末は任せよ』
会話が途切れた。
やがて二人はそれぞれ時間を置いて部屋を出てゆく気配があった。
大蔵はゆっくりと息を吐き出した。
「いまのあれは、誰だ?…」
「…さあね。いずれにせよ、ろくでもない政治屋よ。なにかきな臭いけど、本当に行くの?」
大蔵は髪を整えながら、今日の予定を変更しなければと考えていた。
「この茶番の幕引きを見届けねばな」
鏡の中の「女」が、冷たく微笑んだ。
「…イギリスへの賠償金、と言ったな」
大蔵は白い軍服の男の後を追った。
男は迷いのない足取りで関内の方角へと向かう。
かつて江戸・東禅寺にあったイギリス公使館は、高杉晋作ら長州志士の焼き討ちで灰燼に帰し、今は関内に設けられた仮の拠点がその役割を担っていた。
だが、その道中、数人の随員を伴った一台の簡素な駕籠が、関内の方からやってきた。
男は駕籠に歩み寄ると、中の人物と二言三言、密やかに言葉を交わす。
すると踵を返し、駕籠とともに今来た道を引き返し始めた。
大蔵は知る由もないが、その駕籠の中にいたのは老中格・小笠原長行その人であった。
大蔵は咄嗟に脇へ寄り、楚々とお辞儀をして駕籠をやり過ごした。
【用語・地名・人名】
・ユニオンジャック:イギリス(英国)の国旗。青地に赤と白の十字・斜め十字が交差するデザイン。
・コルベット艦:19世紀の軍艦の主要な艦種の一つ。フリゲート艦より一回り小さく、高速で移動できる軽快な戦闘艦。劇中に登場する「エンカウンター」がこれにあたる。
・最後通牒:外交交渉において、一方が他方に対して「これが最終要求であり、受け入れられなければ不利益な行動(武力行使など)をとる」と突きつける決裂直前の通知。
・戦端:戦争や武力衝突の始まりのこと。「戦端を開く」などの形で使われる。
・独断専行:上司や組織の許可を得ず、自分一人の判断だけで勝手に物事を進めてしまうこと。
・蟠竜丸:幕府海軍が所有していた木造の蒸気軍艦。元はイギリスから将軍に贈呈された船で、幕末から戊辰戦争(箱館戦争)にかけて活躍した。
・閣老:老中に対する敬称。ここでは、イギリスへの賠償金支払いを巡り、すべての責任を一人で背負おうとしている小笠原長行を指す。
・武田耕雲斎:水戸藩の有力な志士。強い尊王攘夷思想を持ち、後に藤田小四郎らとともに「天狗党の乱」を率いることになる中心人物。
・定宿:旅に出た際、いつも決まって泊まることにしている馴染みの宿。
・葛籠 衣類や身の回りの品を収納するための、ツヅラフジなどの植物で編まれた蓋付きの大きな籠。
・紬:紬糸で織られた絹織物。普段着や外出着として広く愛用された。
・御高祖頭巾:女性が防寒や日よけ、あるいは顔を隠して外出する際に被った頭巾。四角い布で頭から顔を覆い、目だけを出して顎の下で結ぶ。
・小袖の着流し:袴を穿かず、着物に帯を締めただけの簡素な姿。




