死出の山
同日、四月十三日。
中沢良之助は清河が居候している山岡鉄太郎の家で朝から張り込んでいた。
ほどなく、何処からか迎えの駕籠が来た。
清河は、黒羽二重の紋付に魚子模様の羽織、縦縞の仙台平といった姿で現れ、駕籠に乗り込んだ。
駕籠はあちこち寄り道したあと、昼前に麻布一之橋の西詰にある上山藩屋敷の前に停まり、降り立った清河は、スタスタと長屋門に入って行った。
当時の長屋門というのは、使用人などの住居スペースに使われていることが多く、清河が訪ねたのも上山藩士の住まいだった。
それから二刻というもの、中沢は辛抱強く待った。
夕の七つ。清河が再び通りに姿を現した。
彼は、門の外まで見送りに出てきた友人と思しき男に何やら礼を述べると、そのまま徒歩で増上寺の方に向いて歩きだした。
酒を飲まされたのか、少々足元が怪しい。
中沢は、清河の前方、橋を渡り切ったところにある茶店の店先で、縁台に腰掛ける数人の侍に気づいた。
いずれも笠を被ったまま、無言で大福を食べている。
男たちは、やってくる清河をチラチラと気にする風で、何やら不穏な気配が感じられたが、千鳥足の清河は気づいていない。
そして、彼が茶店の前に差し掛かったとき。
「これは。清河先生ではありませんか、しばらくぶりですな」
男の一人が立ち上がり、丁寧に陣笠を取ってお辞儀をした。
ほとんど反射的に挨拶を返そうとした清河が自分の笠に手を掛けた、その刹那。
清河の背後に回った男がいきなり斬りつけ、
さらにお辞儀をした男が正面から袈裟掛けに斬り下げた。
一瞬の出来事だった。
「あ」
中沢は、思わず小さな叫び声を漏らし、そのまま硬直してしまった。
「こんな子供だましの手に引っかかるとはな。無念だよ…」
清河は、いつもの不遜な笑みを浮かべ、そして、前のめりに斃れた。
中沢は、刺客の顔を見た。
「佐々木と、速水…」
浪士組として、共に京へ上った佐々木只三郎、速見又四郎、高久安次郎、中山修助、いずれも見知った顔だった。
「ふん。よくも、騙してくれたな!」
ただひとり、見覚えのない男が、清河に捨て台詞を吐いた。
これは、清河たちが関内へ侵入するための紹介状を書かせた窪田治部右衛門の“バカ息子”窪田泉太郎だった。
佐々木たちは、茶屋の老婆が呆然と立ち尽くすのを尻目に、縁台の上に代金を投げると、
「釣りはいらん」
と嘯いて、悠然と立ち去って行った。
「清河!」
我に返った中沢が駆け寄った時、清河はすでに絶命していた。
「くそ!先を越されたか…」
中沢は名状し難い感情に囚われていた。
しかし、その感情が何なのか、今はゆっくり考える時間もない。
モタモタしていれば、与力や同心たちが詰めかけるだろう。
しかたなく、中沢はその場を立ち去った。
横浜焼き討ち決行、わずか二日前の出来事だった。
翌日、本所三笠町にある本陣を訪ねた中沢は、浪士組の領袖で清河の懐刀でもある山岡鉄太郎から、この暗殺劇の前段を聴かされた。
山岡は大きな背中を丸め、悲嘆に暮れていた。
「中沢君、日ノ本は一代の傑物を失った」
中沢は、初めてその悲報に触れたように、仰々しくその話に耳を傾けた。
あの朝、清河に一通の手紙が届いた。
差出人は出羽上山藩の金子与三郎といって、清河とは断金の交わりがあった。
手紙には「時事について重要な相談がある。内密の話なので誰も連れずに一人で来てほしい」とあり、間もなくその金子が寄越した迎えの駕籠が到着した。
中沢の見た、あの駕籠である。
山岡は、以前からこの金子を疑いの目で見ていたらしい。
何故なら金子は老中水野忠精の文学教授の職にあって、反体制の清河一派にとっては、いわば敵側の人間だったからだ。
本陣の門を出たとき、中沢は因果というものを考えずにはいられなかった。
その夜、市中見廻りの役目を終えた中沢は、ふらりと伊東道場に立ち寄った。
「あれ?大蔵様のお友達ですか?」
玄関に出迎えた卯梅は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「え?ええ、まあ、そんなもんです」
卯梅は珍しい客に目を輝かせて、中へ招き入れた。
「どうぞどうぞ!すぐお茶をお持ちしますね!」
「どうか、お気遣いなく。あまり歓迎されないでしょうから」
「そうと分かって、なぜこんな時間に来たんです?」
剣のある声がして、
そこには、いつの間にか気だるげな大蔵が立っていた。
中沢は、悪びれもせずにんまりと笑った。
「相変わらず、遠慮のない物言いだ。なに、少し人と話したくなってね」
「それで、真っ先に私の顔が思い浮かぶなど、あなたという人はよほど友人が少ないと見える」
大蔵は憎まれ口を叩き、「なぜ家に上げた」と責めるような眼で卯梅を睨んだ。
「あ。あれ?…私、なにか不始末をしました?」
察しの悪い卯梅が、きょとんとした顔で囁くと、大蔵はついに観念した。
「…もういいです。お茶を出してやってください」
「その死に顔は、妙に穏やかだったよ…」
清河の遭難について、顛末を聞かされた大蔵は、何の感情も示さなかった。
「結局、清河は身内の裏切りに会ったのだ。貴方も目的を遂げたといっていいのでは?」
中沢は複雑な表情で小さく首を振った。
「俺が、この手で決着を付けたかったよ…」
歯噛みしたいのは大蔵も同じだった。
こんなことなら、あの時、追いすがってでも琴の消息を問い質すべきだった。
それにしても。
「…本当に、ただの内紛なのか」
大蔵の意味ありげな呟きを、中沢は聞きとがめた。
「なぜそう思う?なにか知っているのか」
「いや、ふとそう思っただけですよ。貴方こそ、なぜそんな話を私に?」
「…分からん。誰かに聞いてほしかったのかもな…あんたは…」
「私?」
「いや、なんでもない。ただ、あんたの疑問は、山岡さんから聞いた話と妙な符合を感じさせる」
中沢は、清河八郎らしからぬ不可解な行動を打ち明けた。
智謀に長けた清河が、なぜ易々と金子に気を許し、怪しげな招きに応じたのか、中沢でなくとも解せぬころだが、今となっては誰にも真相は分からなかった。
「山岡さんは以前から誰憚ることなく金子への疑念を口にしていた。『奴の立場を考えれば、いつ裏切ってもおかしくないのだから、近づきすぎるのは危険だ』と、清河に直接警告していたのも耳にしたことがある。この時も、周囲は『一人で呼び出しに応じるべきではない』と止めたそうだが…」
「…彼はとりあわなかった」
「ああ。そして夕刻、金子宅からの帰途を狙われた。うぬぼれ屋の奴らしい最期さ。直接手を下したのは、佐々木只三郎一派だが、金子が手引きをしたのだとすれば、あんたの想像が当たっているのかもしれん」
中沢は、幕府筋のもっと上から何某か示唆があったのではないかという疑惑を臭わせた。
大蔵にとって清河の死は、攘夷の実現が遠退いたことに対する落胆と、姉が炎に焼かれる悪夢から解放された安堵を同時にもたらした。
「だが、なぜ…なぜ今なのだ」
そう言って眉をひそめる大蔵を、中沢は胡乱げに見つめた。
「何か気になることでも?」
「いや…」
「とにかく俺は今、振り上げた拳のやり場に困っている。いっそ京へ戻ろうかと」
「あなたには、江戸でまだやるべきことがあるのでは?」
めずらしく気持ちの揺れる中沢に、大蔵は助言らしきものを与えた。
「というと?」
「清河は死んでも、浪士組にはまだ山岡鉄太郎ら残党がいるじゃないか。奴らの好きにさせていいのですか」
中沢は目を丸くした。
「浪士組を立て直すため、俺に残れと?驚いたな。あんたがそんな平和主義者だと思わなかった」
芹沢鴨、近藤勇ら京都残留組は、その後熾烈な内部抗争を演じ、多数の死者を出したが、江戸に帰った本隊の方でも、上層部の主導権争いは日に日に激しさを増している。
「貴方に悔いが残らないよう、友人としての忠告をしたまで。いや、これは敵に塩を送るというやつかな」
「馴れ合いのお為ごかしより、胸に刺さったよ」
中沢は吹っ切れたように笑って、屯所へと帰って行った。
「聞こえていたんだろう?」
大蔵は閉じられた障子の向こうに声を掛けた。
「私が月を眺めていたら、兄上たちが勝手に話し始めたんだ」
縁側に腰掛けて、酒を飲んでいた荒次郎が応えた。
「…清河の命を狙う者は多いが、この時期が偶然とは思えんな」
大蔵は、弟の意見を求めるように話を続けた。
荒次郎は手酌で杯を満たした。
「はっは、これが外国の崇める神の御業なら、私は迷わず宗旨替えするよ。しかし殺ったのは神ではなく、小栗上野介と老中の小笠原だろ?奴らにとって、清河は眼の上の瘤だからな」
ずけずけと推論を述べる弟に、大蔵は眉を顰めた。
「滅多なことを口にするな。まったく、お前という奴には、酔っていない日がないのか」
「さあ、どうだったかな。思い出せん。そう言うことはシラフのときに聞いてくれ」
「おまえの将来を考えた時、私の気がかりは、胸に仕舞っておくべき言の葉を軽々に漏らす愚かさよりも、むしろその聡さだよ」
荒次郎は、その忠告を黙殺して酒をあおった。
「なあ、見ろよ兄上。今宵の月は、ほぼ真ん丸だ。暦なんぞ当てにならんなあ」




