理由
荒次郎は両手を後ろについて身体を反らし、天井に息を吐いた。
「ふー!斬られるかと思った。喉がカラカラだ」
そのまま身体を起こし、銚子に直接口を付ける荒次郎を見て、大蔵はふと微笑した。
「彼らもそこまで馬鹿じゃない」
「ペリーはこの国に呪いをかけたのさ。どうにかしてこの邪気を祓わにゃ我々は子々孫々まで骨肉相食むハメになるぜ?」
上手いことを言う、と大蔵は思った。
「呪い、か。そういえばこの前、そこの永代橋で首のない死体がふたつ、流れてゆくのを見たよ」
荒次郎は、口に含んでいた酒をブーッと吹き出した。
口元を拭いながら、上目遣いで大蔵を睨む。
「ふん、そりゃあ三日前のことじゃないのか?」
「…そうだったか。よく覚えてないな」
大蔵は少しヒヤリとして、答えをはぐらかした。
荒次郎は、兄の顔色が変わったのを目敏く見て取り、
「そうかい。私はよく覚えている。なにせその日は、敬愛する香川景樹の生誕を祝して、広小路で友人と朝まで痛飲したからね」
「香川…誰?」
「よくは知らんが、有名な歌人か何かだ。だが、酒を飲むにはなにかしら口実が必要だろ?帰りがけに両国橋に晒されている首を見て、橋の上からゲロを吐いた」
実はその日、両国橋の西詰、米沢町に浪士の首が晒されていた。
大蔵が顔をしかめると、
「私が見た首も二つあった。ということは、私の見た頭と兄上の見た胴体は、元々くっついてたと考えれば数が合うな。どっちがどっちかは分からんが」
「どうでもいい。私は、彼らがそうなった理由について話している」
大蔵は、あてつけがましく勝奴の顔を眺めた。
「それについちゃ、多少説明できると思うがね。ご丁寧にも、晒された二つの首には高札が立てられてたからな。『神戸六郎、岡田新吉、其方らは、報国志士の名を偽わり、市中を騒がせ、無銭飲食、その上、金銭を脅し取るなど、不届至極につき、天誅を行うものなり』ってね」
勝奴は勝ち誇ったように笑った。
「報国志士なんて割には、ずいぶんとやることがみみっちいわねえ」
「だろ?気の毒だが、笑っちまう。そんなことで、いちいち首をチョン切られてちゃ、割に合わないよな?」
ひとしきり笑ったあと、荒次郎は急に真顔になって踏み込んだ。
「しかし妙だな。いつもの兄上なら、気になって仏さんを調べたはずだ。彼は誰で、なぜ死なねばならなかったのか」
「なぜ?なんの変哲もない、ただの死体だ」
大蔵は取り合わない。
「変哲がないって?首がないだけじゃ足りないのか?その胴体の上にどんな頭が載っかってたか興味が湧いたはずだ」
「死んだのは、首がなくなったからだ。逆にお前は、晒された首を見て、その下にどんな胴体がくっついていたか、あれこれ想像を巡らせたとでも?」
木で鼻を括ったような答えに、荒次郎はあっさり諸手を上げて負けを認めた。
「もういい。兄上の勝ちだ。だが、ソレを見た時間を届け出れば、死体がいつ、川に投げ込まれたのか逆算できるんだぜ?そうすれば、奉行所も、ある程度下手人を絞り込めたんじゃないのか?」
「かもな。だが、奉行所に力を貸す義理が?街の噂を聴くまでもなく、あれをやったのは清河八郎とその一派、浪士組だと私は知ってる。それで充分だ」
確かに、清河を奉行所に売れば、琴という女性の危機は去る。
攘夷への情熱を失ったいま、なぜそうしなかったのかと大蔵は自問した。
私的な動機から清河の計画を潰すことへの後ろめたさがそうさせたのか。
「あの清河って男はイカレてる。それでも兄上は、ヤツらの凶行を証明することに意味がないと?」
大蔵は荒次郎を見て、ただ薄く笑った。
荒次郎は、その表情に何かを察して、引き下がった。
「そう思ってるなら、ま、いいさ」
理由はわからないが、意味があるからこそ、兄は黙っていたのだ。
「さっきから物騒なお話ばかり。要するに、お兄様も攘夷に肩入れなさってるのねえ?」
「攘夷を望まない日本人がいるのか?」
大蔵は心にもないことを口にした。
勝奴は酒を注ぎながら
「ほらほら大蔵さま、花街は殿方が浮世を忘れる場所です。仕切り直して、まずはバラバラになった首と身体に献杯しましょ」
「ふん、騙されるなよ、勝奴。野暮天の振りをしているが、兄上はこのところ足しげく花街に通っている。しかも、笑えることに、盛り場をうろつく動機というのが…」
「荒次郎!」
大蔵は声を荒げ、制止したが、荒次郎は止めなかった。
「…10年以上前に行方知れずになった姉を探すためなんだとさ」
「へえ、初耳ね。お二人にはお姉さまが?」
勝奴は大蔵がなぜ花街で姉の姿を探すのか理由は聞かなかった。
女が花街に行きつく理由は一つしかない。自分も同じだった。
「しかし、兄上は、さっきの連中を批難し、一方では清河の蛮行を見過ごしておきながら、さりとて自ら深入りする気もない。なにもクサしてる訳じゃないぞ?むしろ私は、そんな血生臭い世界からは早々に手を引いてほしいとさえ願ってる。だが、そのどっちつかずの態度を、どう解釈すればいい?つまり、身を固める気になったと思っていいのか?」
政治談議を打ち切った荒次郎は、ふたたび婚儀の話を蒸し返した。
「ふん、今さら人並みの幸せなぞ期待していない」
「どーして?お卯梅さんは、兄上を好いている。そこが何より大事なところだろう?あんな可愛らしい奥さんを貰えるなら、道場すら余録みたいなもんさ。あとは、兄上の気持ち次第だ」
「さっきのを聞いたろう?ことはそう単純じゃない。道場を継ぐということは、あの水戸家の憂鬱なお家騒動に、イヤも応もなく巻き込まれるということだ」
「それじゃ、まるで意気地がないみたいに聴こえるわ」
勝奴は、率直な感想を述べて、大蔵の答えを待つように、じっとその顔を伺ったが、大蔵はただ物憂げな笑みを浮かべただけだった。
「私の気持ち、か…」
そう呟いたきり、また口を閉ざす。
大蔵にしてみれば、今は、そんなことを考える気にはなれなかった。
清河が、横浜の街に火を放つ前に、何としても琴を関内から連れ出さねばならない。
扱い辛い客に、勝奴はため息をついた。
荒次郎は、勝奴に気を使って
「気にしないでくれ。…姉のいた頃は、もう少し愛嬌もあったんだがね」
「この美貌で微笑みかけられれば、大抵の女はなびくでしょうねえ」
「ふん」
勝奴のお愛想にも大蔵は素っ気ない。
「この通り無愛想なところが、女を惹きつける」
荒次郎は、軽口を叩いて一気に杯を飲み干した。
「辛い別れがあれば、人も変わりますよ」
「ああ…いや、ちがう。そうじゃない。水戸で学問と剣術を納めた兄上は、一度は人生の目的を取り戻した。兄上が笑わなくなったのは、あの日からだ」
「あの日?」
「そう。桜田門で事件のあった、あの雪の日だよ。兄上は話したがらないが、あの事件で大切な友を失ったんだ」
もちろん、勝奴にも説明は必要なかった。
安政七年三月三日。
水戸脱藩浪士が、江戸城桜田門のまえで大老井伊直弼を殺害した事件だ。
世に云う、桜田門外の変である。
「荒次郎、お前、少し喋りすぎだ」
「否定はしないだろ?姉さんが去ったことで、兄上は心の半分を失い、そしてあの日、まるで亡き友と一緒に魂を冥府へ連れ去られてしまったように、残りの半分も凍てついてしまった」
「そんなことは、もうとっくに忘れた」
「あの日を境に、兄上は空虚な夢想に没入していった。元々世の中を斜に構えて見ているようなところがあったが、それからの兄上は、まるで…なんというか、浮世の全てを憎んでいるみたいだ」
「絡み酒か。まったく質が悪いな。私はもう、憎むべき相手を見失っただけだ」
あの日、大蔵の情熱は一気に冷めてしまった。
攘夷の夢は潰えたのだ。
夜も更け、荒次郎は例によって酒を過ごした。
そうなると、絡み酒の悪癖が顔を出す。
「つまり、なにか?功名を遂げる野心も未だ捨て難しってか?まあったく、兄上の欲には終わりがにゃい。伊東家の家禄を継いだだけじゃ満足できにゃいかなあ?」
中沢良之助と真田範之助にそれぞれ迫られた選択が、大蔵の脳裏に蘇えった。
「なら、私も正直に答えるが、自分がどうしたいのか、まだ考えがまとまらない。あの男の言うように、選択肢はふたつにひとつなのか。本当に?三つ目はないのか」
道場と水戸家臣の身分を継ぎ、公儀に尽くすか、それとも、風雲急を告げる京に上り、志士として攘夷のため身を捧げるべきか。
しかし、酔いつぶれて寝てしまった荒次郎からは、大いびきしか返ってこなかった。
勝奴がふいに短歌を諳んじる。
「露をだにいとふ倭の女朗花ふるあめりかに袖はぬらさじ」
大蔵は形の良い眉を寄せた。
「なんだ、それは」
「吉原の遊女の間で密やかに流行っている、詠み人しらずの歌ですよ」
大いびきをかく弟と顔色一つ変えない大蔵を見比べながら、勝奴が妖艶に笑う。
「お堅いお兄様の方に興味が湧いて来たわ」
捨て鉢になった大蔵は、誘うような目で挑発した。
「君は淫らなのが好みか?放蕩者は得てして倒錯した遊興を好まん。火遊びをしたいなら、寡黙な男を選ぶことだ」
「利かん気が売りの辰巳芸者がそんな脅しに怯むとお思い?」
勝奴はその喧嘩を買い、大蔵の膝に手を置いた。
その日、大蔵は褥の中で結婚を決めた。




