数寄屋芸者
大蔵にはひとり、「不肖」の弟があった。
世の放蕩者には付きものの紆余曲折を経て、今は三木荒次郎などと名乗っていたが、いつも、ただ飯、ただ酒を目当てに、ひょっこり兄の道場を訪れては、無為に時間を潰して帰っていく。
この日も、不意に現れたかと思うと、ズカズカと屋敷に上がり込み、中庭に面した縁側に腰を下ろした。
家人も慣れたもので、誰も咎めようとしない。
ちょうど竹箒を持った卯梅が庭を掃いていて、荒次郎は小さな池に浮かぶ蓮の花を眺めながら、その背中に声をかけた。
「兄上は?」
「大蔵様なら、また部屋に閉じこもってます」
武門の育ちらしい、よく通る声が返ってくる。
「ふ~ん」
荒次郎は、気のない返事をしながらのっそり立ち上がり、そのまま大蔵の部屋に向かうと思いきや、もう一度卯梅に向き直って唐突に切り出した。
「そうだ、お卯梅さん…あなた、これでよかったんですか」
「なにがでしょう?」
卯梅が不安げに問い返す。
「兄のことですよ。跡継ぎについてお父上は別の選択肢も考えておられたとか。いやね、ふと思ったんだが、ひょっとしてお父上は何か遺言のようなものを貴女に託していたんじゃないですか?」
卯梅は、思わず袂に手をやった。
そこには誰にも見せていない父の遺書を隠し持っている。
「…やはりそうか。そこには何と書いてあるんです?」
卯梅は荒次郎の目をキッと見返した。
「なぜ、そんなことをお聞きになるんですか」
「なに、お家断絶なんてことになれば一大事と御親族の方々が色々と気を揉まれてましてね。実は、ちょっと探りを入れてほしいと小遣いをもらって来たんですよ。ま、これで義理は果たしたことになるから、いいかな」
荒次郎は、なぜか大っぴらに裏を明かすと、飄々と大蔵の部屋に歩いて行った。
卯梅は竹箒を持ったまま、呆気にとられて立ち尽くした。
荒次郎は突き当りにある部屋の障子を無遠慮に開け放ち、鼻をクンクンと鳴らした。
「香を焚いているのか。相変わらず風流なことだ」
兄、大蔵は、黒縮緬の羽織を着て床几に向かっていた。
「安物の沈水香木だ。何か用か?」
振り返りもしない。
「部屋に籠って風雅な道楽に耽るのも結構だが、お卯梅さんの傍に居てやらなくていいのか?」
大蔵は嫌な顔をした。
「葬儀には顔も出さず、今さら家のことに口を挟む気か?我々は喪に服してるのだ」
もう何度口にしたか知れない応え。
「では、死者を悼むのは暫し休憩して、パッと芸者でも揚げようじゃないか。退屈しのぎにいいものを見せてやる」
結局「あの日」、港崎遊郭でも有用な情報は得られず、さきほどまで大蔵は独り悶々と姉の身を案じ、焦れていた。
何か口実を設けては酒をたかるのが荒次郎の常套手段で、今さら呆れもしなかったが、とても芸者遊びの気分にはなれない。
「柳町の女は、たいがいお前のお手付きだろう?勘弁してくれ」
しかし、荒次郎も引かなかった。
「そりゃ買いかぶりすぎだ。数寄屋町の三州家って置屋に面白い芸者がいるんだ。兄上もきっと気に入る」
「そんな気分じゃない」
「どうせ毎日、暇してるんだろ?」
荒次郎は、有無を言わさず大蔵の二の腕を掴み、
「知ってるぞ。あちこちの盛り場で兄上の噂を聞く。まだ諦めてないんだろ?姉上のこと」
と、二人の間でしか通じない「理由」を持ち出した。
「バカ言え」
動揺のせいか、振りほどこうとする大蔵の手が止まった。
その隙を逃さず、荒次郎は半ば強引に兄を部屋から引きずり出した。
「こんな辛気臭いのが居たら道場の空気が澱むでしょう?ちょっと連れ出してきます」
大蔵の背を押しながら、荒次郎は庭を掃いていた卯梅に向けて、ひらひらと手を振った。
卯梅は竹箒を地面につき、まるで豪傑のように仁王立ちして、頬を膨らませた。
「どちらへ?」
荒次郎は、兄を玄関の方へ押しやりながら、目尻を下げて見せる。
「そんなこと聞くのは野暮ですよ」
「早く返してくださいね。うちの大事な師範なんですから!いかがわしいところへ連れていくのは…」
大蔵が先に行ったのを横目で確認すると、荒次郎は芝居がかった手つきで顎に手をやり、急に真面目な顔を作った。
「もう一度よく考えてごらんなさい。祝言は喪が明けた後でしょう?今ならまだ間に合うかもしれない。無論、私としては兄を選んでほしいが、ここは貴女の家、貴女の人生だ」
「考えることなんてありません。これでいいんです。このままで」
卯梅はきっぱりと言った。
「お卯梅さん、じゃあ貴女…?」
卯梅は意を決したように、上目遣いで荒次郎を睨みつけた。
「ええ!私、大蔵様をお慕いしています。前の奥様の代わりでもいいんです。いけないことでしょうか?」
あまりに真っ直ぐな告白に、荒次郎は目を丸くした。
「とんでもない!こんな綺麗な義姉が出来れば、私もアレコレ良からぬ妄想を楽しめるというもんだ」
「そ!そういうことを言わないでください…」
荒次郎は冗談に紛らせて踏み込んできた。
「兄は知ってるんですか?遺言のこと」
卯梅は俯いて、唇を噛んだ。
「いまそんな話を持ち出せば、まるで道場や家禄を餌に大蔵様の気持ちを買ったみたいじゃないですか。そんなのはイヤ。これでも武家の娘ですから!」
荒次郎は苦笑した。
「はは、女心は複雑ですなあ」
玄関先から、しびれを切らした大蔵の声が響いた。
「自分から誘っておいて、何をしている!」
「はいはい!ただいま!」
おざなりな返事をしておいて、荒次郎はもう一度、真剣な眼差しで卯梅を振り返った。
「そう言うことなら、お力になれると思いますよ。いいから、今日のところは私に兄上を預けなさい」
そう言って、ウインクをすると意気揚々と出掛けて行った。
荒次郎は下谷数寄屋町の東仙閣という料理屋に入って行った。
勝奴と言う芸者は、荒次郎が気に入るだけあって、凛とした中にも上品な美しさがあり、今でいうところのクールビューティーの趣があった。
深川鼠というグレーの着物に、葡萄酒色の菱紋の帯を太鼓結びにして、羽織を付けている。
いわゆる、粋な辰巳芸者のスタイルだ。
「勝奴だ。な?ちょっと須磨に似ていないか?」
二人には、大蔵より8つ下の妹、須磨がいる。
「そんなことを言うために誘ったのか?」
「須磨ももう二十一で綺麗な盛りさ。田村家に嫁いでから、まだ一度も顔を見に行ってないだろう?」
荒次郎はさりげなく家族の話などをしながら、勝奴の尻を撫でて、手を叩かれた。
「これは俺が何か考え事する時の癖だ。気にするな」
「…やれやれ、やはり目的は私の金か」
「いやいや、酒に誘ったのは口実で、折り入って話がある」
「話せ」
「私という人間は、少し酒が入らんと真面目な話ができないんだ」
荒次郎は勝奴が酌をしようとするのを手で制して、自分で酒を注ぎながら促した。
「勝奴、なにか、面白い唄をやってくれよ」
「面白い唄?」
「そうだ。前に聴かせてくれた…アレなんかどうだ?」
「アレ?…ああ!」
勝奴は何か思い当たった様子で、それから大蔵をチラリと見て、荒次郎に念を押した。
「本当に、良うござんすか?」
大蔵は二人のやり取りに少々うんざりした様子で顔を背けた。
「ずいぶんと勿体ぶるじゃないか」
「それじゃ」
勝奴はツンと澄まして三味線を構えると、聴いたこともないような旋律を奏ではじめた。
♪Nous n'irons plus au bois,
Les lauriers sont coupés,
La belle que voilà
Ira les ramasser.
Entrez dans la danse,
Voyez comme on danse,
Sautez, dansez,
Embrassez qui vous voudrez.
La belle que voilà Ira les ramasser.
Mais les lauriers du bois,
Les lairons nous couper?
Mais les lauriers du bois,
Les lairons nous couper?
Non chacune à son tour
Ira les ramasser.
目を閉じて聴いていた大蔵は、歌が終わると勝奴を流し見た。
「今のは?」
それはフランス語の歌曲だった。
「“Nous n'irons plus au bois”、『もう森へは行かない』という、仏蘭西の子供たちが唄っている民謡です」




