欠けた半分 Part2
大蔵には、幼いころ生き別れになった琴という名の双子の姉がいた。
数えで十三になるまで、片時も離れることがなかったが、父鈴木専衛門が不祥事を理由に蟄居閉門を命ぜられると、二人の運命は突如暗転した。
父は優秀な官吏で、人望も厚く、それ故に妬みを買うことも多かった。
ことに家老の横手惣蔵は、自らの地位を脅かす存在として父を疎んでおり、
おそらくこの時も、彼があることないことをでっち上げて、専衛門を陥れたのだと城下では噂されていた。
父は謂れのない処分を不服として、身の潔白を証明するため家を飛び出し、そのまま行方知れずに。
大黒柱を失った鈴木家は、縁者に身を寄せたが、口減らしのため、大蔵は遊学を理由に水戸へ送られ、姉も土浦へ嫁ぐことになった。
しかし、父が志筑藩の家老と反目していたことが知れると、巻き添えを恐れた嫁ぎ先は、姉との縁談を一方的に反古にした。
外聞を恐れた鈴木家は、貧しさゆえ、秘密裏に姉を身売りするほかなかった。
大蔵がその悲劇を知らされたのは、何年もあと、水戸から帰って来た時のことである。
生き別れとなった琴の消息は、吉原の遊女になったところで途絶えていた。
そして彼は、今も姉の行方を追い続けている。
総髪を解き、器用に女髪を結いながら、大蔵は唇を嚙み締めた。
もはや幕府への期待は消えかけていたが、それならばせめて、日本の女を、姉を辱めた外国人をこの手で斬り殺してやりたい。
「ええ。その紙きれ一枚手に入れるのに、有り金全部使い果たし…」
喜佐子は小袖を着た大蔵に目を奪われ、一瞬言葉を失った。
女にしか見えない。
「…驚いたわね」
いや、喜佐子の見るところ絶世の美女と言ってもいいくらいだった。
喜佐子は胡桃油で大蔵の髪を簡単に整えてやり、
仕上に数本簪を差して、満足げに微笑んだ。
「少々荒っぽいけど、ここは吉原じゃない。港町の遊女くらいになら、見えなくはないでしょ」
「おまえの条件を聴く前に、一つ教えてくれ。関内で琴という名の女に会ったことは?」
そう聞いたものの、大蔵はあまり期待していなかった。
遊女たちは、廓では源氏名で呼ばれる。
だが、喜佐子の顔色が変わった。
「その女は、お侍様とどういう関係?」
「お互い余計な詮索はしないと、いま決めただろう」
「どうかしら。ありふれた名前だから、私の知っているお琴が、あなたの探している人とは限らない」
「知ってるのか」
大蔵は身を乗り出した。
「そういう名前の子が、私と同じころに岩亀楼にいた。仲がよかったの」
そう言って、喜佐子はまた咳きこんだ。
「彼女は今もそこに?」
「分からない。フランス公使お抱えの茶坊主が身請けして、妾にされたって噂を聞いた。それが、私の戻って来た理由」
奇妙なことに、二人が追い求めている女郎は、同じ名前だった。
これは、ただの偶然だろうか?
喜佐子の言う茶坊主とは、フランス外国宣教会のメルメ・カションという神父のことで、フランス公使ベルクールに取り入り、通訳として側仕えして武器売買の利権にまで絡んでいるという噂があった。
一部では怪僧などと呼ばれている、曰く付きの男である。
必ずしも利害が一致するわけではない列強諸国にとって、キリスト教的な価値観(カトリックやプロテスタント、ロシア正教という違いはあれ)は、日本的な思考に対峙する上で彼らの大きな共通項として機能した。
「女の身で、苦界から友人を助け出しに来たというのか。無茶だ」
「私たちは、あの檻のような街で生き抜くために二人で支え合ってきた。だから何とかやってこれたの。それが、二人そろって紅毛人の妾にされるなんて…」
喜佐子は唇を噛んだ。
「私が彼女の噂を知ったとき、ちょうどイギリスの軍艦がどんどん神奈川の入江に入ってきた頃で、関内はとても近づけるような雰囲気じゃなかった。けどやっと、街に人が戻り始めたと聞いて…。旅籠で待っていれば、彼女が関内から外出した時に会えるんじゃないかと淡い期待を抱いていた。でも今は宿賃も尽きて、一か八か、関内に乗り込む覚悟をしていたところ」
「なるほど、だからこんな着物を持参したのか」
「私の条件を言うわ。お琴に会ったら、彼女の足抜けを手伝って。それから、私は、喜遊は四谷鮫河橋にいるからって、そう伝えて」
「なぜ、見ず知らずの私を信用する」
「いまの私に他の選択肢が?どっちにしてもダメなら、あなたに賭けた方が、まだわずかでも成功の目があると思わない?」
「まあ、よかろう。私の目的も似たようなものだからな」
「お侍様はなぜ…?」
『私は琴の縁者だ』
喜佐子の熱にほだされたのか、大蔵は口から出かけた言葉を飲み込んだ。
「どうでもいいだろう。そんなことは」
二人の捜している「琴」が同一人物なのかはまだ分からない。
が、ともあれ、利害は一致したのだ。
この女が独りで抜けられたのなら、自分が琴を連れだすことも可能だと、大蔵はおおいに自信を得た。
ちょうどその頃、
大蔵の目指す関内の入口、関所の設けられた吉田橋で、不穏な動きがあった。
菅笠を目深に被った浪人が四人、一丁ほど手前にある町家の影から関所の様子を伺っている。
「おいおい。ずいぶん警戒が厳重だが、入れるんだろうな?」
目つきの鋭い男が、背後を振り返った。
男の名は、清河八郎。
中沢良之助が危険視していた、攘夷活動家である。
「窪田治部右衛門のバカ息子を騙して紹介状を書かせた。こいつがあれば、関所の役人どもも黙って通すさ」
応じたのは山岡鉄太郎、後の山岡鉄舟。
彼らはある計画を秘め、偵察を目的として、この管理区域への侵入を試みようとしていた。
メンバーは、いずれも浪士組幹部で、清河の弟 斉藤熊三郎、西恭輔を加えた四名である。
清河が顎をさすった。
「ふうん。さすがに抜かりないな」
浪士組取締役だった窪田治部右衛門は、彼らが京に上ったあとも江戸に残り期日遅れの応募者への対応など勤めていたが、浪士組本隊が江戸に帰還したのと入れ違うように、神奈川奉行支配定番役頭取取締(かながわぶぎょうしはいじょうばんやくとうどりとりしまり)の任に就いていた。
息子泉太郎も、父と共に神奈川へ転勤となって、いまは神奈川奉行の組頭を勤めている。
清河らは、まんまと二人を出し抜いたつもりでいたが、
そうとばかりも言えなかった。
神奈川奉行所の南に野毛山という小さな丘があり、その裾野に奉行所の役宅はあった。
窪田治部右衛門は、帰って来た息子が挨拶に顔を出すと、背を向けたまま尋ねた。
「清河を関内に入れたそうだな」
その声に込められた高圧的な響きに、泉太郎は萎縮した。
「ええ。何か問題でも?彼は横浜の実情を見聞したいと…」
「奴の真意を知ってのうえか?」
「…真意、ですか?」
治部右衛門は眉間に深い皺を刻んだ。
「我が息子ながら、情けない限りだな。奴は非常手段に訴えて攘夷を煽る気だ。お前は羊の檻に狼を放ったのだ」
泉太郎はしばらくポカンと口を開いたまま突っ立っていた。
「私は…騙された?くそ!山岡の奴!必ずけじめをとって見せます」
「まあいい。慌てるな」
ようやく事の重大さに気付き、飛び出していこうとする息子を治部右衛門は引き止めた。
「は?」
「いいか、お前は窪田家の跡継ぎだ。簡単な損得勘定も出来んようでは、お家の存続は叶わぬと心得よ。清河が何かやらかそうという魂胆なら、好きにさせろ。浪士組に中沢という若い隊士がいて、清河を見張らせてある。わしの予想が正しければ、始末をつけるのは事が起きてからでも遅くない」




