欠けた半分 Part1
鈴木大蔵には、この日、横浜港に「大切な用事」があった。
この頃。
横浜では英国代理公使ジョン・ニールが、2月の下旬から続々と軍艦を入港させて幕府を威嚇、圧倒的な軍事力を背景に生麦事件の賠償を迫っていた。
外国の公使たちを悩ませ、交渉の進捗を阻んでいたのは、現在に至るまで連綿と続く天皇制という不可解な権力の二重構造だった。
この国では、行政や軍事を司る時の権力者が入れ代わり立ち代わりに君臨してきたが、古来、それを任命できるのは、あくまで万世一系の統治者たる天皇のみという不文律があった。
しかし今、この制度が外交交渉の混乱を生み、同時に国内の権力争いの根源となっている。
そんなわけで交渉は難航し、3月の中旬を迎えるころには、港に乗り入れているイギリス艦隊は、実に12隻に及んでいた。
ここに至って、神奈川奉行も武力衝突を現実的な危機と捉えるようになり、横浜港近隣から老人や女子供の避難指示を出すなど、事後処理を巡る緊張は極限まで高まっていた。
大蔵は、あわよくばこの厚かましい異邦人どもの姿を一目見たいと思っていたが、横浜を目指す本来の目的は別にあった。
ただ、いずれにせよ、この頃の関内は戒厳令が敷かれたような状況で、ネズミの入り込む隙間もなかった。
4月に入り、内陸に避難していた人々が、ようやく横浜の村に戻り始めたと伝え聞いて、大蔵もついにこの日、江戸を立ったのだった。
深川佐賀町の永代橋から、日本橋に出て、東海道を南下、途中、川崎宿で昼食を取るとして、徒歩なら、四刻はかかる。
大蔵が神奈川宿の台町に到着したのは昼をとうに過ぎた頃だった。
この辺りは、その名の通り高台になっていて、海沿いの街道には景観を売りにした料理屋や茶屋が軒を並べている。
抜けるような青空が広がっていたが、
長い坂道から見渡せる凪いだ海には、我が物顔で煙を吐く黒船がそこかしこに浮かんで、景観を損ねていた。
「大きいな…甲板に並んでいるあれは、砲門か…醜悪だが、確かにあんなものを操る連中と渡り合うのは骨が折れそうだ」
あれは幕府に対する威嚇行為に外ならず、すなわち、こうしている間にもイギリス政府はこの国に無言の圧力をかけているのだ。
だが、坂を登りきったところにある料理屋の前で大蔵が見たのは、さらに奇異な光景だった。
「その手を離しな!汚らわしい!」
みすぼらしい格好をした若い女が、山のような大男に腕を捻りあげられ、叫んでいる。
赤い髪に茶色い瞳、その男は明らかにこの島国の人間ではなかった。
一瞬、大蔵の脚は目に見えない呪いのようなものに絡めとられた。
「…下らん。何を怖気づく」
理性が呪いを断ち切ると、大蔵はゆっくりと二人の前に進み出て、刀の鯉口を切った。
「やれやれ、素通りしていい雰囲気ではないな。何があった」
大蔵は女に尋ねた。
しかし女は、もがきながら、なおも強がった。
「ふん、あんたの知ったことじゃないよ。いいから、見なかったことにして、さっさと逃げな!」
「異国のお方、女相手に少しやりすぎではないか」
大蔵は努めて穏やかに話しかけたが、その外国人は興奮して捲し立てる。
“You out of the way. This bitch, she spit on me. So I'll make her apologise. (そこをどいてもらおう。この娘は、私に向かって唾を吐いた。謝罪してもらう)”
顔中に古傷がある、まさに歴戦の猛者という感じだった。
エドワーズ中尉。
当時横浜に停泊していたイギリス海軍の旗艦ユライアラス号の士官である。
大蔵の体躯はスラリとして日本人としては長身であったが、その外国人とは大人と子供ほどの体格差があった。
「あんたが!あたしのこと、ジロジロいやらしい眼で見るからだよ!」
女が金切り声を上げた。
エドワーズは、女の態度でその言葉の意味を理解したらしい。
“…bitch!(このアマ!)It seems you don’t understand your position until you’ve had a painful experience. (どうやら痛い目に合わないと、自分の立場というものが理解できないらしいな)”
低く吐き捨て、さらに女の腕を強く捻り上げる。
女の顔が苦痛に歪んだ。
大蔵が一歩踏み出す。
「…ふん。少々主義に反するが、言葉が通じないのではしょうがないな」
エドワーズが、腰のサーベルに手をかけようとしたときには、
大蔵はすでに抜刀して、地面から摺り上げるように剣を払っていた。
詰襟のボタンがきれいに弾け飛んで胸元が開けると、
エドワーズは驚きに目を見開き、震える指先で大蔵を指さした。
“Y-you... you savage monkey!(こ、この野蛮な猿め!)”
「往来で、そのような格好をした男が女に言い寄っては、外聞も悪かろう」
大蔵は冷酷に笑った。
エドワーズは顔を真っ赤に染めながらなおも毒づいて、逃げるようにその場を去っていった。
「バカなことをしたわね。悪いけどわたしと寝たいから助けたんだとしたら…」
「なるほど。あれが紅毛人か」
遮られた女は、きまり悪そうに咳払いをした。
「アレは人じゃない。毛むくじゃらの獣だよ。なに?あんた、わざわざ神奈川くんだりまで、あんなものを見物に来たわけ?」
「まさか。いや、似たようなものか。あの黒船を近くで見たい」
「へえ?けどお侍様、その恰好じゃ関内に入るなんてとても無理ね」
女は品定めするように大蔵を眺め回した。
その口ぶりには、なにか裏口があるといった含みが言外に感じられた。
今も残る「関内」の地名は、もともと外国人居留区を仕切る掘割に設けられた「関所の内側」という意味である。
「ほう、何か手があるのか」
「そうね、お金次第かしら。300文はお持ち?」
女は金を受け取ると、目の前にある旅籠に入って行った。
「こっちよ」
「どういうつもりだ。お前と寝る気はない」
「バカね。ここは待合茶屋じゃない。東海道の往来で着替えられないでしょう?」
「てっきり、ここの飯盛り女かと思ったが」
「まさか。この辺りにはああいう異人の客も多い。奴らにかしずくなんて反吐が出る」
二人は訳ありの関係を装って部屋を取った。
旅籠料理屋「田中屋」の主人、晝間弥兵衛は、こうした秘め事に目を瞑るのは弁えているとばかりに、当たり障りのない話題で二人を迎え入れた。
「近ごろは湊のあっち側(横浜村)の方が賑やかでねえ。異人さんのせいで商売あがったりよ」
案内されたのは二階の隅、街道の喧騒が遠のく一室。
部屋に入ると、女は使い古された風呂敷を解いた。
「これを着てお行きなさい」
差し出されたのは、高価そうな目の詰まった絹の着物だった。
「私に女の格好をしろと?」
大蔵が顔を顰めると、女は少し咳きこんでから頷いた。
「ええ。その細見に女のような声、キレイなお顔をされてるから、上手く化けられるでしょう?そもそも、今の関内は厳戒態勢で武士は入れてもらえない。それしか手はないと思いますけど、どうなさいます?」
理詰めで迫られて、大蔵は渋々着物を受け取った。
「なぜ、こんな高そうな着物を持っている?どうして見ず知らずの私に、そこまでしてくれるんだ」
女は大蔵の質問に答えず、その眼をじっと見返した。
「私ね、喜佐子っていうの」
「喜佐子?」
「そう。もちろん、協力には交換条件があるわ」
喜佐子はそう告げて、懐に手を差し入れ、二枚の紙きれを大蔵に突きつけた。
大蔵は訝しみながら、その紙と喜佐子の顔を交互に見やった。
「通行手形と切手の半券よ」
大蔵はそれを手に取り、記載を改めた。
「一年も前のものだな。なにか訳がありそうじゃないか」
「関所でそれを見せて。医者通いの外出で、これから岩亀楼に戻るって言えば通してくれる。神奈川奉行の役人なんて、浪人崩れの臨時雇いばかり。出るのは一苦労だけど、帰って来た女郎の手形なんか、ろくに見やしないから」
「岩亀楼?居留地の中には遊廓まであるのか」
大蔵が、緋縮緬の長襦袢を羽織りながら肩越しに振り返る。
流れる視線の色香に、喜佐子は思わず赤面した。
「あ、え、ええ、そう。外国人専用のが。岩亀楼は港崎の中でも一番大きな楼閣で、洋風の屋根の上に時計塔が建っているから、すぐにそれと分かるはず」
「おぞましい話だな」
「私はね、喜遊という源氏名でそこにいたの。一夜送りって言ってね、女郎は奴らに呼ばれれば家まで出向く。一年前、そうしてアメリカ人の客に気に入られた私は、妾に請われた。もちろん、私たちに断る権利なんかない。だから自害を装い、足抜けしたの」
喜佐子はそう言って、また咳き込んだ。
なにか、重い病気を思わせる
「あまり良くない咳だな。労咳かもしれん、医者に診てもらうといい」
「放っておいて」
大蔵は、苦笑して話題を変えた。
「侍は入るのが難しく、遊女は出るのが難しい町、か。なるほど面白い。そんなに苦労して抜け出した横浜に、なぜ舞い戻って来た」
喜佐子はウンザリした顔で大蔵を睨んだ。
「ねえ?お互い、余計な詮索はよしましょう」
「そうだな」
袖を通しながら頷いた大蔵の眼は、異国人への憎悪に燃えていた。
もとより、女の事情を詮索する気などなかった。
つい立ち入った事まで聞いてしまったのは、この喜佐子と言う女と、自身の姉を重ねたからかもしれない。
【用語・地名・人名】
・英国代理公使ジョン・ニール:イギリスの外交官。公使オールコックの帰国中に代理を務めた。生麦事件の賠償交渉において、強力な軍事圧力を幕府にかけた人物。
・代理公使:公使が不在などの際、その職務を臨時に代行する臨時の外交使節。イギリスのジョン・ニールなどがこれにあたる。
・権力の二重構造:江戸幕府(行政・軍事の実権)と朝廷(伝統的な権威・任命権)の双方が権力を持っている状態。外国勢力から見れば「どちらと交渉すれば国が動くのか」が不明確であり、混乱の元となった。
・万世一系:永久に一つの系統(皇統)が続くこと。日本の皇統が途絶えることなく続いていることを指し、その正統性を表す言葉。
・不文律:成文化されていないが、当然守るべきものとされている決まり。
・戒厳令:戦時や政変などの緊急時に、軍隊が治安維持にあたり、国民の権利や自由を制限すること。
・関内:横浜開港場において、関門(検問所)の内側に設けられた外国人居留地および幕府の行政機関が集まる区域。幕末、居留地を囲む堀に「関門(関所)」が設けられ、その内側を「関内」、外側を「関外」と呼んだことが由来。現在の横浜市中区の一部にあたる。清河の計画ではここが焼き討ちの標的となっている。
・岩亀楼:横浜の遊郭「港崎遊郭」を代表する最大級の楼閣。外国人専用の応接間を備えた三階建ての豪華な建物で、屋根に設置されていた洋風の時計塔は、横浜港のシンボル的な存在だった。外国人専用の遊女が在籍しており、「板頭」とはその中でもトップクラスの売り上げや人気を誇る遊女(板頭)を指す。
・鯉口を切る:刀の鞘の口から、刀身を少しだけ抜き出し、いつでも抜刀できる状態にすること。親指で刀の鞘の口(鯉口)を少し押し出して、はばき(刀身の根元の金具)を外す動作。暗殺や戦闘の直前の合図となる。
・四刻:江戸時代の時間単位。約8時間(1刻は約2時間)。
・飯盛り女:宿場で給仕をしながら、客に春を売る(売春を行う)女性。
・足抜き(あしぬき):遊女が借金を残したまま、遊郭から無断で逃げ出すこと。重罪とみなされ、捕まれば厳罰に処された。
・源氏名:遊女や芸者が仕事の上で名乗る名前。
・労咳:結核の旧称。当時は不治の病とされ、激しい咳と血痰が特徴。
・旗艦:艦隊の司令官が乗る中心的な軍艦。
・サーベル:西洋の軍人が用いる片刃の剣。
・緋縮緬の長襦袢:鮮やかな赤い絹織物で作られた、着物の下に着る肌着。女性用であり、大蔵が変装のために用いた。
・300文:江戸時代の通貨。現在の価値で数千円程度。当時のそば1杯が16文程度だった。




