コインが縁に立った日
朝、コンビニの自動ドアが開くタイミングって、わりと運だと思う。
早すぎると風が刺さるし、遅すぎると肩がぶつかる。
だから僕は、あの“間”を少しだけ信用していない。信用していないのに、毎朝そこを通る。矛盾って生活に似ている。
「おはよー」
千紗が玄関で靴ひもを結びながら言った。
アンはその足元に寝転んで、靴ひもに猫パンチの準備をしている。
「おはよう。アン、今日は紐はやめて」
言った瞬間、アンが“やめてって言われたことをやる”顔になった。
猫は自由意思の塊だ。だからこそ、こちらの手順が試される。
「今日は寄り道する?」
千紗が聞く。
「うん。帰りに郵便局。あと、コンビニ」
「またコーヒー豆?」
「豆じゃなくて、封筒。……あ、あと、りんご」
「シャクの人」
「食感で割る係」
僕らの家から駅へ向かう道は、いつもの一本道じゃない。
スリット。線。椅子。第三の動き。
それらがあるから、僕らは“ゼロか百か”にならずに済む。
今日は右の細い道を選んだ。通学路の脇の、家と家の隙間を抜ける道。スリットみたいな道。
その道の角に、小さな公園がある。ブランコが二つ、鉄棒が一つ、ベンチが一つ。
ベンチがあるだけで、そこは“椅子”になる。第三の動きの拠点。
「そういえば」
千紗が言う。
「昨日、あなたが言ってた“偶然って怖い”の続き、まだ聞いてない」
「……あれね」
僕は苦笑した。
「怖いというか、刺さる。刺さると、凹凸が必要になる」
「凹凸」
千紗が小さく復唱する。合言葉。刺さったときの手すり。
僕は歩きながら、指先でポケットの中の小銭をいじった。
今日の小銭は、五十円玉が一枚。穴あき。軽い。
穴って、見方によっては欠損で、見方によっては風通しだ。
「偶然ってさ」
僕は言った。
「“意味”が勝手に貼られるじゃん。あとから。人が」
「うん」
「で、その意味が、たまに刃物みたいになる」
刃物。
僕らの世界で言う“武器”は刃物じゃない。鈴。背中を押す合図。
でも、意味づけは刃物みたいに鋭くなることがある。
偶然に意味を貼ると、切れる。心が。
千紗が歩幅を合わせてくれる。
合わせる。
それが彼女の“受信機”の使い方だ。拾って、追い立てない。
「じゃあ今日は」
千紗が言う。
「偶然に意味が貼られそうになったら、先に“錨”を打とう」
「錨の一語+理由一行+鈴」
「そう。風に飛ばされない」
駅前の交差点で信号待ちをしている時、僕らの横に、スーツ姿の男が立った。
香水が強い。スマホを見ながら貧乏ゆすり。
ほんの数秒、視界の端で“見覚え”の輪郭が揺れた。
心が、勝手に“チッ”と鳴った。
ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凸は、匂い。
凹は、過去の記憶。
一手は、呼吸を吐くこと。
僕は息を吐いた。
その男が、ふと顔を上げた。
目が合った。
……違う人だった。
でも、似ている。
似ているだけで、心は勝手に古い扉を開けようとする。
「今、刺さった?」
千紗が、僕の横顔だけ見て言う。
「刺さった」
「凹凸」
「凹凸」
信号が青になって、人波が動き出す。
僕らは人の流れに入る。流れって、泳ぎに似ている。
クロールみたいに、進むふりをしながら、息を確保する。
それでも、刺さりは残る。
駅の改札を抜けて、ホームへ向かう途中。
僕は、角の柱に貼られたポスターを見た。
駅の構内イベント。地域の写真展。
ポスターの端に、小さく「応募締切:今日」と書いてある。
「今日?」
僕が呟くと、千紗が覗き込む。
「写真展……あなた、昔撮ってたよね」
「撮ってた。今は……」
「今は?」
「撮ってない。忙しいとかじゃなくて、撮らない理由が増えた」
撮らない理由。
過去の刺さり。
あの男が“違う人”でも、似ていただけで、僕の中の「撮らない理由」がざわつく。
「ねえ」
千紗が言う。
「偶然が刃物になりそうなら、こっちの武器で押し返す」
彼女はバッグの中を探って、小さなキーホルダーを取り出した。
小さな鈴。家の鍵についてる、あの鈴だ。
ちん、と鳴る。
「さぁ」
背中が、ほんの少し押される。
押されるって、怖い。けど、いまは必要な押しだ。
「でも締切今日だよ」
「今日って、偶然?」
「偶然だと思う」
「なら、必然にする手順を踏もう」
千紗が言う。
「たまり場式。いきなり全部じゃない。ピース化」
ピース。欠片をピース化して完成側へ戻す。
僕は、心の中で欠片を探した。
“応募する”は大きすぎる。
“写真を撮る”も大きい。
じゃあ、欠片は何だ。
「……写真フォルダを開く」
僕が言う。
「それならできる」
「それがピース。完璧」
ホームのベンチに座った。椅子。第三の動き。
僕はスマホを取り出して、写真アプリを開いた。
最近の写真は、アンの寝顔と、千紗の料理の湯気と、空。
空はいつも線を引いてる。電線の線。雲のスリット。
それだけで十分だったはずなのに、僕はわざわざ昔のフォルダを開いた。
古い写真が出てくる。
街角。人の背中。階段の手すり。
そして、ある一枚。
川沿いの遊歩道。
ベンチ。
そして、カラス。
黒い羽。
画面の中のカラスは、こちらを見ている。賢い目。
あの日、僕は偶然そのカラスを撮った。
たまたまカメラを持っていた。
たまたま川を歩いていた。
たまたまカラスがいた。
たまたまシャッターを切った。
なのに、写真を見た瞬間、胸の奥が“必然”みたいに鳴る。
この写真、覚えてる。
覚えてるっていうより、刺さってる。
「……チッ」
口に出さずに、心の中でブザーが鳴る。
凹凸。
一手。
僕は画面を閉じかけて、止めた。
ここで閉じると、また“撮らない理由”が強くなる。
ゼロか百かになる。
だから、椅子の動き。第三の動き。
閉じない。応募もしない。
“保留”にする。
千紗が言う。
「今、錨」
僕は頷いて、言った。
「戻る」
千紗がすぐ続ける。
「理由」
「過去が刺さっても、今の僕は今の呼吸を優先する」
千紗が鈴を鳴らす。ちん。
「錨、固定」
固定した途端、写真のカラスが“ただの鳥”に戻った気がした。
意味づけの刃が、少しだけ丸くなる。
電車が来る。
ドアが開く。
僕らは乗る。
車内の広告が流れていく。
偶然みたいに、いろんな情報が目に入る。
でも、拾わない。受信機のチューニングを、今日は自分で握る。
「ねえ」
千紗が言った。
「偶然と必然の境目って、たぶん“自分が手順を踏んだかどうか”なんだよ」
「手順」
「うん。偶然を見つけただけだと、ただの偶然。でも、そこに自分の一手を足したら、必然っぽくなる」
「必然っぽく、って言うんだ」
「必然は重いから。重くしない。暗く沈ませない。ほら」
彼女が言う「暗く沈ませない」は、僕らの家の合言葉みたいになってる。
落ちるのを禁止するんじゃない。
落ちた時の手すりを用意するって意味だ。
昼。
仕事の合間に、僕は駅のポスターを思い出した。
締切今日。
偶然の刃が、また小さく光る。
でも、今日はもう錨を打ってある。
僕はスマホにメモを開いて、一行だけ書いた。
『写真展:保留。フォルダを開いた=ピース達成。』
それだけで、胸の奥の羽が一枚、軽くなる。
完成じゃなくていい。
ピースにして戻る。
夕方、帰り道。
郵便局で封筒を買って、コンビニでりんごを買った。
自動ドアのタイミングは、今日はちょうど良かった。風が刺さらない。肩もぶつからない。
それが“偶然”でも、“必然”でも、どっちでもいい。
僕は、りんごの袋を持って歩く。現実通りの重さ。
家に帰ると、アンが玄関で出迎えた。
鳴かない。
でも、目が言ってる。「遅い」と「おかえり」を同時に。
「ただいま」
僕が言うと、千紗がキッチンから顔を出した。
「おかえり。りんご?」
「シャク」
「よし。食感で割ろう」
りんごを切る。
包丁の刃は、今日の刃物。
でもこれは、傷を作る刃じゃない。
割るための刃。
感情を小さくするための刃。
シャク。
音が、口の中で鳴る。
その音に合わせて、偶然の刃も、必然の重さも、少しだけ薄まっていく。
「写真展、どうだった?」
千紗が聞く。
「応募はしてない」
「うん」
「でも、フォルダは開いた」
「それ、でかいね」
「でかいのかな」
「でかい。だって、あなたは“撮らない理由”に勝ったんじゃなくて、椅子を動かした。ゼロか百かをやめた」
「椅子、第三の動き」
「そう。今日のコインは、縁に立った」
「縁に?」
「表でも裏でもなく、縁。偶然でも必然でもなく、手順」
僕はりんごをもう一口噛んだ。シャク。
アンが皿の端の小さな欠片を狙っている。
欠片はピースになる。
ピースは完成側へ戻る。
僕は皿の端に、アン用の小さな欠片を置いた。
アンがぺろりと舐めた。
千紗が鈴を軽く鳴らす。ちん。
「さぁ」
それは“明日も頑張れ”じゃなくて、
“今日はここまででいい”の合図だった。
偶然も必然も、今日は重くしない。
コインが縁に立ったまま、テーブルの上で静かに光っている。




