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タイルの目地で息をする

 プールの天井って、ちょっと変だ。

 音が上に抜けない。笑い声も、笛の音も、全部いったん天井に貼りついてから落ちてくる。水面も、似てる。感情も、似てる。


「……ほんとに来たんだ」

 千紗が、プールサイドで言った。帽子の下から覗く目が、いたずらっぽい。


「来たよ。予約したの俺だし」

「当日キャンセルの王が?」

「王制、廃止した」


 アンは来ていない。猫は水に向いてない。アンは“たまり場”の王国で、毛布の上の温度を守っている。

 今日は僕らの番だ。温度の代わりに、水の抵抗で自分を整える日。


 更衣室から出てくると、空気がひんやりして、肌が勝手に背筋を伸ばす。

 水はまだ見てないのに、身体が“受信機”みたいに先に拾う。ここは冷たい。ここは濡れる。ここは息がいる。


「泳げる?」

「泳げない」

「正直」

「でも、水には浮ける」

「浮けるなら勝ち。クロールは“勝つ泳ぎ”じゃないし」

 千紗が肩をすくめた。

「進むふりして、息を確保する泳ぎ」


 進むふりして、息を確保する。

 その言い方が、すごく良かった。ゼロか百かじゃない手順が、はじめからセットになってる。


 プールの縁に腰を下ろして、足先を水につける。

 冷たい。だけど、氷じゃない。

 冷たさって、「まだ大丈夫」の範囲がある。


「内なる五人、呼ぶ?」

 千紗が、いきなり言った。

 ここで?と思ったけど、ここだから、かもしれない。


「……呼ぶ」

「白湯:落ち着け」

「紅茶:周りに合わせろ」

「ほうじ茶:温めろ」

「コーヒー:何メートル泳ぐか決めろ」

「炭酸:笑って飛び込め」


 千紗は指を折って数え、最後にパチンと指を鳴らした。鈴の代わり。

「今日の議長は白湯でいい?水の中で熱くなりすぎると苦しい」


「白湯で」

「よし。じゃあ“錨”」

 千紗は僕の目を見て言う。

「一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない」


 水面が、きらきら揺れる。風じゃないのに風みたいに揺れる。

 僕は言った。


「……戻る」

「理由」

「息ができない時、いったん戻っていいって決める」

 千紗が、小さく手を叩く。ぱち。鈴。

「錨、固定。はい、入水」


「入水って言い方、妙に儀式っぽい」

「儀式は大事。たまり場式の外出版」


 水に入る。

 最初は足、次に膝、腰、腹。

 身体の中の“チッ”が鳴りそうになる。ブザー。

 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


 凸は、「冷たさ」。

 凹は、「息が浅くなること」。


 一手は、深呼吸じゃなくて、吐くこと。

 僕は水の中で、ふっと息を吐いた。

 泡が上にのぼる。泡が上に行くのを見ると、焦りも一緒に上がっていく気がする。


「いいね」

 千紗が隣で、すいっと身体を伸ばす。

 泳ぐというより、水に“線”を引くみたいに。


 タイルの目地が、下に一直線に続いている。

 線。

 線は、途中で終わる。途中で曲がる。途中で戻れる。

 ゼロか百かじゃないって、タイルが教えてくる。


「じゃ、やってみる?」

 千紗が言う。

「クロールの真似。真似でいい。完成じゃなくてピース化」

「ピース化……」

「欠片をピースにして、完成側へ戻す。今日は“腕を回す”って欠片だけ拾おう」


 僕はうなずいて、壁を蹴った。

 身体が前に出る。水が重い。

 腕を伸ばす。水を掴む。掴んだつもりが、空振りする。

 空振りのたびに、焦りの羽が一枚ずつ降ってくる。


 黒い羽。

 昨日の話の続きみたいに、疑いの羽が勝手に頭に落ちる。

 僕は思う。

 こんなふうに、うまくできない自分を見られて、千紗はどう思うんだろう。

 かっこ悪い。

 頼りない。

 置いていかれる。

 ……ほんとに?

 疑いが疑いを呼ぶ。カラスの会議。


 水を飲みかけて、咳が出そうになる。

 “チッ”が鳴った。ブザー。

 凹凸。

 一手。


 僕はすぐに壁へ戻った。

 戻る。錨。

 戻るは負けじゃない。たまり場式の呼吸だ。


「……ごほ」

 僕が咳をこらえると、千紗は近づいてきた。

「大丈夫?」

「大丈夫。今、炭酸が暴れてた」

「炭酸、ここだと危ないね」

「笑って飛び込め担当が、笑って溺れかける」

 言ってから自分で可笑しくなって、鼻で笑った。

 水面が揺れる。


「今の、よかった」

 千紗が言う。

「笑えるって、圧が抜けた証拠」

「圧抜き、シャクが欲しい」

「りんごはプールサイドにないよ」

「じゃあ、目地で割る」

「何それ」

「タイルの目地を一本ずつ数えて、気持ちを割る」

「変な天才」


 千紗が肩を揺らして笑う。

 笑い声が、天井に貼りついてから落ちてきた。

 落ちてきた音が、僕の背中をちょっとだけ押す。鈴みたいに。


「ねえ」

 千紗が言う。

「今日は進む距離、決めないでいいよ」

「え」

「コーヒーが『何メートル』って言い出してたけど、今日は白湯の日。息の確保が主題」

「……息の確保」

「うん。クロールってさ、顔を水に入れる時間と、出す時間の“凹凸”でできてる」


 凹凸。

 刺さったときの手すりが、泳ぎにもある。

 水に潜る凹。

 顔を出す凸。

 凸で息を吸う。凹で吐く。

 吐く方が長い。

 吐く方が、安心の芯になる。


「“受信機”も同じ」

 千紗は続けた。

「人の気配を拾いすぎる時って、吸ってばっかり。吐けてない」

「吐く……」

「吐いていい。自分の音、出していい」


 僕は壁を掴んだまま、息を吐いた。

 ぶくぶく、と泡が出る。

 泡は、音がないのに、ちゃんと“出した”感がある。


「さぁ」

 千紗が小さく言った。

 鈴は鳴らしていない。でも、言葉が鈴の代わりになる時がある。


 僕はもう一回、壁を蹴った。

 今度は、腕を回す欠片だけ拾う。

 腕を伸ばして、水を押す。

 顔は、上げていい。

 進むふりでいい。息ができればいい。


 進むふり。

 ふりって、嘘じゃない。手順だ。

 完成じゃなくて、ピース化の途中。


 千紗が横を泳いでくれる。

 速さは合わせてくれる。

 合わせるっていうのは、彼女の「武器」だ。刃物じゃなく、背中を押す合図。

 鈴。

 いまは、波の音が鈴の代わり。


 途中で、僕の手が水を掴みそこねて、身体が斜めになる。

 斜めになった瞬間、心が「やめよう」と言い出す。

 ゼロか百かの悪いクセ。

 でも、タイルの目地は真っ直ぐだ。

 真っ直ぐは、僕に「戻る」と「続ける」の間の椅子を用意してくれる。


 椅子。第三の動き。

 泳ぎの中の椅子は、浮くことだ。


 僕は浮いた。

 手も足も動かさず、ぷかっと。

 水が身体を持ち上げる。

 持ち上げられるって、ちょっと悔しいのに、すごく助かる。


「止まった?」

 千紗が、少し先で振り返る。

「浮いてる」

「いいじゃん。浮くのは、戻るの一種」

「戻る」

 僕は言って、ふっと笑った。

 言葉が錨になる。風じゃない、水の中でも。


 千紗は戻ってきて、僕のすぐ近くで立ち泳ぎをした。

「ねえ、今日さ」

 彼女が言う。

「泳ぎながら、ひとつだけ“現実通り”を確認しよ」

「何を?」

「あなたが不安になる時、だいたい『置いていかれる』って影が出るでしょ」

「……うん」

「でも現実は、置いていかない。ここにいる。こうして戻ってきてる」

 千紗は水面を指先でちょん、と叩いた。

「コップと同じ。空っぽでも器は器。あなたが今“できない”でも、器はある」


 僕の胸の中の黒い羽が、少しだけ軽くなる。

 疑いの羽は、賢いけど、万能じゃない。

 現実通りの温度には勝てない。


「じゃ、次は“食感で割る”代わりに」

 千紗が言う。

「水の抵抗で割ろう。腕を一回回すたびに、余計な考えを一枚ずつ剥がす」


「剥がす」

「うん。羽、抜く」

「羽、抜くって言い方、ちょっと残酷」

「じゃあ、羽を“洗う”にしよ。黒い羽も、洗えば光るかもしれない」

「それは、ちょっと希望がある」


 僕はまた壁を蹴った。

 今度は、息を吐くことを忘れない。

 水に顔を入れて、ぶくぶく。

 顔を出して、すっ。

 吸う。

 吐く。

 凹凸。

 凹で吐いて、凸で吸う。

 泳ぎは、呼吸の形だった。


 途中で、千紗がわざと水を少し跳ねさせてきた。

 ぱしゃ。

「うわ」

「炭酸、ちょっとだけ出しとく。笑える余裕の確認」

「ずるい」

「ずるいは合図にできる?」

 千紗が笑う。

「チッ=ブザー→凹凸→一手。ほら」


 僕はわざと小さく「チッ」と言ってみた。

 舌打ちのふりの、ブザー。

 千紗がすぐに言う。

「凹凸」

「凹凸」

「一手」

「……一手は、もう一回、顔を上げて吸う」

「最高。生存の一手」


 生存の一手。

 それは大げさじゃなく、ほんとにそうだった。

 息ができるって、生活の根っこだ。


 最後に、僕は目地を見ながら、ゆっくりと半分だけ進んだ。

 半分。

 半分って、ちょうどいい。

 完成じゃないけど、欠片じゃない。ピース。


 プールから上がると、身体が重い。

 でも、その重さは悪くない。

 ちゃんと使った重さだ。


 タオルで頭を拭きながら、千紗が言う。

「帰ったら、りんご食べよ」

「シャク」

「シャク。あと、アンに“今日のピース”報告」

「アンは聞いてくれる?」

「聞く。たぶん途中で寝るけど、それもたまり場式」


 更衣室へ向かう途中、僕は振り返ってプールを見た。

 水面は、さっきより静かだった。

 天井の音も、少し遠い。


 進むと決めない泳ぎ。

 でも、気づいたら前にいる。

 それでいい。

 ゼロか百かじゃない、タイルの目地のぶんだけ。

 僕は息を吸って、吐いて、千紗の隣で歩いた。


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