羽の黒と、鳴らす鈴
朝の光は、窓の端に細い線を一本引く。カーテンの隙間の“スリット”から落ちた線が、床の木目の上でまっすぐに伸びている。ゼロか百かじゃない。線は、いつも途中で止まってる。止まっていいんだ、って言ってるみたいに。
キッチンでコーヒーの豆を挽く音がする。ざり、ざり。砂利じゃないのに砂利の気配がある。
僕は椅子を引いた。椅子って、第三の動きだ。立つでも座るでもない、あいだを作る。椅子を動かすだけで、心が少しだけ追いつくことがある。
「起きてた?」
千紗が振り向く。髪はまだゆるくまとめただけで、寝起きのままの顔なのに、目だけがちゃんとこちらを拾う。
「うん。線、見てた」
「朝の線、好きだよね」
猫のアンが、テーブルの縁に顎を乗せた。鳴きはしない。けど「おはよう」の圧を出してくる。
僕はアンの背中を一回撫でる。触ると、体温が“現実通り”に返ってくる。いい意味で逃げ道がない。
千紗がマグを二つ置いた。ひとつは紅茶、ひとつはコーヒー。どっちも、いつもの温度。
僕は言いかけて、飲み込んだ。ここ数日、飲み込む回数が増えている。咳じゃない。くしゃみでもない。黙りのクセだ。
「……今日、顔が固い」
千紗が言う。指摘じゃなく、実況のトーン。
「固い?」
「固い。あと、目が“受信機”みたいになってる」
「それ、褒めてる?」
「半分。拾いすぎって意味もある」
僕は笑ってしまいそうになったけど、笑いは上手く出なかった。
代わりに、胸の奥で“チッ”が鳴った。舌打ちじゃない。ブザー。合図。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
僕は頭の中で、いつもの手順を踏む。
凹凸。刺さったときの手すり。今、どこが凸で、どこが凹か。
凸は、「疑い」。
凹は、「確かめ方が分からない」。
千紗がマグを抱え直す。
「言っていい?」
「うん」
「昨日から、ずっと“誰か”の影を追ってる顔してる。仕事の人?」
「……仕事、というより、連絡」
スマホはテーブルの上に伏せたまま。伏せるのは、見ないためじゃない。見たら終わる気がしてるからだ。
終わるっていうのは、決着がつくって意味じゃなくて、僕の中の「安心」が壊れるって意味。
千紗は「なるほど」とだけ言って、話を急がせない。
彼女の“武器”は、刃物じゃない。背中を押す合図。鈴。
そして、鈴は音じゃなくて、タイミングのことが多い。
僕は結局、スマホを裏返したまま、言った。
「昔の知り合いから、急にメッセージが来た」
「どんな?」
「“久しぶり。元気?また会える?”って。普通」
「普通だね」
「普通だから、逆に怖い」
千紗は眉をほんの少し上げた。
「普通が怖いって、だいぶ難儀だな」
「……うん」
アンがしっぽで机を叩いた。パタン、と小さく。
まるで「じゃあ難儀を難儀のままにする?」って聞いてるみたいに。
「疑い、だね」
千紗が言う。断定じゃなく、ひとつの札を置く感じ。
「うん。疑いっていうか……黒い羽みたいな」
「黒い羽?」
「頭の上に降ってくる。見えないけど、重い。で、払っても払っても落ちてくる」
千紗は少し考えて、テーブルの上のスプーンをくるりと回した。
先端が光を拾って一瞬だけ線を描く。
「カラスの羽みたいってこと?」
「……たぶん」
“CROW”。
タイトルにしちゃダメだけど、イメージは刺さってる。
黒い。賢い。ちゃんと見てる。勝手に近い。距離感が難しい。
「じゃ、黒い羽の扱い方を決めよう」
千紗が言う。
「いきなり“信じる・信じない”じゃなくてさ。ゼロか百かにしない。スリットで割る」
スリット。線。椅子。第三の動き。
彼女は、僕の中の道具箱を開けるのがうまい。
「内なる五人、呼ぶ?」
「……呼ぶ」
僕は小さく頷いた。
五人。白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。
感情整理の会議。
千紗は、実際に小さな紙を五枚持ってきた。冷蔵庫の横に置いてあるメモパッド。
彼女は一枚ずつ、さらさらと書く。
「白湯:静かに戻す」
「紅茶:気遣いの顔をする」
「ほうじ茶:いったん温める」
「コーヒー:事実を拾う」
「炭酸:一回、笑って逃がす」
僕は紙を見て、思わず声が漏れた。
「炭酸、逃げ担当なんだ」
「逃げじゃない。圧を抜く担当。大事」
千紗は紙をテーブルに並べ、アンの前に置かないように気をつけた。アンは紙を見ると噛む。完成前のピースを持っていくタイプだ。
ピース。欠片をピース化して、完成側へ戻す。
噛まれたら欠片が欠片のまま散る。
「で、黒い羽に対して、誰に先に発言させる?」
千紗が聞く。
僕は“コーヒー”を指差した。
「事実を拾う」
「オッケー。じゃ、質問」
千紗は机を一回、指で軽く叩いた。鈴の代わりの合図みたいに。
「その人は、昔、何した人?」
僕の喉がきゅっとなる。
黒い羽は、思い出とセットで降ってくる。
「……僕のことを、都合よく使った人」
「例えば」
「相談があるって言って呼び出して、結局は自分の話だけして、必要な時だけ“友達”って言う」
「ふむ」
「でも、僕も……断れなかった」
言い終わると、胸の奥がざわつく。
千紗は“白湯”の紙を指で押さえた。
「静かに戻す。ここ、まずこれだな」
千紗はマグを僕の方へ少し寄せる。
「飲む?」
「うん」
温度が、現実通りに喉を通る。あったかい。
温度って、疑いに対しても効く。疑いは冷えたところに入り込みやすい。
「次、ほうじ茶」
「温める」
「そう。『断れなかった』を責めない。断れなかったのは、当時のあなたの容量がそれだっただけ」
「容量」
「コップ。空っぽでも器は器。器が割れてないなら、あとで入れられる」
僕は、伏せたスマホを見た。
器は割れてない。でも中身は空っぽに近い。
空っぽの器に黒い羽を入れたら、余計に目立つ。
「紅茶は?」
僕が聞いた。
「紅茶は『相手の事情を考える』って言い出す。たぶん、今もそう思ってるでしょ」
「……うん。もしかしたら相手も変わったかも、って」
「それは悪くない。でも順番」
千紗は“順番”を言うとき、ちょっとだけ口調が強くなる。優しさのための強さ。
「コーヒー→白湯→ほうじ茶→炭酸→最後に紅茶、かな」
「最後に紅茶?」
「最初に紅茶を出すと、あなた、また引き受ける顔になる」
僕は笑ってしまった。
炭酸の紙が、ふわっと揺れた。
「笑った。よし、炭酸の仕事、半分終わり」
千紗は立ち上がって、キッチンから小さな鈴を持ってきた。
玄関に吊ってあるやつ。風で鳴るやつ。
彼女はそれをテーブルの上に置いた。ちん、と小さく鳴る。
「“武器”」
千紗が言う。
「刃物じゃない。背中を押す合図。今日はこれ」
「……さぁ」
僕は、口の中でその言葉を転がした。
“さぁ”。
始めるための合図。攻撃じゃなく、前に出るための音。
「で、どうする?」
千紗が聞く。
「返信する?しない?」
「……怖い」
「怖いはOK。怖いままでも、手順は踏める」
千紗は机の上にペンを置いた。
「錨、やる?」
「錨?」
「一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順」
僕は深呼吸を一回した。
黒い羽が、少しだけ軽くなる。
「やる」
千紗がペンを僕に渡す。
「錨の一語、何にする?」
僕は考えて、書いた。
『現実通り』
千紗が頷く。
「いい。理由一行」
僕は続けて書いた。
『いまの私は、昔の私の穴を埋める責任まで背負わない』
書いた瞬間、胸の奥で何かが“カチッ”と止まる音がした。
止まるのは悪くない。止まることで、次の一手が見える。
千紗が鈴を指先で鳴らした。ちん。
「錨、固定。じゃあ返信文、短く」
僕はスマホを表に返した。画面が光る。
相手の名前は、画面上では軽い。文字は軽いのに、意味は重い。
僕は“コーヒー”に戻る。事実を拾う。
相手は「会える?」と言った。
僕が言えるのは「会えない」か「保留」か。
ゼロか百かじゃない。椅子を動かす。第三の動き。
僕は入力欄に書いた。
『久しぶり。連絡ありがとう。いまは会うのは保留にしたい。急にだと心が追いつかないから。』
送信ボタンの上で指が止まる。
黒い羽が、また降ってきそうになる。
その時、アンが机に飛び乗って、僕の手の甲に鼻先を押し付けた。
冷たい鼻。現実通り。
千紗が言う。
「凹凸」
合言葉。刺さったときの手すり。
僕は小さく頷いた。
「凹凸」
そして、鈴を見た。
千紗が、ほんの少しだけ鈴を鳴らす。ちん。
「さぁ」
僕は送信した。
送信音は鳴らない。でも、胸の中で鈴が鳴った気がした。
刃物じゃない。背中を押す合図。
押すのは、相手に向けた攻撃じゃなくて、自分の足の裏に向けた合図。
送った直後、僕はスマホを置いて、椅子の背に体重を預けた。
椅子って、やっぱり第三の動きだ。
逃げない、突っ込まない、でも座る。間にいる。
「……できた」
僕が言うと、千紗はふっと息を吐いた。
「できた。コップ、割れなかった」
「空っぽだけど」
「空っぽでも器は器。今日は器を守れた。十分」
画面が震えた。返信が来た。
僕の心が一瞬で固くなる。黒い羽が、また降ってくる気配。
“チッ”が鳴った。ブザー。合図。
チッ→凹凸→一手。
僕は凹凸を握る。
一手は、開く前に“錨”を読む。
『現実通り』
『いまの私は、昔の私の穴を埋める責任まで背負わない』
千紗が僕の視線の動きを見て、何も言わず、鈴を一度だけ鳴らした。ちん。
それは「開け」じゃなくて、「戻ってこい」の音だ。
たまり場式の“戻る”。戻る、って言葉の、やわらかい錨。
僕はメッセージを開いた。
『そっか。急にでごめん。じゃあ、また落ち着いたら。』
……普通だ。
普通。
普通が怖いって言ってたのに、普通が来た。
怖さが、拍子抜けする。拍子抜けって、ちゃんと救いだ。
僕は息を吐いた。
「……謝ってた」
「うん」
「……変わったのかも」
「かも、でいい。ゼロか百かにしない」
千紗はそう言って、炭酸の紙を指でトントンと叩いた。
「圧抜き、しよ」
「りんご、ある?」
僕が聞くと、千紗の目が笑った。
「ある。シャク、やる?」
「やる」
千紗は冷蔵庫からりんごを出して、包丁じゃなく、りんごカッターを取り出した。輪切りにするやつ。刃物だけど、攻撃の刃じゃない。作業の刃。
彼女は手際よく、りんごをシャクシャクと切り分ける。
食感で割る。感情を割る。黒い羽の重さも割る。
アンが足元で鳴いた。
たぶん「私の分も」って言ってる。
「アンにも少しね」
千紗が言って、ほんの小さく切った欠片を皿の端に置く。
欠片。
欠片は、ピースにできる。完成側へ戻れる。
僕はりんごを一口かじった。シャク。
音が、頭の中の黒い羽を一枚、払い落とすみたいに響いた。
「ねえ」
千紗が言う。
「あなた、今の返信、すごくよかったよ」
「よかった?」
「うん。『保留』って言えた。逃げずに、でも背負わずに。現実通り」
僕は、テーブルの上の鈴を見た。
黒い羽は、まだどこかにいるだろう。賢いから、簡単にはいなくならない。
でも、僕の手元には凹凸がある。
受信機で拾いすぎたら、椅子を動かせばいい。
チッが鳴ったら、ブザーにして、一手に変えればいい。
錨を打って、風に飛ばされない言葉にすればいい。
「カラスってさ」
僕が言う。
「怖いけど、賢いよね」
「うん」
「……僕も、賢くなりたい」
「なってる。少なくとも、前より自分を守るのが上手」
千紗は、僕のマグを指で軽く押した。
「もう一口。白湯、戻そう」
「戻る」
僕は言って、笑った。
合図が増えるほど、世界は少しだけ扱いやすくなる。
窓のスリットから入る線は、さっきより少しだけ角度を変えていた。
線は進む。止まる。曲がる。
ゼロか百かじゃない手順で、ちゃんと朝が進んでいく。
その線の先に、黒い羽が落ちていても。
拾うか、払うか、保留にするか。
選べるだけで、今日は十分だ。
アンが、皿の端の欠片をぺろりと舐めた。
千紗が鈴を一度だけ鳴らす。ちん。
「さぁ」
それは“次へ”じゃなく、“今ここへ”の合図。
僕はりんごをもう一口、シャクと噛んだ。




