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クセになる手順

 最初は、たまたまだった。

 鈴を鳴らすのも、りんごを噛むのも、椅子を一センチ動かすのも。

 その場しのぎの小さな工夫が、いつの間にか“手順”になって、手順は習慣になって、習慣は…たぶん、クセになる。


 千紗がそれを自覚したのは、洗濯物を畳んでいる最中だった。


 タオルを三つ折りにして、端を揃えて、ふっと止まる。

 そして千紗が言った。


「ねえ。これ、クセになりそう」


「どれ」

「一センチ」千紗は畳んだタオルを重ねながら言う。「ゼロか百かにしないやつ。最近、何でも一センチでやってる」


 俺は笑って、でも嬉しさを派手に出さないようにした。嬉しさは炭酸。開け方を間違えると溢れる。


「いい癖じゃん」

「癖ってさ、直すものって思ってた」千紗は眉を寄せる。「でもこれは…直したくない」


 直したくない癖。

 それは“クセになりそうだ”の、明るい意味のほう。


 アンが洗濯かごの縁に前足をかけて、首輪の鈴を鳴らした。チリン。

 生活の確認音が、会話に合いの手を入れる。


「凹凸?」と俺が聞くと、千紗は首を振った。


「凹凸じゃない。刺さってない。……でも、クセって言ったらちょっと照れる」


「照れは武器」

「刃物じゃないやつね」

「そう」


 千紗はタオルを置いて、椅子に座った。ソファじゃなく椅子。背もたれを少し立てる。キュ。第三の動きが、話す姿勢を作る。

 この動きも、もうクセだ。


「何が一番クセになってる?」俺が聞く。


 千紗は指を折って数え始めた。


「まず、WAIT」

「止まる」

「うん。止まるの、前より上手くなった。止まらずに突っ走るの、かっこいいと思ってたのに」

「次」

「シャク」千紗が笑う。「りんご、常備してるのおかしい」

「おかしくない」

「おかしいよ。冷蔵庫、りんご専用棚みたい」

「次」

「鈴」千紗はテーブルの端の鈴を指でつつく。「さぁ、って鳴らすと、気持ちが一歩だけ前に出る」

「次」

「五人」

「内なる五人会議」

「うん。怒りを怒りのままにしないの、クセになった。コーヒーに席を与えるだけで、暴れにくい」

「次」

「スリット」千紗は紙を引き寄せて、無意識に一本線を引いた。左と右。SURFACEと中身。

「分けると、混ざらない。混ざると暗くなる」


 千紗が言いながら、ふっと黙った。

 黙り方が、少しだけ慎重。

 俺の受信機が立つ。小さな叫びは、話題の切れ目に出る。


「凹凸?」俺はもう一度聞く。今度は確認じゃなく、手すりの提示。


 千紗は首を振って、でも目は少し揺れた。


「凹凸じゃない。でも……」

「でも?」

「これがクセになったら、逆に怖い」千紗は小さく言った。「手順がないと、私、もうダメなんじゃないかって」


 来た。

 “手順=依存”の誤解。ここで不安が渦に変わると、せっかくの癖が刃になる。

 俺の中で「チッ」。ブザー。


 ブザー→凹凸→一手。


 俺は鈴を鳴らした。チリン。

「さぁ」俺は言った。「その不安、分けよう。スリット」


 紙に線を引く。左にSURFACE、右に中身。


「左に、表面の怖さ」

「……『手順がないとダメ』」千紗が書いた。

「右に、中身」

 千紗は少し考えて、書いた。

「……『私は弱くなったのかも』」


 弱い。

 またその風が吹く。

 でも今日は、風に錨がある。


「弱くなってない」俺は言った。「強くなった。強さの種類が変わっただけ」


「強さの種類」

「うん。昔は“耐える強さ”だった」

「……」

「今は“戻れる強さ”」


 千紗の目が少し揺れて、それから、笑った。炭酸の泡が一粒。


「戻れる強さ…それ、好き」


「手順は、弱さの証明じゃない」俺は続ける。「手順は、道具。刃物じゃない武器。背中を押す合図」


「でも依存っぽい」

「依存は“それがないと生きられない”」俺は言う。「手順は“それがあると生きやすい”」


 千紗はりんごを噛んだ。シャク。

 音が、答えの代わりに頷く。


「じゃあ」千紗が言った。「クセになっていい?」


「いい」

「直さなくていい?」

「直さなくていい。むしろ、磨ける」

「磨く?」

「うん。クセを“癖”から“型”にする」


 千紗は目を丸くした。「型?」


「型は、疲れたときに自分を助ける」俺は言った。「空っぽの日でも、傷痕の日でも、平穏の檻の日でも、型は戻り道になる」


 千紗は椅子をほんの一センチ、俺の方へ寄せた。キュ。第三の動きが、近づく方向に働く。

 そして、少し照れた顔で言った。


「ねえ。型の名前、つけよう」


「何に」

「この一連のやつ」千紗は指で鈴をつつく。チリンと小さく鳴る。

「ブザーが鳴ったら、凹凸、シャク、スリット、五人、鈴、さぁ。…全部」


 俺は少し考えて、言った。


「“たまり場式”」


「たまり場式?」千紗が笑う。

「くしゃみから始まって、戻るで終わるやつ。あれ、うちらの型っぽい」


「たまり場式…」千紗は繰り返して、頷いた。「かわいい。言うなって言われそうだけど」


「言うよ」

「言うな!」千紗が笑う。「でも、言っていい」


 アンが足元で鳴いた。鈴がチリン。

 洗濯物の山が、いつの間にか半分になっている。

 生活は、手順がなくても進む。

 でも手順があると、心が迷子になりにくい。


 千紗はタオルを手に取って、端を揃えた。

 それから、ほんの一センチだけ、ずらした。きっちりじゃなく、息ができる余白を残すために。


「さぁ」千紗が鈴を鳴らした。チリン。

「続き。クセ、続行」


 クセになりそうだ。

 やめないでいい癖。

 それは、君が君のままで戻ってくるための、小さなルーティンの中毒だ。

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