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無理に開かない、つぼみの話

 冬の終わりって、いちばん信用できない季節だと思う。

 昼はあったかい顔をして、夜に平気で冷える。

 人の気持ちと同じで、油断した瞬間に「チッ」が鳴る。ブザー。合図。


 ベランダに出ると、鉢植えの土が乾いていた。

 千紗が去年の秋に植えた小さな球根。名前は忘れた。

 忘れたのに、毎朝見に行く。

 名前より先に、存在が先に来る。そういうものが、いまの僕には必要だ。


「どう?」

 背中越しに、千紗の声。

 マグを二つ持ってきて、片方を僕の横の手すりに置く。白湯。

 彼女は冬の朝に白湯を渡すのが、ちょっとした儀式になっている。


「まだ、つぼみ」

「いいね」

「いいの?」

「いいよ。つぼみは、つぼみで完成形。開ききるだけが花じゃない」


 千紗はさらっと言う。

 その言葉が、僕の胸のどこかの固い部分に触れて、でも刃物みたいには切らない。

 鈴みたいに、軽く押す。


 アンがガラス戸の内側からこちらを見ていた。

 出たそうにして、でも寒いのは嫌。猫の顔にはいつも矛盾がある。

 僕は戸を少しだけ開けた。スリット。

 アンの鼻先だけが外の空気を嗅いで、すぐに引っ込む。

 ゼロか百かにしない。猫も知っている。


「今日、庭いじるの?」

 千紗が聞く。

「いじるっていうか……確認」

「確認、好きだね」

「好きというより、怖い」

「どっちの怖い?」

「……育ってない怖い」

「ふふ」

 千紗が笑った。

「それ、良い怖い。ココロのつぼみの怖い」


 “ココロのつぼみ”。

 その言葉だけで、今朝の主題が決まる。

 心って、勝手に開かない。開かないからこそ、こっちが手順を持つ必要がある。


 午前中、僕らは近所の園芸店へ行った。

 土と肥料と、小さな手袋を買うために。

 手袋。触れないで守る。

 触ると壊れるものは、触らない選択肢が必要だ。


「その手袋、あなたの?」

 千紗が棚の前で言った。

 僕が持っていたのは、子ども用みたいに小さな園芸用手袋。黄色い。

「うん。指先が細いやつ」

「あなた、指先だけ器用だもんね」

「褒めてる?」

「半分。残り半分は、器用さで無理するなって意味」


 千紗は少し大きめの手袋を選んだ。

 彼女は、手のひら全体で支えるタイプだ。

 僕は指先で何とかしようとするタイプ。

 どっちも必要で、どっちも危ない。


 帰り道、公園の前を通ると、花壇の隅に小さな緑が見えた。

 つぼみの前の、芽の前の、さらに前。

 「出るぞ」とも言わず、ただ、そこにいる。


 僕は足を止めた。

 “受信機”が勝手に拾う。

 小さい叫び。

 小さい希望。

 でも、拾いすぎると壊す。期待で潰す。


「刺さった?」

 千紗が、僕の横顔を見て言う。

「……刺さった」

「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を言うと、手すりが出てくる。

 僕は深く息を吐いた。

 今、胸の中で鳴ってるのは“チッ”じゃない。

 ブザーじゃなくて、つぼみのノック。

 控えめな合図。


「ねえ」

 千紗が言った。

「今日はさ、つぼみを“開かせる日”じゃなくて、“開かないでいい日”にしよ」

「開かないでいい日」

「うん。『咲け』って言わない。『咲かなくていい』でもない。『今のまま』」


 今のまま。

 それって、意外と難しい。

 人はすぐに、未来を貼ろうとする。意味を貼ろうとする。

 偶然を必然にしたがる。

 でも、つぼみは“予定表”じゃない。


 家に戻ると、ベランダの鉢植えに水をやった。

 土が黒くなる。

 黒は、悪い黒じゃない。潤いの黒。

 昨日のカラスの羽の黒とは違う種類。


 千紗が手袋をはめて、土を少しだけ掘り返す。

 僕も手袋をはめた。

 黄色い手袋の中で、指が守られる。

 触れないで守る、じゃなくて、触れても守れる、の形。


「内なる五人、呼ぶ?」

 千紗が、土の匂いを嗅ぎながら言う。

「呼ぶ」

「白湯:待て」

「紅茶:気を利かせて何かしろ」

「ほうじ茶:温めろ」

「コーヒー:成長を測れ」

「炭酸:踊れ」


 炭酸が踊れって言うの、すごく分かる。

 嬉しい時、人は踊りたい。

 でも踊ると、鉢の縁にぶつかって、つぼみが折れるかもしれない。


「議長は白湯だね」

 千紗が言う。

「うん」

「じゃ、錨」

「錨の一語+理由一行+鈴」


 僕は一瞬考えて、言った。

「コップ」

「理由」

「空っぽでも器は器。まだ咲いてなくても、もう器はある」

 千紗が小さく鈴を鳴らした。ちん。

 鍵についた鈴。

「固定」


 固定された瞬間、心の中で何かが落ち着く。

 咲かなくても、器はある。

 つぼみのままでも、物語は進んでいる。


 僕は鉢の縁に座って、椅子の代わりにした。

 椅子。第三の動き。

 立って頑張るでも、座って諦めるでもない。

 縁に腰かけて、様子を見る。

 その“縁”が、今日の居場所。


 千紗が土を軽くならして、言った。

「あなたさ、最近、何かを“開こう”としてたよね」

「……してた」

「何を?」

 千紗の声は、押さない。受信機で拾うだけ。


 僕はしばらく黙って、手袋の指先を見た。

 黄色い布に、小さな土の粒がついている。

 土の粒は、取ろうと思えば取れる。でも、今日は取らなくていい。


「……仕事のこと」

 僕が言った。

「新しい役割の話が来てて。やってみないかって」

「へえ」

「それが、嬉しいのに怖い」

「つぼみだ」

「つぼみ」

「開くと、責任が花びらみたいに広がるからね」


 責任。

 花びら。

 その比喩が、可笑しいのに、ちゃんと刺さる。

 刺さったら、凹凸。

 僕は凹凸を握ったまま、続けた。


「今の僕、まだ……容量が弱い気がする」

「コップ?」

「うん。空っぽに近い」

「空っぽでも器は器」

 千紗が、錨をそのまま返してくれる。

 返されると、僕の中で言葉が“現実通り”になる。


「じゃあさ」

 千紗が言った。

「その役割、今すぐ咲かせなくていい。ピースにしよ」

「ピース」

「欠片→ピース化。完成側へ戻る。今日のピースは何?」

 彼女は、土の上に小さな棒で線を引いた。

 スリットじゃないけど、線。

 線は“選択肢”を作る。


 僕は考えた。

 “やる”か“やらない”じゃない。

 ゼロか百かじゃない。

 椅子を動かす。第三の動き。


「……質問を一つだけ返す」

 僕が言った。

「条件じゃなくて、期待値を聞く。何を一番大事にして欲しいか」

 千紗が目を細めた。

「めちゃくちゃ良い。背中押す鈴、鳴らす?」

「……さぁ」

 僕が言うと、千紗が鈴を鳴らした。ちん。


 僕はスマホを取り出して、メッセージの下書きを作った。

 送信はまだしない。

 保留。

 保留って、逃げじゃない。つぼみを守る手袋だ。


『お話ありがとうございます。もし可能なら、今回の役割で一番大事にしてほしいことを一つ教えてください。こちらも準備の仕方を考えたいです。』


 書き終えると、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 つぼみの表面が、ほんの少し柔らかくなる感じ。

 開いてないのに、動いてる。


「送る?」

 千紗が聞く。

「……送る。今日のピースだし」

「凹凸」

「凹凸」


 僕は送信した。

 送信ボタンを押す指先が、手袋の中みたいに守られている気がした。

 触れても壊れない。壊れないために手順がある。


 アンがベランダに出てきた。

 今度は本当に出てきた。

 寒いのに。

 それだけで、猫の中のつぼみも少し開いたのかもしれない。


「アン、珍しい」

 千紗が言う。

 アンは鉢植えの前で座って、土をじっと見た。

 何かを掘るでも、踏むでもなく、ただ見ている。

 猫の受信機は、僕らより性能がいい。

 小さな生命を、静かに拾う。


 僕はアンの横に座った。椅子。第三の動き。

 人間用の椅子じゃないけど、猫の隣は“座れる場所”になる。

 そこで僕は、白湯を一口飲んだ。

 熱すぎない。冷たすぎない。

 つぼみ向きの温度。


 しばらくして、スマホが震えた。

 返信。

 心の中で“チッ”が鳴りかけて、止まる。

 ブザーじゃない。確認の合図。


 僕は錨を思い出す。

 コップ。空っぽでも器は器。

 凹凸。

 一手。

 一手は、開く前に深呼吸して、吐く。


 吐いてから、開く。


『ありがとうございます。大事にしてほしいのは「無理を続けないこと」だと思っています。ペースを守りながら、一緒に仕組みを整えていけたら。』


 ……優しい返信だった。

 刃物じゃない。

 背中を押す鈴みたいな言葉だった。


「……向こうも、つぼみだ」

 僕が言うと、千紗が笑った。

「ね。みんな、つぼみで生きてる」

「咲いてるふりして」

「ふりでいい。クロールみたいに。息を確保しながら進むふり」


 アンが、鉢の縁に前足を乗せた。

 危ない。

 でも、踏まない。

 猫は猫なりに、手袋を知っているのかもしれない。触れないで守る。


 僕はアンの前足の下に、そっと自分の手を置いた。

 直接じゃない。手袋越し。

 守りながら触れる。

 つぼみを無理に開かない。

 でも、ここにあるって確かめる。


 千紗が鈴を小さく鳴らした。ちん。

「さぁ」

 それは“咲け”の合図じゃない。

 “今日のまま”で進む合図。


 ベランダの空気はまだ冷たかった。

 冬の終わりは信用できない。

 でも、土の黒は潤っていて、つぼみは確かにそこにあった。

 僕の胸の中にも、同じものがある。

 無理に開かない。

 手順を持って、守って、待つ。

 そうやって、いつか自然に開く日を、ちゃんと迎えにいく。

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