笛が「止まれ」と言う日
昼休み、社内の自販機の前で、僕は三回同じボタンを押しかけてやめた。
押す直前で止める。これが最近のクセ。
コーヒー。炭酸。紅茶。
内なる五人が、缶の前で腕組みしている。
白湯「落ち着け」
紅茶「周りに合わせろ」
ほうじ茶「温めろ」
コーヒー「効率を上げろ」
炭酸「いっそ踊れ」
踊りはしない。会社の廊下で踊る勇気はない。
でも、踊りたいくらい心がザワついてるのは事実だ。
スマホが震える。
通知。
“上長からの連絡”。
僕の胸の奥で「チッ」が鳴る。舌打ちじゃない、ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
凸は、「呼び出し」。
凹は、「断れないクセ」。
一手は、受信機のツマミを回すこと。拾いすぎない。
通知を開く。
『今から10分、会議室B来れる?』
10分。
短い。
短いのに、心は勝手に長編にする。
「怒られる」
「期待される」
「押し付けられる」
「断れない」
「全部受ける」
ゼロか百かの悪いクセが、勝手に布を広げ始める。
僕は一度、画面を閉じた。
閉じるのは逃げじゃない。椅子を動かす。第三の動き。
立つでも座るでもない、“間”。
そのまま千紗にメッセージを送る。
『今から呼ばれた。嫌な予感。』
送信した瞬間、返信が来た。速い。
『凹凸。会議はゲームじゃない。中断も手順。』
ゲーム。
そうだ、これ、ゲームにされると苦しい。
勝ち負けがあるやつ。
勝つために無理をするやつ。
途中で止めたら負けになるやつ。
でも、スポーツの試合だって、笛が鳴って止まる瞬間がある。
“CALLED GAME”。
雨で、暗くなって、危ないから。
中断は敗北じゃなく、安全の判断だ。
僕はポケットの中で、鍵の鈴を指で触った。
鳴らさない。
でも、触るだけで、背中が少しだけ前に出る。
武器。刃物じゃない、合図の鈴。
会議室Bの前で、僕は深呼吸して、吐いた。
吐くのが先。
クロールのときに覚えた。
吸う前に吐く。
焦りは吸って増える。吐いて減る。
ドアをノックすると、上長が「どうぞ」と言った。
入ると、もう一人いる。見知らぬスーツの人。
外部の人、たぶん。
僕の胸の奥で、また「チッ」。
ブザー。
凹凸。
一手。
一手は、錨。
錨の一語+理由一行+鈴。
風に飛ばされない発言手順。
僕は心の中で錨を打つ。
『現実通り』
『いま起きてることだけ拾う。未来の恐怖は拾わない。』
鈴は鳴らせないけど、胸の中でちん、と鳴ったことにする。
「急に呼んでごめん」
上長が言った。
「この方、取引先の。新しい案件の相談で、君の現場感が欲しくて」
現場感。
それは褒め言葉でも、足枷でもある。
“都合よく使われる”記憶が、カラスの羽みたいに降ってきそうになる。
僕は椅子を引いた。
椅子。第三の動き。
座ることで、ゼロか百かのスイッチを切る。
立ったままだと、戦いの姿勢になる。
取引先の人が資料を広げる。
スライドの端に小さく書かれたスケジュール。
短い。詰めてる。
心が「無理だ」と言いかける。
無理かどうかは、まだ決めなくていい。
まずは受信機で拾う。
拾って、整理して、ピース化して返す。
「率直に、現場目線で危ないところありますか?」
取引先の人が聞いた。
この質問、怖い。
正直に言うと角が立つ。
合わせると未来で潰れる。
ゼロか百かの二択に見える。
でも、スリット。線。椅子。
第三の動きがある。
僕は“線”を引く。
「あります」
僕は言った。
「ただ、全部がダメじゃなくて、危ない部分が“線”で分かれています」
上長が眉を動かした。
取引先の人が「ほう」と言う。
僕は続ける。
「例えば、初動の二週間は成立します。でも、その後を同じ速度で走ると、現場の人が息ができなくなる」
息。
クロールの話みたいに、仕事も息の確保が主題になる。
「だから“途中で止まる笛”を、最初からルールに入れてほしいです」
上長が「笛?」と聞き返す。
僕は少しだけ笑った。炭酸が仕事をした。圧抜き。
「すみません、例えです。一定のポイントで、進捗と負荷を確認して“止める権利”を入れる」
「止める権利」
取引先の人が繰り返した。
「つまり……途中で中断しても、負け扱いしない?」
「はい」
僕は頷く。
「中断は敗北じゃなく安全確認です。いわゆる……試合が呼ばれるやつ。続けたら危ない時に止める」
“CALLED GAME”を、僕は心の中でだけ言った。
言葉は出さない。
でも概念は伝わる。
刃物じゃない武器で。
上長が腕組みした。
僕の中の紅茶が「顔色見ろ」と囁く。
コーヒーが「論理で押せ」と言う。
白湯が「呼吸」と言う。
ほうじ茶が「温度」と言う。
炭酸が「笑え」と言う。
僕は白湯を採用した。
言葉の温度を落とす。
「僕ら、やりたいです。この案件。だからこそ、無理を続けない仕組みを一緒に作りたい」
取引先の人が、ふっと肩の力を抜いた。
「正直、それを言ってくれる人、助かります」
その一言が、僕の胸の中の黒い羽を一枚、洗ってくれた気がした。
疑いが少しだけ軽くなる。
“都合よく使われる”記憶と、今の現実が、別物として分離する。
現実通り。
会議が終わりかけたところで、上長が言った。
「じゃ、君に窓口をお願いしていい?」
来た。
ここで「はい」と言うと、全部背負う。
ここで「無理です」と言うと、角が立つ。
ゼロか百か。
また来た。
僕は胸の中で「チッ」。ブザー。
凹凸。
一手。
一手は、ピース。
欠片→ピース化/完成側へ戻る。
「窓口はできます」
僕は言った。
「ただ、僕一人だと詰まるので、もう一人、現場側の相棒をください。『空っぽでも器は器』の器を二つにしたい」
上長が一瞬きょとんとした顔をして、すぐに笑った。
「器?」
「すみません、家の言い回しが出ました。窓口を二人体制にしたいです」
取引先の人も笑った。
笑い声が会議室の空気を柔らかくする。
炭酸の圧抜き。成功。
「なるほど」
上長が頷いた。
「確かに一人体制は危ないな。誰がいい?」
僕は、頭の中で“受信機”を回して、現場の顔を思い浮かべた。
あの人なら、温度を守れる。
あの人なら、止める笛を鳴らせる。
「佐々木さん」
僕は言った。
「彼女なら、止める判断ができる。僕が走りすぎたら、鈴を鳴らして止めてくれるタイプです」
上長が「了解」と言って、会議は終わった。
ドアを出た瞬間、足が少しだけ軽くなる。
勝った負けたじゃない。
今日は、危ないところで笛を鳴らせた。
それが“生きる”側の成果。
廊下に出て、僕はスマホを見た。千紗から追加のメッセージ。
『終わった?』
僕は短く返す。
『終わった。笛、鳴らした。』
すぐ返信が来る。
『えらい。凹凸。帰りにりんご。シャク。』
シャク。
食感で割る。
仕事の重さも、疑いの羽も、シャクで割って小さくする。
帰宅すると、アンが玄関で伸びをした。
猫は今日も“現実通り”。
千紗がキッチンでりんごを切っている。
包丁の刃は、傷を作る刃じゃない。割るための刃。
「おかえり」
「ただいま」
「ゲーム、どうだった?」
千紗が聞く。
「呼ばれた」
「呼ばれたゲーム」
「うん。でも、止める権利を入れた」
「それ、最高」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。今日は勝ち負けじゃなく、生存点」
僕はりんごを一口噛んだ。シャク。
音が、心の中のブザーを“合図”に変える。
中断は敗北じゃない。
笛が止まれと言う日は、止まれる自分でいる。
それが、僕らのたまり場式の現実通りだ。




