ご褒美は「小さいイエス」
冷蔵庫の前で、僕は五秒だけ固まった。
中段の一番見やすい場所に、貼り紙がある。千紗の字。
「今日のご褒美:勝手に決めない」
……ご褒美の貼り紙に、禁止事項が書かれている。
矛盾してるのに、妙に効く。僕の胸の奥の“チッ”が、鳴りかけて止まる。ブザーじゃなくて、注意喚起のライトに変わる。
「見た?」
背後から千紗の声。
僕は振り返る。彼女はマグを二つ持っている。片方は白湯、片方はコーヒー。温度の分配が上手い人。
「見た。ご褒美なのに、禁止されてた」
「うん。あなたの“ご褒美”って、たまに罰ゲームになるから」
「え」
「頑張ったから、さらに頑張る。頑張ったから、全部片づける。頑張ったから、未来の不安まで先に倒す。そういう方向のご褒美、あるでしょ」
千紗は淡々と言って、僕の前に白湯を置いた。
「今日は、受け取る練習」
受け取る。
それは、思っているより難しい。
僕は何かを“する”のは得意で、何かを“もらう”のは下手だ。嬉しさの扱い方が分からない。嬉しいとすぐに、次の課題を探してしまう。嬉しさを“作業”に変換して、安心に換える癖。
アンが足元を横切った。しっぽが僕のすねに当たる。
猫は受け取るのが上手い。撫でられる時は撫でられる。寝る時は寝る。ご褒美を、ご褒美のままにできる生き物。
「アン、見習いたい」
僕が言うと、千紗が笑った。
「アンは、受信機が最初から“受信のみ”だからね。送信しない」
「人間は送信しがち」
「うん。送信しすぎると熱が出る」
僕は白湯を一口飲んだ。
熱じゃない。温度。
“現実通り”の温度が、喉を通る。
今日、僕にはひとつ“終わった”ことがある。
昨日の案件の調整が、無事にひと区切りついた。止める笛も入ったし、窓口も二人体制で回りそうだ。
勝った負けたじゃない。生存点を取った日。
こういう日に、千紗はたまに“ご褒美”を提案する。刃物じゃなく、鈴。背中を押す合図。
「で」
千紗がマグを持ち上げる。
「今日のご褒美、何がいい?」
「え、貼り紙に“勝手に決めない”って」
「そう。だから一緒に決める。ゼロか百かにしない。スリットで割る」
「スリット」
「線」
「椅子」
「第三の動き」
僕らの合言葉みたいな道具たちが、台所に並ぶ。
千紗は冷蔵庫から小さな紙皿を出して、ペンでさらさら書いた。
「候補、三つ」
紙皿の上に、丸が三つ描かれる。
「①甘いもの(コンビニでも可)」
「②外食(近場)」
「③家で“たまり場式”」
「……③って、何するの」
「型があるでしょ。『戻る』の錨を打って、器を整えて、ピースにして、最後に鈴」
「すごい。ご褒美が儀式化してる」
「儀式は甘い。脳が喜ぶ」
千紗は真面目な顔で言って、すぐに笑った。
「ギャグじゃないよ」
アンが椅子に飛び乗った。
椅子。第三の動き。
猫が椅子を占拠すると、人間は立つか座るかを迫られる。ゼロか百か。
でも今日は違う。
僕は別の椅子を引いた。
“椅子を増やす”という第三の動きで、世界を柔らかくする。
「内なる五人、呼ぶ?」
千紗が言う。
こういう時、彼女はいつも手順を忘れない。僕が嬉しさで暴走しないために。
「呼ぶ」
「白湯:落ち着け」
「紅茶:相手に合わせろ」
「ほうじ茶:温めろ」
「コーヒー:合理的に選べ」
「炭酸:早く甘いのにしろ!」
最後だけ声がでかい。
僕は笑ってしまった。炭酸が圧抜きをした。
「議長は白湯」
千紗が即決する。
「今日は“受け取る”がテーマ。炭酸に議長やらせると、会議が踊って終わる」
「踊って終わるご褒美も、魅力あるけど」
「ある。けど今日は一回、丁寧に」
千紗は紙皿を僕の前に置いた。
「どれ?」
僕は一度、口を開いて閉じた。
ここで①を選ぶと、嬉しさが単純に噛める。シャク、みたいに。
②は外の風とセットで、気分が切り替わる。
③は、家の温度で整う。
どれも良い。
だから迷う。
迷うと胸の奥で“チッ”が鳴る。ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
凸は、「選ばなきゃ」。
凹は、「選ぶと間違える気がする」。
一手は、“保留”じゃなく、ピース化だ。
「……三つ全部、じゃだめ?」
僕が言うと、千紗は目を細めた。
「欲張り」
「ご褒美だし」
「そういう時、あなたは全部やって疲れる」
「う」
「だから、スリットで割る。全部を“欠片”にする」
千紗は紙皿に、新しい線を引いた。
①の横に小さく「ひと口」
②の横に小さく「散歩だけ」
③の横に小さく「十分快眠」
「ほら」
千紗が言う。
「全部をやるんじゃない。全部の“欠片”を拾う。ピース化」
「ピース」
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
千紗が手をぱちん、と叩く。鈴の代わり。
「さぁ」
僕は、なんだか急に楽になった。
全部やらなくていい。
ひと口でいい。
散歩だけでいい。
十分快眠でいい。
ご褒美って、量じゃなくて、許可の形なのかもしれない。
「じゃあ」
僕が言う。
「①ひと口、②散歩だけ、③十分快眠」
「よし。採決」
「全会一致?」
「白湯が可決、炭酸が拍手喝采、紅茶が『ちゃんとお礼言いな』って言ってる」
紅茶が言いそう。
僕は笑いながら上着を手に取った。
「散歩、行く?」
「行く。手袋いる?」
千紗は引き出しから薄手の手袋を二組出す。
手袋。触れないで守る。
寒さだけじゃない。嬉しさの過剰な火傷からも守ってくれる気がする。
玄関を出ると、空気が少し冷たい。
でも冬の冷たさは、さっきの白湯を裏切らない。
ちゃんと冷たい。現実通り。
僕らは近所のコンビニまで歩いた。
途中の公園のベンチが空いていて、千紗が座る。椅子。第三の動き。
僕も隣に座った。
「今日さ」
千紗が言う。
「あなた、ちゃんと言えたの、えらかった」
「止める権利の話?」
「そう。止める笛を入れるって、勇気いる」
千紗は風の中で、肩をすくめた。
「ご褒美は、その勇気にあげる」
“あげる”と言われると、胸が少しだけ詰まる。
嬉しいって、詰まる。
僕は受信機のつまみを回して、拾いすぎないようにした。
嬉しさは、拾いすぎると重くなる。重いと、次の作業に変換してしまう。
「凹凸」
僕が小さく言うと、千紗がすぐ返す。
「凹凸」
コンビニで、僕らは小さなプリンを一つ買った。
“ひと口”の欠片。
家に戻って、スプーンを二つ出して、プリンを真ん中から割る。
割るのにちょうどいい、柔らかさ。
食感で割る、の今日は甘い版。
「はい」
千紗が言う。
僕は一口食べた。
甘い。
甘いのに、軽い。
軽いから、ちゃんと受け取れる。
「アンにも……はダメか」
「猫にプリンはあげない」
「アン、見てる」
アンはテーブルの端に顎を乗せて、じっと見ている。
目が言ってる。「それは私の世界にない甘さ」。
僕は代わりに、アンの額をひと撫でした。
ご褒美の欠片は、人間だけのものじゃない。撫でるもピース。
プリンを食べ終えると、千紗が冷蔵庫の貼り紙を剥がして、裏に新しく書いた。
「今日のご褒美:小さいイエス」
「小さいイエス」
「うん。大きいご褒美って、逆に怖いでしょ」
「怖い」
「だから小さい。受け取れるサイズ」
千紗はペン先で、最後に小さく付け足した。
「※勝手に増やさない」
「また禁止事項」
「禁止は手すり」
千紗が笑って、鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。最後、③」
夜。
部屋の電気を少し落として、寝具を整える。
千紗は枕をぽんぽんと叩いて、形を作る。
僕はスマホを充電台に置いて、通知を切った。
“戻る”。
たまり場式の錨。
「錨、やる?」
千紗が聞く。
「やる」
「一語」
「戻る」
「理由」
「今日は生存点の日だから、ここまででいい」
千紗が鈴を鳴らす。ちん。
「固定」
布団に入ると、アンが当然の顔で間に来た。
猫の椅子。第三の動き。
僕らの間に、温度の塊が座る。
それだけで、ゼロか百かの思考がほどける。
「ねえ」
千紗が小さな声で言う。
「ご褒美、受け取れた?」
僕は一瞬考えて、うなずいた。
「受け取れた。ひと口で、散歩で、ここまでで」
「うん。完璧」
「完璧じゃないよ」
「完璧じゃないのが完璧」
千紗が笑った。
笑いは炭酸。圧抜き。眠りに向く。
僕は目を閉じる前に、内なる五人に小さく言った。
「今日は、働いた。止めた。受け取った。以上」
白湯が頷いて、紅茶が満足げに微笑んで、ほうじ茶が温めて、コーヒーがデータを保存して、炭酸が寝る前に一回だけ踊った気がした。たぶん。
アンが喉を鳴らす。
千紗が最後に、指で小さく鈴の合図を作る。
「さぁ」
それは“明日も頑張れ”じゃなくて、
“今日はここまででいい”の合図。
ご褒美は、派手な花火じゃない。
小さいイエスを、ちゃんと受け取ること。
その練習が、たぶん僕らの生活を、暗く沈ませないで前に運ぶ。




