マイ「上」へ行く階段
冷蔵庫に貼ってあるメモが、今日はやけに元気だった。
「上へ(※あなたの“上”)
他人の上は見ない
チッが鳴ったら凹凸
最後にシャク」
千紗の字。丸いのに容赦がない。
僕は白湯を飲みながら、そのメモを見て「なんの修行だよ」と小声でつぶやいた。
「修行じゃないよ、ご機嫌取り」
キッチンで千紗がコーヒーを淹れながら言う。
「あなた、上へ行くって言い方すると、すぐ“高く”しちゃうから。高さじゃなくて、“あなたの上”」
アンが足元で伸びをした。猫の上は、たぶん棚の上。世界で一番わかりやすい。
僕はアンの背中を撫でてから、スマホを手に取った。
通知。
同世代の知り合いが「昇進しました!」って投稿している。
見た瞬間、胸の奥で「チッ」が鳴る。舌打ちじゃない、ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
凸は、「比べる気持ち」。
凹は、「置いていかれる妄想」。
一手は……今日は、“閉じる”じゃない。閉じるとゼロか百かになる。
椅子。第三の動き。
見た事実は認めて、ひと呼吸置く。
僕は息を吐いた。スマホをテーブルに置く。
「……今、鳴った」
「チッ?」
千紗が振り向く。目がもう受信機になってる。拾い方が優しい。
「鳴った」
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を口にすると、胸の中に手すりが出る。
僕は白湯をもう一口飲んだ。温度が現実通りに戻してくれる。
「で、上へ行くんでしょ」
千紗がマグを二つ並べる。片方は僕、片方は自分。
「行く。……でも、どの“上”か分かんない」
「分かんないなら、分かる形にする。たまり場式」
「たまり場式、万能すぎない?」
「万能じゃないよ。万能にしようとすると疲れるから、型にしてる」
千紗は引き出しから小さな紙を一枚出して、テーブルに置いた。
そこに線を一本引く。まっすぐじゃなくて、途中でちょっと曲がる線。
「これが“上”」
「雑」
「雑でいい。雑じゃないと怖くて動けないでしょ」
鋭い。
千紗は続けて、線の途中に小さな“スリット”みたいな区切りを入れた。
「階段の段。ゼロか百かにしないための段」
「段ね」
「段に名前をつける」
「名前?」
「そう。“マイ上へ”だから。あなたの上は、あなたが名付けていい」
僕はペンを渡されて、固まった。
名付けるって、責任が発生する感じがして苦手だ。
でも、今日は逃げない日っぽい。冷蔵庫がそう言ってる。猫も見てる。
「内なる五人、呼ぶ?」
千紗が言う。
こういう時に必ず呼ぶの、僕らの癖だ。癖は武器にできる。
「呼ぶ」
「白湯:落ち着け」
「紅茶:ちゃんとした目標にしろ」
「ほうじ茶:温めながらやれ」
「コーヒー:数値にしろ」
「炭酸:今すぐ走れ!」
千紗が炭酸だけ声をでかくして言うので、僕は吹きそうになった。
「炭酸うるさい」
「炭酸は元気担当」
「元気が出ると、やりすぎる」
「だから議長は白湯」
即決された。
「で、段の名前」
千紗が指でトントンと紙を叩く。鈴の代わりの合図。
「“一番下”は何?」
一番下。つまり今日。
僕は少し考えて、書いた。
『戻る』
「上に行くのに“戻る”?」
千紗が笑う。
「うん。まず戻る。今の僕に。現実通りに」
「いいね。錨っぽい」
千紗は紙の端に、小さく「錨」と書いて丸で囲んだ。
「じゃ、錨の手順、やっとく?」
「一語+理由一行+鈴」
「そう」
僕はペン先を止めて、言った。
「錨:戻る」
「理由」
「他人の上じゃなく、自分の今に戻る」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「固定。はい、次」
二段目。
ここからが“上”。
僕はうーんと唸った。上って、言葉にすると重い。
「重くしない」
千紗がすぐ釘を刺す。
「上は、軽い方が上がる」
「気球か」
「そう。あなた、すぐ鉄の塊持って登ろうとするから」
僕は二段目にこう書いた。
『一手』
「抽象!」
「でも、今日の一手はこれって決められるじゃん」
「決められるならOK。じゃあ今日の“一手”は?」
千紗がペンを僕の指に押し当ててくる。逃がさない。
僕は思った。
上へ行きたい。
でも、昇進とか、筋トレとか、資格とか、そういう“正しそうな上”は今日は違う。
今日は“マイ上”。
僕の上は……自分の気分の扱い方が一段上になること。
「……受信機のつまみを、こっちで握る」
僕が言うと、千紗が目を細めた。
「いい。具体にすると?」
「SNSを開いたら、三呼吸してからスクロールする」
「地味!」
「地味が効く」
「それ、たまり場式に組み込めるね」
三段目。
僕は勢いで書いた。
『コップ』
千紗が頷く。
「空っぽでも器は器」
「うん。空っぽの日でも“上”はできる」
「上って、満杯じゃなくて“器を守る”の方だね」
千紗が言って、アンの方を見た。
「アンも器守ってる。寝床は絶対譲らない」
アンが「当然ですけど?」という顔をした。
四段目。
僕は迷って、空欄にした。
「保留?」
「保留」
「保留も段」
千紗がその空欄に小さく“スリット”を書いた。
「ここは割れ目。割れ目があると折れない」
五段目。
最後に、千紗が言った。
「ご褒美を入れよう」
「またご褒美?」
「ご褒美は燃料。燃料がないと上りは続かない」
「燃料って言い方、現実通りだな」
「現実通り」
千紗がその言葉を言うと、道に名前がつく感じがする。
「最後はシャク」
千紗が言う。
「食感で割る。りんごでも、せんべいでも」
「了解」
僕は五段目に書いた。
『シャク』
紙の階段ができた。
雑で、でも、僕の上り方の輪郭がある。
「で、実際に上る?」
千紗が聞いた。
「どこを?」
「家の近くの坂。あの、神社の階段」
「地味!」
「地味が効く(2回目)」
千紗が笑って、手袋を二組出してきた。
「手袋」
「触れないで守る?」
「寒さからも、余計な自意識からも守る。あと、手すり触るでしょ」
確かに。僕は階段で手すりを握る派だ。凹凸の現物。
外に出ると、空気が冷たい。
でも、冷たさは嘘をつかない。冬の終わりみたいな気まぐれさはあるけど、今この瞬間は冷たい。
現実通り。
神社の階段は、思ったより段が多い。
そして、思ったより静かだ。車の音が少し遠くなる。
上るだけで、世界のボリュームが下がる。
「ここが“戻る”」
千紗が言う。
「最初の段」
「戻るって、下に戻る意味じゃないんだな」
「うん。あなたに戻る」
千紗は鈴を鳴らさない。その代わり、言葉の音を鈴みたいに使う。
「さぁ」
僕らは一段ずつ上った。
息が上がる。
息が上がると、心が騒ぎやすい。
僕はふっと、さっきの投稿を思い出した。昇進。拍手。
胸の奥がまた「チッ」と鳴る。ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。
僕は手すりを握った。冷たい金属。現実通りの冷たさ。
一手は、三呼吸。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
吐く方が長い。クロールのときに覚えたやつ。
吐くと、上りが“自分の上り”に戻る。
「今の、一手?」
千紗が聞く。
「うん。三呼吸」
「えらい」
「えらいって言うと、また頑張りたくなる」
「じゃあ言い方変える」
千紗が少し考えて、言った。
「現実通り」
それが、褒め言葉になるの、ずるい。
途中の踊り場にベンチがあった。
椅子。第三の動き。
僕らは座った。座ると、上りは“続けるかやめるか”じゃなく“整える”になる。
アンがいないのがちょっと寂しい。
でも、アンは家のたまり場を守ってる。僕らが戻れる場所を、ちゃんと温めてる。
「ここ、保留の段だ」
千紗が言う。
「スリット」
「スリット」
僕は紙の階段をポケットから出して、指でなぞった。
保留って、サボりじゃない。割れ目。折れないための設計。
「ねえ」
千紗が言う。
「“上”って、誰かの上に乗ることじゃないよ」
「分かってる」
「分かってる顔して、すぐ忘れる」
「……うん」
「だから受信機のつまみ。あなたが握る」
「握る」
僕らは最後の段を上った。
神社の上から見える景色は、劇的じゃない。
住宅街が広がって、遠くに線路が見える。
でも、その“普通”がいい。
普通は、暗く沈まない。普通は、明日にもつながる。
「ここが“マイ上”?」
僕が言うと、千紗は首を傾げた。
「今日はここがマイ上。明日は別でもいい」
「柔らかい」
「柔らかいのが続く。硬いのは折れる」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。下りは“戻る”の復習」
帰り道、コンビニでりんごを買った。
家に着くと、アンが玄関で出迎えた。
鳴かないのに、文句が顔に出てる。「遅い」。でも体はすり寄る。「おかえり」。
「ただいま、器」
僕が言うと、千紗が笑った。
「猫を器扱いしない」
りんごを切る。
シャク。
音が、今日の階段の段をひとつずつ「はいはいはい」って確認してくれるみたいに響く。
食感で割る。
比べる気持ちも、焦りも、いったん小さくする。
「今日のご褒美、これでいい?」
千紗が聞く。
僕はりんごをもう一口噛んで、言った。
「いい。大きい上じゃなくて、小さい上」
「小さいイエス」
「うん。小さいイエス」
アンが皿の端の欠片を狙っているので、ほんの少しだけ置いた。
欠片はピースになる。
ピースは完成側へ戻る。
アンはぺろりと舐めて、満足そうに目を細めた。
僕は冷蔵庫のメモを見た。
千紗の字の最後に、小さく追記が増えている。
「※上は、上書き可」
僕は笑ってしまった。
上へ行くのに、上書き。
でも、そういう軽さがいい。
「ねえ千紗」
「なに」
「明日も、上れるかな」
「上れる。上れない日も“戻る”ができる」
千紗はそう言って、鈴を鳴らす。ちん。
「さぁ」
それは“もっと頑張れ”じゃなくて、
“あなたの上へ、あなたの速度で”の合図だった。




