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待っての設計図

 千紗が「待って」と言うときは、だいたい二種類ある。

 一つは、単純にペースの調整。靴紐がほどけたとか、エレベーターのドアが閉まりそうだとか。

 もう一つは、もっと深いところのブレーキ。心が滑って転びそうなときの、手すりの呼び出し。


 今日の「WAIT!」は、後者だった。


 夕方、駅前の横断歩道。信号が青に変わった瞬間、千紗が俺の袖を掴んで引いた。


「WAIT!」


 英語っぽく、でもカタカナの圧で。周りの人が一瞬だけこちらを見る。千紗は気にしない。気にしないふりじゃなく、いまはそれどころじゃない顔。


 俺の受信機が一気に立つ。小さな叫びを拾う姿勢が、今日は大きな叫びも拾う。


「凹凸?」俺は足を止めたまま聞く。


 千紗は頷いた。呼吸が少し速い。


「凹凸。刺さった。今、胸が滑ってる」


 信号は青のまま、人の流れが前へ押す。でも俺たちは止まる。ゼロか百かじゃない、椅子一センチの世界を、横断歩道の真ん中に作る。


「行こ」俺は言わない。言わないのも、武器だ。


 路肩に寄って、街路樹の影に入る。葉っぱの隙間から落ちる光が、細い線になって地面に走る。スリットみたいに。


「何があった?」俺が聞くと、千紗は自分の喉を押さえるみたいにして言った。


「……来た」


「来た?」


「上の人。さっきの駅ビルの入口で会った。目、合った」


 千紗の声が乾く。表面だけ乾くやつ。俺はその乾き方を覚えている。便利な言葉で覆う前の乾き。


「声かけられた?」

「うん。『この前の件、助かったよ』って。……それで、私は笑って、『いえいえ』って」


 それ自体は、悪いことじゃない。でも千紗の手が、袖を離さない。まだブレーキが必要だと言ってる。


「それで?」俺は促す。受信機は、拾うけど急かさない。


「帰り道にさ」千紗が言う。「急に、心が早歩きした。『また何か任される』『また行けるでしょって言われる』『また断れない』って」


 未来の想像が、暴走する。表面がつるつるだと滑る。滑ると、転ぶ前に走る。走るのは、逃げにもなる。


 俺の中で「チッ」が鳴った。ブザー。千紗が“走ってしまう”方へ滑る気配への警報。


 ブザー→凹凸→一手。


 俺はポケットの小さな鈴を指で鳴らした。チリン。

「さぁ」俺は言う。「WAIT!を、うち仕様にする」


「うち仕様?」千紗が眉を寄せる。

「うん。“待って”を、ただの停止じゃなく、手順にする」


 千紗は息を吐いて、袖を離した。離したけど、手は宙に残ってる。まだ掴む場所が欲しい。


「今のWAIT!は」俺は言った。「“止まって”じゃなくて、“転ぶ前に掴ませて”だよね」


 千紗は小さく頷いた。「うん。掴む場所がないと、私、走って消える」


 消える。透明になる。airyの回路。俺は頷いて、コンビニへ寄る方向に視線を向けた。


「まず、シャクしよう」

「りんご?」

「うん。食感で割る。心の早歩きを、噛んで減速する」


 コンビニでりんごを買うのは難しいから、今日は代わりに硬めのグミを買った。シャクには勝てないけど、噛む回数は稼げる。千紗は袋を開けて、一粒口に入れる。


 ぐい、と噛む。


「……ちょっと戻った」千紗が言う。

「戻ったなら、次」


 家に着くと、アンが玄関まで来て、首輪の鈴を鳴らした。チリン。生活の確認音。千紗の肩が少し落ちる。


 千紗はソファじゃなく椅子に座り、背もたれを少し立てた。キュ。第三の動きが、今日も先に空気を整える。


 俺はテーブルにメモ用紙を置いて、真ん中に一本線を引いた。左にSURFACE、右に中身。スリットを作る。


「左に、今日の表面の言葉」俺は言う。

「……『いえいえ』」千紗が言った。

「右に、本音」

「……『怖い』」千紗が小さく言った。


 俺は頷いて、コップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人を呼ぶ。


「今日の主役は?」

「白湯」千紗が言った。「抱えてる。怖さを、黙って抱えてる」

「紅茶は?」

「説明したい。相手にじゃなく、自分に」

「ほうじ茶は?」

「普通にしろって言う」

「コーヒーは?」

「怒ってる。『また同じこと繰り返すの?』って」

「炭酸は?」

「笑ってごまかしたい」


 千紗が自分で言って、苦笑いした。「五人、全員出勤してる」


「出勤日は、手順を増やす」俺は言う。「WAIT!は、その合図にする」


 俺は鈴を鳴らした。チリン。

「さぁ。WAIT!の手順、三段」


「三段」千紗が言う。「また編集会議」


「一段目、止まる。物理で」

「横断歩道で止まった、あれ」

「二段目、食感で割る。噛む。呼吸を戻す」

「グミね」

「三段目、言葉を一個だけ出す。“怖い”でも“凹凸”でもいい」


 千紗はメモの右側に、ゆっくり書いた。


『WAIT!=止まる→噛む→一語』


 書いてから、少し目が潤んだ。でも落ちない。表面張力が、今日はちゃんと守ってる。


「ねえ」千紗が言う。「私さ、今日の駅ビルの入口で、ほんとは“待って”って言いたかった。相手にじゃなく、自分に」


「言えたじゃん。横断歩道で」


「外で言うの、恥ずかしい」

「恥ずかしいは正常。恥ずかしいからこそ、合図にできる」


 千紗は笑って、炭酸の缶を開けた。プシュ。泡の音が、張り詰めた膜に小さな穴を開ける。


「ねえ」千紗が言う。「あなたがいなかったら、私、走ってたかも」


「走ってもいい。でも、走る前にWAIT!があると、違う」


「WAIT!……」千紗は鈴を手に取って鳴らした。チリン。「さぁ、止まる」


 その言い方が、妙にしっくりきた。止まるって、諦めじゃない。

 止まるって、明日の座席を空けるための動き。

 止まるって、転ばないためじゃなく、転びそうな自分をちゃんと掴むための、手すりの呼び出し。


 アンがテーブルの下で「にゃ」と鳴いて、鈴がチリンと返事をした。

 小さい音が、今日のブレーキの証拠だった。

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