渦に名前を付ける
洗面所の排水口に、泡がくるくると吸い込まれていくのを見ていると、時間が一瞬だけ止まる。止まるというより、そこだけ別の速度になる。渦は、そういう顔をしてる。
千紗がその渦を見つめていた。歯みがきの泡を吐き出したあと、蛇口を止めるのも忘れて、目だけが排水口に固定されている。
「……渦」
ぽつりと言った。自分に言ったのか、俺に言ったのか、分からない声。
俺の受信機が立つ。小さな叫びは、言葉の前に視線で出る。
「凹凸?」俺は洗面所の入口から聞いた。
千紗は一拍遅れて頷いた。頷き方が、少しだけ不器用だ。沈んでいるというより、巻き込まれそうになっている。
「凹凸。刺さってる。胸の内側が、引っ張られてる」
俺は蛇口を止めた。水の音が切れると、部屋が急に静かになる。静かは、渦を大きくすることがある。だから、静かにしすぎない。
ポケットの小さな鈴を指で鳴らした。チリン。さぁ。
「さぁ、洗面所から出よう」俺は言った。「渦は、近いと吸われる」
「……うん」
千紗は鏡に自分の顔を一瞬映して、すぐ逸らした。表面の顔。SURFACE。鏡は便利で、残酷だ。今の千紗は、見たくない自分の“表面”を見せられた気がしたんだと思う。
リビングに戻ると、千紗は椅子を選んだ。ソファじゃなく、椅子。背もたれを少し立てる。キュ、と床が鳴る。第三の動きが、今日も先に空気を整える。
アンが足元に来て、首輪の鈴を鳴らした。チリン。生活の確認音。千紗の肩が、ほんの少しだけ落ちる。
「渦ってさ」千紗が言う。「気づいたら中にいるんだよね」
「うん」
「で、外から見たら、たいしたことないみたいに見える。排水口の泡みたいにさ。『ほら、流れてるだけ』って」
千紗の声が乾いている。表面だけ乾くやつ。便利な言葉で覆う前の乾き。
俺の中で「チッ」が鳴った。ブザー。千紗が“たいしたことない”で自分を押しつぶす気配への警報。
ブザー→凹凸→一手。
俺は鈴をもう一度鳴らした。チリン。
「さぁ」俺は言う。「渦に、名前を付けよう」
「名前?」千紗が眉を上げる。
「うん。名前が付くと、渦は“現象”になる。自分そのものじゃなくなる」
千紗は少し黙って、指でテーブルの木目をなぞった。細い溝。スリットみたいな線。言葉がそこに落ちるのを探してる。
「今日の渦は……」千紗が言う。「『間に合わない渦』」
「間に合わない?」
「うん。仕事も、返事も、気持ちも。全部、間に合ってない気がする。追われて、追われて、追われて、渦」
俺は冷蔵庫を開けて、りんごを取り出した。渦には食感が効く。食感で割る。シャクは、渦の回転数を落とす。
「シャク、いる?」
「いる」千紗は即答した。「今、口の中がぐるぐるしてる」
りんごを切る。今日は厚め。噛む回数を増やす厚みは、渦に速度制限をかける。皿に並べて、千紗の前に置く。
千紗がひと切れ噛む。シャク。
音が、渦の中心に棒を刺すみたいに響く。回転が少しだけ鈍る。
「ねえ」千紗が言う。「私さ、さっき鏡見て、思った。『私、顔がない』って」
「顔がない?」
「うん。表面の顔が、今日の渦に飲まれてる。笑う顔とか、普通の顔とか、全部、吸われた」
俺は頷いた。否定しない。受信機は拾って、置く場所を作る。
「じゃあ、顔を戻す手順」俺は言った。「ゼロか百かじゃなく、椅子一センチ」
「椅子一センチ……」
俺はテーブルにメモ用紙を置いて、真ん中に一本線を引いた。左にSURFACE、右に中身。スリットを作る。
「左に、渦の表面の言葉」
「……『たいしたことない』」千紗が言った。苦笑いが混じる。
「右に、本音」
「……『たいしたことある』」
言えた。短くても、言えた。渦に穴が開いた。
俺はコップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人を呼ぶ。感情を一人にしない。渦は孤独が好きだから。
「今日の主役は?」俺が聞く。
「白湯」千紗が言った。「黙って抱えてる。全部抱えてる」
「紅茶は?」
「説明したい。なんで間に合わないって思うのか」
「ほうじ茶は?」
「落ち着けって言う。『いつも通りで』って」
「コーヒーは?」
「怒ってる。『渦に負けるな』って」
「炭酸は?」
「笑って逃げたい。でも逃げたくない」
千紗が言い終えて、少しだけ笑った。炭酸が泡を一粒出した感じ。渦の外側に、空気が入る。
「じゃあ、一手」俺は言う。「渦から出る一手」
「どうやって」千紗が聞く。
「渦は、逆らうと強くなる」俺は言った。「だから、“外へ跳ぶ”じゃなく、“縁に手をかける”」
「縁……」
「具体で縁を作る。たとえば、今日の“間に合わない渦”の中身を、三つに分ける」
「三つ」
「仕事、返事、気持ち」俺は指を折る。「どれが一番回ってる?」
千紗は少し考えて、指先をくるくる回した。先端をゆっくり、荒く。考える癖が出るときは、ちゃんと踏みとどまれてる。
「返事」千紗が言った。「返事が間に合ってない。LINEも、メールも、心の中の返事も」
「じゃあ一手」俺は鈴を鳴らした。チリン。さぁ。
「“返事”を一個だけ返す。全部じゃなく、一個。椅子一センチ」
「一個……」千紗は目を閉じて、深呼吸した。「……母から来てたやつ。返してない」
「それ、今?」
「今」千紗はスマホを手に取った。指が震える。渦の中でスマホは危ない。でも、いまは縁に手をかけるための道具になる。
千紗は短く打った。
『遅くなってごめん。今日は渦だった。また明日ちゃんと話すね。』
送信。画面が静かになる。
千紗は、吐く息が少し長くなった。渦の回転が、また少し落ちる。
「……今の、オーライ?」千紗が小さく言う。
「オーライ」俺は頷いた。「大丈夫じゃないけど、終わりじゃないのやつ」
千紗は笑った。「うん。渦でも、終わりじゃない」
アンが足元で鳴いた。鈴がチリン、と答える。生活の確認音が、渦の外側を少し広げる。
「ねえ」千紗が言う。「渦ってさ、消すんじゃなく、名前つけて、縁に手をかけて、ゆっくり出るんだね」
「そう」俺は言った。「渦は敵じゃない。渦は、容量オーバーのサイン」
「容量オーバー……」千紗はりんごを最後のひと切れ噛んだ。シャク。音が明るい。「じゃあ、今日の私は、容量を超えた。だから、止まった」
「止まるの、上手になった」
千紗は椅子をほんの一センチ、俺の方へ寄せた。キュ。第三の動きが近づく方向に働くと、部屋の温度が戻る。
「さぁ」千紗が鈴を鳴らした。チリン。「ごはん食べて、今日は渦の外で寝る」
渦は、排水口の泡みたいに小さく見える。
でも、名前を付けたらちゃんと大きさが分かる。
分かったら、縁に手をかけられる。
それだけで、渦は“飲み込むもの”から“通り過ぎるもの”になる。




