明日の座席を空ける言葉
千紗が「イッツオーライ」と言ったのは、炊飯器の蓋を開けた瞬間だった。湯気がふわっと立って、白い米の匂いが部屋に広がる。生活の表面。薄い膜。今日の疲れを、いったん包む膜。
でも千紗の声は、湯気より乾いていた。
「……イッツオーライ」
英語っぽいのに、カタカナで、ちょっと投げやりで、でも投げっぱなしじゃない。そういう言い方だった。
俺の受信機が立つ。小さな叫びは、声量じゃなく、語尾に引っかかる。
「凹凸?」と俺が聞く。
千紗は炊飯器の前で固まってから、ゆっくり頷いた。
「凹凸。刺さってる。今日のは、胃のあたり」
「手すり、どうぞ」
俺はテーブルの端に置いてある小さな鈴に触れた。まだ鳴らさない。合図は“鳴る前”に置くだけでも、落ち着くときがある。
千紗は椅子を選んで座った。ソファじゃなく、いつもの椅子。背もたれを少し立てる。キュ、と床が鳴る。第三の動きが、先に空気を整える。
「今日さ」千紗が言う。「やらかした」
「内容、聞いていい?」俺は言った。受信機を向けたまま、答えを急がない。
「仕事で。メールの添付、違えた。違えるなってやつを、違えた」
千紗は笑おうとして、笑いが出ない。炭酸の泡が立たない感じ。ほうじ茶が頑張って場を落ち着かせようとしてるのに、コーヒーが火種を抱えてる。
「謝った?」
「謝った。すぐ電話して、謝って、送り直して……相手は『大丈夫ですよ』って言ってくれた」
「良かったじゃん」
「良くない」千紗が即答した。「良かった、って言いたい自分がいるのに、言うと嘘になる。だってさ、私、全然大丈夫じゃない」
全然大丈夫じゃない。言葉が、ちゃんと中身を連れて出てきた。表面張力の膜に、スリットが入る。俺はそのスリットを広げすぎないように、でも閉じないように、息を合わせる。
俺の中で「チッ」が鳴った。ブザー。千紗が自分を責める方向へ滑りそうな気配への警報。
ブザー→凹凸→一手。
俺は鈴を鳴らした。チリン。
「さぁ」俺は言う。「“イッツオーライ”を、うち仕様にしよう」
「うち仕様?」千紗が眉を上げる。
「うん。“大丈夫”を雑にしないための仕様」
俺は冷蔵庫からりんごを取り出した。こういうとき、食感で割るのが効く。噛むと、脳の粉っぽさが落ちる。
「シャク、要る?」
「要る」千紗は小さく言った。「今日、口の中が砂」
りんごを切る。今日は厚め。噛む回数が増える厚みは、気持ちを薄くしないための設計。皿に並べて、千紗の前に置く。
千紗がひと切れ噛む。
シャク。
音が、部屋に線を引く。外の世界が少し遠くなる。ここが“帰れる場所”になる。
「で、仕様って何」千紗が言う。
俺はコップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人を呼ぶ。感情は分業すると極端にならない。ゼロか百かを避けられる。
「今日の主役、誰?」俺が聞くと、千紗はりんごをもう一切れ噛んでから言った。
「コーヒー」
「怒り?」
「怒り。自分に。『何やってんだ』って」
「ほうじ茶は?」
「落ち着けって言う。『相手が大丈夫って言ったんだから』って」
「紅茶は?」
「説明したい。私のミスの構造を」
「炭酸は?」
「笑って流したい。でも今日は流したくない」
「白湯は?」
「黙って抱えてる。胃が重い」
千紗は言い終えて、少しだけ肩を落とした。重さの置き場所が分かると、重さは少し軽くなる。
「じゃあ」俺はメモ用紙を出した。真ん中に一本線を引く。左にSURFACE、右に中身。スリットを作る。
「左に、いつもの“オーライ”を書こう」
俺は左に書いた。
『It’s alright.(大丈夫)』
「右に、今日の本音」俺はペンを渡す。
千紗はペン先を紙に置くまで少し時間がかかった。表面張力が強いと、インクは落ちるまで待つ。待つのも手順。
千紗は右に書いた。
『大丈夫じゃない。でも、終わりじゃない』
その文は、ちょうどいい重さだった。暗く沈まず、軽く誤魔化さず。明日の座席を一つ空ける言い方。
「……これだ」千紗が言った。「私が言いたかった“イッツオーライ”って」
「“オーライ”ってさ」俺は言う。「“何もなかった”じゃなくて、“ここから直せる”の意味にしたい」
「直せる……」
千紗はりんごを噛む。シャク。音が少し明るくなる。
「でも私さ」千紗が言う。「“直せる”って思うと、今すぐ全部直したくなる。百になる」
「じゃあ椅子一センチ」俺は言った。「直すのも、分割」
「分割……」
「一手でいい。今日の一手は、何」
千紗は椅子をほんの少し動かした。キュ。第三の動きが“前”方向に働く。やる気が、少しだけ前に出る。
「上司に、報告のテンプレ作る」千紗が言った。「添付ミス防止用のチェック欄。二行でいい」
「いいね。二行はスリット」
「で、相手にも、もう一回謝る?」千紗が不安そうに言う。
「相手が『大丈夫』って言ったなら、そこに追加で“自分の不安”を投げる必要はないかも」
「じゃあ、どうする」
「内部の再発防止を伝える。『確認手順を追加しました』って。それは相手も安心する」
千紗は頷いた。「うん。それなら、ほうじ茶も納得する」
アンがテーブルの下から出てきて、千紗の足に体をすりつけた。首輪の鈴がチリン、と鳴る。小さい音の肯定。
「アン、今の聞いてた?」千紗が笑う。炭酸が泡を出し始める笑い。
俺は鈴を鳴らした。チリン。
「さぁ」俺は言う。「締めの文を決めよう。“イッツオーライ”の正式版」
「正式版」千紗が照れくさそうに笑う。「メーカーみたい」
「メーカーは、俺と千紗」
千紗は紙を見て、ゆっくり声に出した。
「……大丈夫じゃない。でも、終わりじゃない」
「それ、良い」
「もう一個、付け足していい?」
「いいよ」
千紗はペンで小さく追記した。
『大丈夫じゃない。でも、終わりじゃない。さぁ、次の一手。』
俺はそれを見て、思わず笑った。
「鈴、入ってる」
「武器だから」千紗が肩をすくめる。「刃物じゃないやつ」
炊飯器の米が、ちょうどいい湯気を出している。スープを温め直して、二人分の器に注ぐ。質問より先に湯が出る。今日は、自己嫌悪より先に湯気が出た。
千紗が箸を持って、少しだけ深呼吸をした。
「ねえ」千紗が言う。「私、今日の“オーライ”を、雑にしたくない」
「うん」
「だから、言うね」
千紗は俺を見て、ちゃんと言った。
「イッツオーライ。……大丈夫じゃないけど、終わりじゃない」
その言い方は、未来のための言葉だった。
明日の座席を、ちゃんと空ける言葉。
そして、そこに座れるようにする、小さな鈴の音。




