美しさの置き場所
夜のコンビニは、蛍光灯の下だけ世界が白くて、その外側が急に黒い。境目の線がはっきりしすぎて、目が疲れる。千紗はレジ袋を片手に、もう片方の手で自分の頬を軽く叩いた。
「やばい、今日、脳みそが粉っぽい」
「水分不足?」俺は笑って言い、受信機のアンテナを少しだけ立てた。粉っぽいは、だいたい“たくさん我慢した”の合図でもある。
「水分も。あと、言葉不足」
「言葉不足?」
「うん。なんか、今日は、心の中に文章がない」
千紗はそう言って、店を出た瞬間に空を見上げた。ビルの間に、月がひっかかっている。丸いのに、欠けている。欠けた分が、妙に優しい。
「ねえ」千紗が言った。「人生って、美しいと思う?」
唐突に来た。Is life beautiful?
俺は歩幅を変えずに、一拍置いた。こういう問いは、急いで答えるとだいたい滑る。表面がつるつるで、転ぶ。
「凹凸?」と俺は聞いた。
「凹凸」千紗は頷いた。「刺さった。胸の奥」
じゃあ、手すりを出す。俺はポケットの鈴を指で鳴らした。チリン。さぁ。
「今、答えを出すんじゃなくて、問いの形を整えよう」俺は言った。
「編集者ムーブ」
「うん。問いは、文章の見出しだから」
家に着くと、アンが玄関まで走ってきた。首輪の鈴がチリン、と鳴る。こっちの鈴は“ここにいる”の確認音。生活の美しさは、だいたいこういう小さい音にいる。
「ただいま」
千紗が靴を脱ぎながら、いつものクセで「チッ」と鳴らしかけて、途中で止めた。ブザーはまだ鳴らさない。今日は、別の問いが鳴っている。
千紗はリビングの椅子を選び、背もたれの角度を少し立てた。キュ、と床が鳴く。第三の動き。問いに向かう姿勢を、家具が先に作る。
「人生って、美しい?」千紗がもう一度言った。今度は、少しだけ小声。さっきより“自分に聞いてる”音。
「まず」俺は冷蔵庫を開けた。「食感で割ろう。シャクが必要だ」
「りんご?」
「うん。美しさって、頭だけで触ると滑るから」
りんごを切って皿に出す。今日は薄切りじゃなく、ほどほどの厚み。噛む回数が増える厚みは、考えを丁寧にする。
千紗が一切れ噛む。シャク。音が部屋に線を引く。外と内が分かれる。
「で、問いの形って?」千紗が言った。
「“人生”が大きすぎる」俺は言う。「人生って言うと、全部を一気に抱えることになる。白湯が倒れる」
「白湯、非力」
「非力じゃない。黙って抱える係が、全部抱えたら終わる」
俺はコップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人を呼ぶ。大きい問いほど、分業が必要。
「今日の主役は?」と俺が聞くと、千紗はりんごをもう一切れ噛んでから答えた。
「白湯。抱えてる」
「何を?」
「今日の景色。今日の顔。今日の言葉。全部、飲み込んだ」
「紅茶は?」
「説明したい。なんでこの問いが出たか」
「ほうじ茶は?」
「落ち着けって言ってる」
「コーヒーは?」
「ちょっと怒ってる。『美しいとか言う前に、まず疲れをどうにかしろ』って」
「炭酸は?」
「笑ってごまかしたい。でも今日はごまかしたくない」
千紗が自分で言って、少しだけ笑った。炭酸が、泡を一粒だけ出した感じ。
「じゃあ、問いを小さくしよう」俺は言って、メモを出した。真ん中に一本線。左にSURFACE、右に中身。スリットを作る。
「左の問い」俺は書いた。
『人生は美しい?』
「右に、今日仕様の問いを書く」俺はペンを渡す。「“今日の何が美しい?”にする」
千紗はペン先を持ったまま、しばらく止まった。表面張力が強いと、言葉は落ちるまで時間がかかる。
「今日……」千紗が小さく言う。「今日、別に、良い日じゃなかった」
「良い日じゃなくても、美しさはある」俺は言う。「むしろ、良い日だけに美しさを許すと、残りの人生が全部“無”になる」
「極端禁止令、発動」
「発動」
千紗は右側に、ゆっくり書いた。
『今日の私は、何を美しいと感じた?』
書いてから、少しだけ肩が落ちた。落ちたというより、重さの置き場所が決まった感じ。
「で」俺は言った。「答えは、一個でいい。全部じゃなくて一個。椅子一センチ」
「一個……」
千紗は窓の外を見た。カーテンの隙間から、街灯の光が細い線で入ってくる。スリットみたいな光。
「今日ね」千紗が言った。「駅で、子どもが泣いててさ。お母さんが、抱っこして、“大丈夫、大丈夫”って言ってた」
「うん」
「それ、見たとき、胸がきゅってなった。大丈夫って、便利な言葉なのに、あの人の大丈夫は、便利じゃなかった。ちゃんと、あったかかった」
千紗の声の膜が薄くなる。中の温度が見える。
「それが美しかった?」俺は聞く。
「……美しかった。たぶん」千紗はりんごを噛んだ。シャク。「でも、そのあとすぐ、私、思ったの。“じゃあ、私は?”って」
Is life beautiful? の後半は、たいていそこに落ちる。あなたは?
“and you?” の回路。受信機が拾う。
俺の中で「チッ」が鳴った。ブザー。ここで千紗が自分を責める方向へ滑るのが見えた。
ブザー→凹凸→一手。
「凹凸」俺は言う。「今、刺さりそう?」
「刺さってる」千紗が頷いた。「『私は美しい側にいない』って、勝手に思いそう」
「一手」俺は鈴を鳴らした。チリン。さぁ。
「“美しい側”って線引き、やめよう。美しさは“場”じゃなくて“行為”だ」
「行為?」
「うん。今日、千紗が美しいものを見て、胸がきゅってなった。それ、もう行為だ。受信機が働いた」
千紗は目を瞬かせた。「……それ、私の中の紅茶が好きそう」
「紅茶、呼ぶ?」
「呼ぶ」
千紗はコップの紅茶に触れる真似をした。触れたふりでも、気持ちは席に戻る。
「じゃあ、具体を添える」俺は言う。「千紗の今日の美しさ、もう一個。小さいやつ」
千紗はうーん、と唸って、椅子をほんの一センチ動かした。キュ。第三の動きが“探す”方向に働く。
「アンがさ」千紗が言った。「私が帰ってきたとき、玄関まで来たじゃん。あれ、地味に……うれしい」
「うん。それ、美しい」
「美しいって言うと、大げさ」
「大げさにしない。言い方を変える」俺は言う。「“きれい”じゃなくて、“愛おしい”でもいい」
千紗は小さく笑った。「愛おしい……それなら言える」
「じゃあ、問いをもう一段整える」俺はメモの右側に、さらに小さく追記した。
『今日の愛おしいは何?』
千紗はその文字を見て、息を吐いた。白湯が、少し楽になる呼吸。
「ねえ」千紗が言った。「人生が美しいかどうかって、答えが一個じゃないね」
「うん。答えは、毎日更新」
「as ever?」
「as ever。でもボタンを付け替えるやつ」
千紗は立ち上がって、鍋に火を入れた。ごっちゃ煮スープ。質問より先に湯が出る。今日は問いより先に湯気が出る。
湯気が立つ。表面。膜。中の熱が見える形。
「ねえ」千紗が言った。「あなたは、人生、美しいと思う?」
今度は、逃げないで答える。整えた問いの上でなら、滑らない。
「今日で言うなら」俺は言った。「千紗がその質問を持って帰ってきたことが、美しいと思う」
「え、質問が美しいの?」
「うん。問いは、手すりになる。凹凸になる。転ばないためじゃなくて、転びそうな自分を掴むための」
千紗は少し黙って、それから、照れ隠しみたいに笑った。
「じゃあ、今日の結論」千紗は鈴を取って鳴らした。チリン。「さぁ。人生は、美しい“日”がある。で、私たちは、それをテーブルに置ける」
「置ける」
「置けるだけで、だいぶ救われる」
アンが足元で「にゃ」と鳴いた。鈴がチリンと返事をする。
小さい音が、今日の答えの一行目だった。




