踏み出しボタン
玄関のドアが閉まる音が、いつもより軽かった。軽いのに、空気が重い。矛盾って、たいてい本物だ。
「ただいま」
千紗が言って、靴を脱ぎながら小さく「チッ」と鳴らした。舌打ちというより、ブザー。苛立ちをそのまま撒き散らさないための、うちの運用。
俺の受信機が立つ。相手の小さな叫びは、声量じゃなくて、音の端っこに引っかかる。
「凹凸?」と俺が聞くと、千紗は一度まばたきしてから頷いた。
「うん、凹凸。……刺さった。今日のは、胸の真ん中」
「手すり、どうぞ」
俺は言って、テーブルの端に置いてある小さな鈴を指でつまんだ。まだ鳴らさない。合図は“鳴る前”に置いておくだけでも、気持ちが落ち着くときがある。
千紗はリビングの椅子を見て、ソファじゃなく椅子に座った。背もたれの角度を少し立てる。キュ、と床が鳴る。第三の動きが、先に空気を整える。
「……今日さ」千紗が言う。「“行けるでしょ”って言われた」
言われた、の発音が乾いている。表面だけが先に乾く、あの感じ。
「誰に?」
「上の人。来月の企画、私に任せたいって。で、“千紗なら行けるでしょ”って」
千紗は笑った。笑ったけど、泡じゃない。炭酸じゃない笑い。薄い紙みたいに揺れて、すぐ戻る。
「褒められてるじゃん」
「褒められてるんだよ。分かってる」千紗は指でテーブルの木目をなぞった。細い溝。スリットみたいに、線が続く。「でもさ、“行けるでしょ”ってさ、便利すぎない? こっちの中身、見ないまま進める言葉」
便利な言葉は、表面張力が強い。つるっとして、引っかからない。引っかからないから、こぼれる。
俺の中で「チッ」が鳴った。千紗への苛立ちじゃない。見落としそうなところへ滑っていく、あの危険への警報。
ブザー→凹凸→一手。
「一手、やる?」俺は鈴を鳴らした。チリン。
「さぁ」俺が続ける。「“行ける”を、うち仕様に翻訳しよう」
「翻訳って何」千紗は半分笑って、でも目が真面目だ。「英語にすんの?」
「逆。表面の言葉を、中身が見える言葉にする」
俺は冷蔵庫からりんごを取り出した。こういう話は食感が要る。食感で割る。りんごのシャクは、極端を防ぐ。
「シャク、いる?」
「いる」千紗は即答した。「今日、口の中が粉っぽい」
りんごを切る。今日は厚め。噛む回数を増やす厚みは、気持ちを薄くしないための設計だ。
千紗がひと切れ噛む。
シャク。
部屋の輪郭が、少しだけ立った。外の音が遠くなる。今いる場所が“内側”になる。
「ねえ」千紗が言う。「私、行けるのかな」
「行けるか行けないか、の二択にしない」
「出た、ゼロか百か禁止令」
「うん。椅子一センチの世界で考える」
俺はテーブルの上にメモ用紙を置いて、真ん中に一本、線を引いた。左に「SURFACE」、右に「中身」。スリットを作る。
「左が“行けるでしょ”」
「右が?」
「“いまの私は、どこまでなら行ける?”」
千紗はペンを持ったまま、少し止まった。表面張力の膜が強いと、インクが落ちるまで時間がかかる。
「書いたら、責任が発生する気がする」
「責任は罰じゃない。次の一手の材料」
俺はカップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人で、感情を分業する。
「今日の主役、誰?」俺が聞く。
千紗はりんごをもうひと切れ、シャク。噛んでから答えた。
「コーヒー」
「怒り?」
「怒りっていうより……焦り。『行けるって言われたら行けよ』って急かしてくる」
「ほうじ茶は?」
「落ち着けって言う。『いつも通りで』って」
「紅茶は?」
「説明したい。上の人に、私の不安をちゃんと伝えたい」
「炭酸は?」
「笑って誤魔化したい」
「白湯は?」
「黙って抱えてる。重たいまま持ってる」
千紗は自分で言って、少しだけ笑った。「うわ、私、忙しい」
「忙しいなら分けるのが正解」
千紗は右側に、短く書いた。
『私は、行けると言われると、置いていかれそうになる』
その下に、もう一行。
『行きたい気持ちもある』
矛盾が、紙の上でちゃんと並ぶ。並ぶと、暗くならない。暗さって、混ざって絡まるときに出る。
「ねえ」千紗が言う。「置いていかれそうってさ、変だよね。任されるのに」
「任されるって、速度が上がるってことでもある」
「速度……」
千紗は椅子を少しだけ引いた。キュ。第三の動きが“距離”で調整する。近づきすぎると息が詰まる。離れすぎると孤立する。その中間を探す動き。
「行けるかどうかじゃなくて」俺は言った。「行き方を決めよう」
「行き方?」
「うん。たとえば“全部一人で”は、行けるの定義として禁止」
千紗が吹き出した。「禁止って言い切るの、あなたらしい」
「背中押す合図、鳴らす?」俺は鈴に触れた。
「鳴らして」千紗が言う。目が少しだけ潤んでるけど、落ちない。表面張力がいい働きをしている。
チリン。
「さぁ、行き方の候補」俺は指を一本立てた。「一。下書きだけ今週作る。完成は来週。期限を自分で二段にする」
「スリットが入る」
「二。上の人に“確認ポイント”を三つだけもらう。迷ったらそこに戻る」
「凹凸の手すりだ」
「三。『行ける』じゃなく『行くために必要なもの』を言語化してから返事する」
千紗はペン先をくるくる回した。先端をゆっくり、荒く。考える癖が出るときは、ちゃんと踏みとどまれてる。
「三、好き」千紗が言った。「“行けるでしょ”に、乗せられない感じがする」
「じゃあ三で」
「でもさ」千紗は眉を寄せる。「相手に不安を言うの、弱いって思われない?」
「弱いって思われるかも、はSURFACEの想像」
「中身は?」
「中身は、手順の共有。相手が楽になるやつでもある」
千紗は少し黙って、それから右側に追記した。
『私は、確認が三つあれば行ける』
そして、左側に小さく書いた。
『行けます(ただし手順あり)』
「ずるくない?」千紗が言って笑う。「“ただし”」
「ずるくない。仕様です」
「メーカー出た」
「うちのメーカーは、俺と千紗」
千紗の笑いが、ようやく炭酸寄りになった。軽い泡が出る笑い。逃げじゃない、助走の笑い。
そこで、玄関のほうから小さな鈴の音がした。チリン。
アンが、首輪の鈴を鳴らしながら歩いてきた。短い足で、堂々と。
「来た」千紗が顔をほころばせる。「応援団」
アンはテーブルの脚に頬をこすりつけてから、千紗の足元に座った。座り方が、もう家の猫だ。
「ねえ、アン」千紗が言う。「私、行けんのかな」
アンは「にゃ」と鳴いた。意味は分からない。でも、受信機は拾う。拾ったものを“合図”に変えるのが、うちの得意技だ。
「今の、たぶん“行け”」俺が真顔で言うと、千紗が笑った。
「都合よすぎ」
「都合よくしていい。都合よくしないと、都合悪い想像が勝つ」
千紗は立ち上がって、椅子をほんの一センチ、俺の方へ寄せた。キュ。第三の動きが“近づく”方向に働くと、言葉が柔らかくなる。
「ねえ」千紗が言う。「あなたはさ、私が“行ける”って言われるとき、どう思う?」
俺は即答しそうになって、一拍置いた。表面張力を乱暴に破らないための間。
「嬉しい」俺は言った。「千紗の力を見てる人がいるの、嬉しい」
「うん」
「でも、それと同じくらい、“行けるでしょ”に千紗が滑らされるのが嫌だ」
「滑らされる」
「そう。表面がつるつるだと、転ぶ」
千紗は頷いて、メモを指でトントンした。「じゃあ、滑り止めがこれだ」
「凹凸、って書いとく?」
「書いとく」
千紗は紙の端に小さく『凹凸』と書いた。刺さったときの手すりが、文字になってそこに残る。
「明日さ」千紗が言う。「上の人にこう言う。『行けます。確認ポイント三つください』って」
「いいじゃん」
「それで、もし“細かいな”って顔されたら」
「チッ」
「凹凸」
「一手」俺は言う。「『細かいのは、事故を減らすためです』って真顔で」
千紗が吹き出した。「真顔で言うやつ!」
「真顔は武器」
「刃物じゃない武器、また増えた」
俺は鍋を火にかけた。ごっちゃ煮スープ。質問より先に湯が出る。今日の温度を、今日のうちに整える。
湯気が立つ。表面。膜。中の熱が見える形。
千紗が鈴を手に取って、チリン、と鳴らした。
「さぁ」千紗が言う。「ごはん食べて、明日の手順、もう一回読む」
「読み合わせ、編集会議」
「うん。編集会議」千紗は笑って、アンの頭を撫でた。「私の“行ける”は、勢いじゃなくて、仕様で行く」
俺は頷いた。
“行ける”は、魔法の言葉じゃない。
薄い表面のまま使うと滑るけど、凹凸を付ければ、ちゃんと手すりになる。




