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名札のない子

 雨は、降っているというより「貼りついている」みたいだった。駅前の舗道の上に、薄い膜が一枚。歩くたびに靴裏がきゅ、と吸われて、ほどける。表面張力。今日の空気は、ずっとそれ。


「傘さしてるのに濡れるの、腹立つ」


 千紗が小さく言って、すぐに「チッ」と舌打ちした。ブザー。苛立ちを苛立ちのまま放置しないための合図だと、俺たちは訓練してある。


「凹凸?」と俺が聞く。


「うん、凹凸」千紗は傘の柄を握り直して、握り拳をほどいた。「いまのは、濡れたのに濡れてない顔をしようとした自分にチッ、ね」


 俺は頷いた。受信機は、相手の小さな叫びを拾う姿勢。拾ったら、すぐ背中を押す合図を出す。


 ポケットの中の小さな鈴を、指で鳴らした。チリン。


「さぁ、帰ろ」


 言い終わる前に、千紗が足を止めた。駅から少し外れた、コンビニの脇。自販機の陰。そこに、声があった。


 か細い声。鳴き声。ひと息ぶんの震え。


「……え、なに」


 千紗が傘を傾ける。雨の膜の下から、小さな塊が見えた。濡れた毛。丸くなった背中。目だけが、やたら大きい。


「猫?」


 俺がしゃがむと、その子は一瞬だけ身を引いた。逃げるほどの元気はない。震えが先に来てる。


「道の端で震えてるって、さ」千紗が言いかけて、唇を噛んだ。「今、歌詞みたいって思った?」


「思ったけど、言うと軽くなるから黙った」


「えらい」


 千紗はそう言って、自分の傘を俺の背中に寄せた。第三の動き。椅子じゃないけど、“角度”で空気を動かすやつ。雨の線を、俺たちの外側へ押しやる。


 子猫は、俺の手の匂いを嗅いで、鼻先だけちょん、と触れた。触れた瞬間、俺の中で何かが「決まる」音がした。鈴じゃなく、もっと静かな音。


「抱っこする?」千紗が訊く。


「うん」


 俺はそっと両手を差し入れて、包むみたいに抱き上げた。軽い。軽すぎて怖い。でも、怖さを暗くしない。怖さは、手順で扱う。


「冷たい」千紗が言う。「タオル買お」


 コンビニで一番安いタオルを買って、袋ごと破って、子猫を包んだ。包まれた瞬間、子猫はふっと力を抜いて、目を閉じた。眠りに落ちるみたいに。雨の表面張力の膜から、いったん外へ出たんだと思う。


「名前、どうする?」


 千紗が、やけに真面目な声で言った。まだ家に着いてもいないのに。


「名札、ついてないね」


 子猫の首元を覗く。何もない。情報がない。空白。リオみたいな言い方が頭をよぎって、俺はその連想をそっと棚に置いた。今は街じゃない。うちだ。


「unknownだ」俺が言う。


「unknownって呼ぶの?」千紗が笑う。「それ、ちょっと格好つけすぎ」


「じゃあ、仮でいい。仮の呼び名」


 千紗は子猫の顔を覗き込んで、しばらく黙った。受信機が、今度は千紗側に向いている。彼女の“決める前の沈黙”は、だいたい大事。


「……“名札のない子”」千紗が言った。


「長い」


「長いけど、今日はそれが正しい」


 俺は頷いた。正しさは短さじゃない。


 家に着く頃には、子猫は少しだけ温まっていた。タオルの中で、呼吸が小さく上下する。俺は玄関で靴を脱ぎながら、千紗に目で訊いた。


 どうする?


 千紗は椅子を一センチずらすみたいに、ほんの少しだけ肩をすくめた。ゼロか百かにしない手順の合図。


「……とりあえず、今夜だけ。ね」


 保留。消さない。逃げない。今日だけ、っていう居場所。


「了解」


 俺は鈴を鳴らした。チリン。「さぁ、やることリスト」


 やることは、妙に具体的だった。箱を探す。毛布を敷く。水を用意する。ごはんは、まず無理にやらない。体温を上げる。明日、病院。


 俺たちは、こういうときに強い。感情で走るより、手順で落ち着く。手順は、愛の形を保つための表面張力だ。


 子猫を段ボールに寝かせて、千紗が膝を抱えたまま見下ろす。


「ねえ」千紗が言う。「こういうの、私、弱い。すぐ百になる」


「だから凹凸」


「凹凸」千紗は言って、息を吐いた。「私、いまコーヒーが暴れてる。『連れてきたなら責任取れ』って」


 内なる五人。俺は台所からコップを五つ持ってきた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。夜なのに、やる。こういうときほど必要。


「白湯は?」俺が聞く。


「抱える係。黙って座ってる」千紗は段ボールの縁を指でなぞった。スリットみたいに細い溝。「紅茶は、説明したい。『この子はこうで、だからこうする』って」


「ほうじ茶は?」


「落ち着けって言ってる」


「コーヒーは?」


「怒ってる。置き去りにした世界に」


「炭酸は?」


「……笑って逃げたい。でも逃げない」


 千紗は言い終えて、りんごのことを思い出したみたいに目を上げた。


「食感、要る」


「うん、シャクだ」


 俺はりんごを切って、厚めに皿へ置いた。噛む回数が、思考をほどく。


 千紗がひと切れ噛む。シャク。


 音が明るい。部屋に戻ってくる音。


「ねえ、名札のない子」千紗が段ボールに向かって囁く。「あなた、どこから来たの」


 子猫は目を開けて、千紗を見た。警戒というより、確認みたいな目。ここは安全か? ここは続くか?


 俺の中で、また小さくブザーが鳴った。チッ。これは、千紗が“強がって軽く扱おう”とする気配への警報。


 ブザー→凹凸→一手。


「千紗」俺は言った。「“今夜だけ”って言ったけど、明日も連れてくよね。病院」


「うん」千紗は頷いた。「それは、決めてる」


「じゃあ“今夜だけ”は、今夜の不安の扱い方だ」


「……うん」


 千紗は笑って、少しだけ頬を緩めた。「あなた、そういう線引き、うまい」


「線は引き直せる。椅子と同じ」


 翌朝、雨は止んでいた。舗道の膜だけが残って、昨日の出来事が“夢じゃない”って証明してくる。


 動物病院の待合室で、子猫はタオルの中から細い声を出した。千紗は椅子に座ったまま、膝の上のタオルに手を置く。第三の動きは、今日は“手”だった。


「名前」獣医さんがカルテに書くために聞いた。「なんて呼んでます?」


 千紗と俺は目を合わせた。ここで答える言葉は、仮でも“登録”になる。


「……unknown」俺が言いかけて、千紗が顔をしかめた。


「それはやめよ」


「じゃあ、どうする」


 千紗はタオルの端をつまんで、子猫の顔を少しだけ出した。丸い目。鼻先。小さく震える口。


「あなた、教えてくれないんだもんね」千紗が優しく言った。「だから、仮の名札。うーん……」


 千紗が迷うとき、だいたい紅茶が働いている。言葉を選ぶ。熱をやけどにしない温度で出す。


「アン、ってどう?」千紗が言った。「短くて、呼びやすい。…unknownに“案”をつける、みたいな」


 俺は笑った。「うまいこと言う」


「うまいことじゃない。実用」


 獣医さんがペンを止めて、にこっとした。「アンちゃんね」


 その瞬間、子猫が小さく「にゃ」と鳴いた。肯定なのか偶然なのかは分からない。でも、“受け取る姿勢”があると、偶然も合図にできる。


 診察は、意外なくらい明るく終わった。衰弱はしてるけど致命的じゃない、少しずつ食べさせて、薬を少し。帰り道、千紗が深く息を吐いてから、言った。


「よかった……」


「凹凸?」


「凹凸」千紗は笑う。「さっきのは、刺さったじゃなくて、ちゃんと握れた、のほう」


 家に戻ると、アンは段ボールから出て、部屋の隅を慎重に歩いた。ソファの下、棚の影、カーテンの裏。線を引くみたいに、自分の安全地帯を探す。見えないスリットを、ひとつずつ。


 千紗は椅子を少し動かして、アンの視線の先から外れた位置に座った。追い詰めない角度。ゼロか百かにしない距離。


「賢い」千紗が言った。「表面だけじゃない。ちゃんと、下の層で計算してる」


「SURFACE、だな」


「うん。表面張力って、守るための力でもある」


 アンは、壁で爪をといだ。シャリ、と小さな音。千紗の眉がぴくっと動く。ブザーが鳴りそうになる。


「チッ」千紗が言いかけて、途中で止めた。


 自分で止めた。えらい。


「凹凸」俺が先に出すと、千紗は笑って頷いた。


「凹凸。……壁は、後で直す。いまは一手」


「一手?」


 千紗はポケットから小さな鈴を出して、アンの前で鳴らした。チリン。さぁ。


「こっち」千紗が言って、爪とぎ用の段ボールを床に置く。「ここでお願い。私の壁、あなたの武器にされたくないから」


 言い方が、優しいのに境界線がある。千紗は“愛の実用”が上手い。言葉に棘を仕込まず、でも言わないわけでもない。


 アンは段ボールの爪とぎを嗅いで、ためらってから、そこで爪を立てた。シャリ、シャリ。千紗が「よし」と小さくガッツポーズをした。


「ほら、背中押したら動く」千紗が俺を見る。「鈴、武器」


「刃物じゃない武器、増えたな」


「増やしてこ」


 その日の夜、アンは初めて、ごはんをちゃんと食べた。千紗はりんごを切って、俺たちもシャクで区切った。食感で割ると、喜怒哀楽が混ざらずに並ぶ。


「ねえ」千紗が言う。「アンってさ、呼ぶたびに、質問みたい」


「質問?」


「うん。『アン?』って。…and you? みたいに」千紗は笑う。「あなたは?って、毎回聞いてるみたい」


 俺はその感覚が好きだった。名札のない子に、毎回“あなたは?”と問いかける。決めつけない。急がない。表面張力で包んで、落ち着くまで待つ。


 アンは、食後にテーブルの脚に頬をこすりつけた。木目の線に沿って、ゆっくり。スリットをなぞるみたいに。第三の動きは、今日もちゃんと働いている。


「さぁ」俺は鈴を鳴らした。「今日の締め」


「何の?」千紗が笑う。


「五人の点呼」


 白湯は、よくやった、と黙って座る。紅茶は、明日の手順を言葉にしたがる。ほうじ茶は、いつも通りを取り戻して喜んでる。コーヒーは、まだ少し怒ってるけど、怒りの行き先が“守る”に変わってきてる。炭酸は、笑っていいよって泡を立てる。


 千紗がアンを見て、小さく言った。


「ねえ、名札のない子。…アン」


 アンは「にゃ」と鳴いて、千紗の足元に座った。座り方が、やけに堂々としていて、千紗が吹き出した。


「もう住んでる顔してる」


「住んでいいよ」俺は言った。言ってから、軽く照れた。「……とりあえず、今日も」


「今日も」千紗が復唱して、椅子をほんの一センチ、俺の方へ寄せた。キュ。近づく方向の第三の動き。


「いつも通り、更新」千紗が言った。「アンが増えた分」


 俺は頷いて、アンの首元に新しい首輪を当てた。名札はまだ付けない。焦らない。名札のない部分が、アンのままで、うちのままでもあるから。


 鈴だけは付けた。チリン。


 背中を押すためじゃない。

 ここにいるって、互いに確認するための音。

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