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表面張力の返事

 千紗が帰ってきたのは、夜八時すぎだった。玄関の鍵が回る音がして、いつもなら「ただいまー」と伸びる声が、今日は少しだけ短い。


「おかえり」


 俺がそう言うより早く、千紗が先に言った。


「アイムファインセンキューアンジュー?」


 英語の教科書みたいな発音。しかも疑問形。帽子のつばを指で弾くみたいに、軽い。


 でも、軽いときほど、俺の“受信機”は耳を澄ませる。小さな叫びって、声量じゃなくて“間”に挟まってる。


「……うん?」


「ほら。とりあえずの返事」千紗は靴を脱ぎながら笑う。「今日の私、そういう感じ」


 笑ってるのに、目が笑ってない。いや、笑って“ない”と言い切るのは乱暴だ。笑ってる。ただ、表面張力が強い。中身が溢れないように、ぎゅっと薄い膜が張ってる。


 俺は台所の火を止めた。ごっちゃ煮スープの鍋から、湯気がふわっと立つ。質問より先に湯が出る。うちも、石鳩亭みたいになってきたな、と一瞬思う。


「スープ、あっため直す?」


「ん。……その前に、椅子、ずらしていい?」


 千紗はリビングの椅子を、ちょっとだけ角度を変えた。ほんの数センチ。椅子が床を擦って「キュ」と鳴る。


 それが、今日の第三の動きだった。


 ゼロか百かにしないための、手順。椅子ひとつ動かすだけで、空気の線が引き直される。俺はその“線”を見逃さないようにしてる。線の引き直しは、だいたい「言葉にする準備」が整った合図だからだ。


「どした、千紗。……凹凸?」


 合言葉は、刺さったときの手すり。転ばないためじゃない。転びそうな自分を、ちゃんと掴むための突起とくぼみ。


 千紗はソファに座らず、椅子に腰掛けたまま、指でテーブルの木目をなぞった。スリットみたいに細い溝を、ゆっくり。


「うん、凹凸。……ねえ、今日さ。『大丈夫?』って聞かれてさ」


「うん」


「私、『大丈夫です』って言ったの。ほぼ自動で。アイムファインセンキューアンジュー?ってやつ」千紗は自分で言って、自分で苦笑いした。「で、相手も『そっか』で終わった」


 俺はうなずくだけにした。受信機は、拾うけど、すぐに答えを返さない。拾ったものを落とさないように、両手で支える時間を作る。


「終わったのに、終わってなくてさ」千紗は息を吐く。「帰り道、ずっと、口の中が乾いてた。『大丈夫』って言った口が」


「乾くやつ、あるよな」


「ある。あれさ、表面だけ乾く。中はまだ、熱いのに」


 表面。SURFACE。俺は胸の中で単語を転がした。表面って、薄いくせに強い。水の上をアメンボが歩けるくらいには。


 俺は冷蔵庫からりんごを出した。丸ごと一個。包丁じゃなく、皮むき器を取る。刃物は料理のため。俺たちの“武器”は別だ。


「食感で割る?」俺が訊くと、千紗は少しだけ目を上げた。


「……シャク、したい」


 俺はりんごを切って、皿に並べた。ひと口サイズ。シャク。音が鳴るやつは、気持ちを区切れる。心がひとつの塊でいるときって、だいたい危険だ。噛んで割って、言葉が通る隙間を作る。


 千紗がひと切れ取って、噛んだ。


 シャク。


 その音が、部屋の空気に一本の線を引いた。表面張力の膜に、小さなスリットが入る。


「ねえ」千紗が言う。「私さ、頑張ってる、って言いたいわけでもないの。むしろ逆。頑張ってるって言うと、頑張らなきゃいけないみたいで嫌で」


「うん」


「でも、大丈夫って言うのも、違う。……違うっていうか、雑」


 千紗はりんごをもう一切れ。シャク。


「雑な返事って、便利だよね。表面だけ整ってる。手触りがいい」


「手触りがいいと、みんな安心する」


「そう。安心させたいわけじゃないのに」


 千紗が、椅子の背を指でトントンと叩く。カツ、カツ。小さな苛立ちの音。


 俺の中で「チッ」が鳴った。ブザー。いまのは、俺の苛立ちじゃない。見逃しそうな危うさへの警報だ。


 ブザー→凹凸→一手。


 俺はテーブルの端に置いてある、小さな卓上ベルを指で押した。


 チン。


 鈴じゃないけど、うちではこれが「さぁ」だ。背中を押す合図。武器は、攻撃じゃなくて、前に進むための音。


「さぁ」俺は言う。「五人、呼ぶ?」


 千紗は肩をすくめた。「今日は、誰が主役?」


 俺はコップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人は、感情整理の係。


「白湯は、今、黙って抱える係。紅茶は、言語化。ほうじ茶は、落ち着き。コーヒーは、怒りの燃料を“用途別”に分ける係。炭酸は……笑いと逃げ道」


「炭酸、欲しい」千紗が言って、少しだけ笑った。膜が、また少し薄くなる。


 俺は炭酸の缶を開けた。プシュ。泡の音が、表面張力を壊す音に聞こえた。


「今日の『大丈夫』、どれが言った?」俺は訊いた。


 千紗は炭酸を一口飲んで、舌の上で泡を転がすみたいに考えた。


「……ほうじ茶。たぶん。落ち着いてる風のやつ」


「ほうじ茶は優秀だな」


「優秀すぎるの。人前だと勝手に出てくる」


「じゃあ、いま出てきてないやつ、誰?」


 千紗はりんごを指でくるくる回した。先端をゆっくり、荒く。癖が出る。ああ、今日の千紗は“癖”が出てる。つまり、保ってる。


「コーヒー」千紗が言った。「怒ってる。たぶん」


「誰に?」


「……自分に」


 言った瞬間、千紗の眉がほんの少しだけ寄った。自分を責めるときの、あの線。


 俺はテーブルの上に、メモ用紙を一枚置いた。ペンで真ん中に一本、まっすぐ線を引く。


「左がSURFACE。右が、下書き」俺は言う。「『大丈夫』は左。右に、本当の下書き、書いてみる?」


 千紗はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。表面張力の強い水は、紙に落ちるまで時間がかかる。


「言葉にすると、責任が発生する気がする」千紗が小さく言った。


「発生する。でも、責任ってさ、罰じゃない」俺はベルをもう一度鳴らした。チン。「さぁ。責任は、次の一手の材料。凹凸の突起」


 千紗がふっと息を吐いて、ペン先を紙に置いた。右側に、短い文。


『私は、今日、雑に扱われた気がした』


 その下に、もうひとつ。


『雑に返した自分も、嫌だった』


 千紗は書いたあと、すぐにペンを離した。まるで熱い鍋に触ったみたいに。


「言った……」


「言えた」俺は言い換えた。


 千紗は頬をふくらませて、炭酸を一口。ぷくっと泡がはじける。


「ねえ、私さ。ちゃんと怒りたかったんだと思う。相手に、っていうより、状況に。なのに、ほうじ茶が出てきて、『大丈夫です』って……」


「丁寧なほうじ茶」


「そう。丁寧に自分を雑にする」


 千紗が笑って、でもすぐに目を伏せた。その笑いは炭酸。逃げ道の味。


 俺はスープをよそって、湯気の向こうに千紗の顔が揺れるのを見た。湯気も表面。熱いものが、やわらかく見えるための膜。


「千紗」俺は言う。「今日の一手、決めよ。ゼロか百かにしないやつ。椅子をずらしたみたいな、数センチ」


「一手……」


「たとえば、次に『大丈夫?』って聞かれたら、『大丈夫……の表面だけです』って言うとか」


 千紗は吹き出した。「何それ、変な日本語!」


「変でいい。変なスリットが入ると、相手も『あ、これは続きがある』って気づく」


「続きがある……」千紗は指で紙の線をなぞった。「続きって、言っていいんだ」


「言っていい。俺には、言ってほしい」


 千紗はスープを一口飲んで、目を閉じた。「あ、これ好き」


「ごっちゃ煮、万能」


「万能って、雑でもある」千紗が言って、また笑った。「でも、これはいい雑。ちゃんと、具がいる」


「具がいる」


「うん。今日の私の『大丈夫』は、汁だけ。具が入ってない」


 千紗はりんごを最後のひと切れ。シャク。音が軽い。膜が薄い。


「ねえ」千紗が言う。「私、明日、あの人に言ってみる。『昨日の返事、表面だけでした』って」


「いいじゃん」


「怖いけど」


「凹凸」


「凹凸」千紗は復唱して、肩の力を落とした。「それで、もし変な空気になったら、炭酸で逃げる」


「逃げ道、大事」


「うん。ゼロか百かにしないために」


 千紗が椅子を少しだけ引いて、俺の方に体を寄せた。椅子がまた「キュ」と鳴る。第三の動きが、今度は“近づく”方向に働く。


「ねえ、さっきの質問、返していい?」千紗が言った。


「さっきの?」


「アイムファインセンキューアンジュー?のやつ。……あなたは?」


 千紗の目は、もう笑ってた。表面だけじゃなく、ちゃんと中の温度も乗ってる笑い。


 俺はベルに触れて、押さずに、指先だけ置いた。合図は、いつでも鳴らせる場所にあるだけでいい。


「俺は」俺は言った。「アイムファイン。……で、アンジューは、千紗が決めて。続きがあるなら、聞く」


 千紗は少し考えてから、口の端を上げた。


「じゃあ、アンジューは、『いまは具が欲しい』」


「了解」俺はうなずいた。「具、追加します」


「スープに?」


「話に」


 千紗は笑って、今度はちゃんと声を出した。「ずるい、そういうの」


「ずるいのは武器です」俺は真顔で言ってから、わざとベルを鳴らした。チン。「さぁ」


 千紗が、肩をすくめて立ち上がる。「さぁ、食べよ」


 台所に向かう背中が、さっきより軽い。表面張力の膜は、割れたわけじゃない。必要なときは、また張ればいい。


 ただ、膜の下に“具”があるって、二人とも知った。


 それだけで、明日の返事の発音は、少し変わる。

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