逃げ足の速い心を抱き直す
千紗が帰ってきたとき、いつもの「ただいま」はあった。
でも、間に“うさぎ”が挟まっていた。
「ただいま。……ねえ、見て」
千紗はコートも脱がずに、鞄の横ポケットから何かを取り出して、テーブルに置いた。
小さな、白い――うさぎのキーホルダー。スーツ姿のうさぎ。妙に真面目な顔。
「……なにこれ」
「今日、私に乗り移った人」
「憑依系?」
「うん。RABBIT-MAN」
言い切りが強い。
強い言い切りは、たいてい疲れの裏返しだ。
受信機が、ピッと点灯する。
「刺さった?」
千紗は頷いた。目の下の薄い影が、今日は“走り回った影”になっている。
「刺さった。というか、跳ねた。ずっと跳ねてた。
仕事でね、私、今日ずっと“ぴょんぴょん”してた」
「ぴょんぴょん」
「一個終わらせる前に次。次の前にまた次。
『これ見て』『今こっち』『あ、それより先に』って、
走るんじゃなくて、跳ぶ感じ」
跳ぶ。
走るよりも、着地が雑になる。
着地が雑だと、心の足首がぐねる。
チッが舌先まで来た。
俺は歯の裏で止める。今日は外に出すと、跳ねた千紗に跳ね返る。
チッ=ブザー。凹凸。
「凹凸」
千紗も小さく「凹凸」と言って、やっとコートを脱いだ。
脱ぐ動作が、少しだけ丁寧。第三の動きの芽。
「で、そのラビットマンがこれ?」
俺がうさぎのキーホルダーを指差すと、千紗は頷く。
「後輩がくれた。
『千紗さん今日、ウサギみたいでした』って」
「褒めてるのか、それ」
「褒めてない。心配。
私、跳ねすぎて、語尾が“はい!はい!はい!”になってたらしい」
想像できてしまって、少し笑いそうになる。
でも、今日はギャグに寄せすぎると千紗が置いていかれる。
俺はテーブルに鈴を置いた。ちりん。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。ラビットマンを捕まえよう」
「捕まえる?追いかけるの?」
「追いかけない。
追いかけると余計跳ねる。
捕まえるのは“椅子”」
「椅子」
「うん。跳ぶ二択にしない。
跳ぶか止まるか、じゃなくて、“座る”を足す」
俺は椅子を一脚、テーブルの横に置いた。正面じゃない角度。
追い詰める配置にしない。
千紗の“着地”を受ける角度。
「座る前に」と千紗が言った。「今日のラビットマン、何が怖かったか言っていい?」
「聞く。受信する」
「私ね、止まったら置いていかれる気がした。
よーいドンのドンが鳴り続けてて、
止まったら負け、みたいに」
その言葉で、今日のうさぎの正体が見えた。
速さじゃない。“置いていかれる恐怖”が跳ねている。
「じゃあ、止まる練習じゃなくて、“着地の練習”にしよう」
「着地」
「うん。
跳ねてもいい。跳ねるのが悪いんじゃない。
着地がないのが怖い」
千紗は少し考えて、椅子に座った。
座れた。よし。
スーツのうさぎが、テーブルの上でこっちを見ている。
俺は冷蔵庫からりんごを出してきた。
今日も、食感で割る。
「シャク、いる?」
「いる。跳ねた日は特にいる」
千紗がかじる。
シャク。
音が、頭の中のぴょんぴょんにスリットを入れる。薄い隙間。そこから息が入る。
「ねえ」と千紗が言う。「ラビットマンってさ、悪いやつじゃないんだよ」
「うん。守ろうとしてる」
「そう。守ろうとして、跳ぶ。
だから余計、止め方が分からない」
俺の中の五人が、いつもの席に座った。
白湯が「まず息」と湯気を立てる。
紅茶が「言葉を整えよう」と指を立てる。
ほうじ茶が「焦げる前に火を弱めろ」と眉を下げる。
コーヒーが「手順で潰せ」と腕を組む。
炭酸が「ぴょーん!」と泡を飛ばす。今日はお前がラビットだろ。
「よし。手順にする」と俺が言うと、千紗が少し身構えた。
「また手順」
「手順は手すり。凹凸と同じ。
“ラビットモード”の取扱説明書を作る」
俺はメモを出して、書き始める。
『RABBIT-MODE 取扱説明書
1) ブザー:チッ(跳ね始め)
2) 合言葉:凹凸(手すり)
3) 着地:椅子(第三の動き)
4) 線:次の一歩だけ決める
5) スリット:三分の余白
6) 合図:鈴
7) 食感:シャク(りんご)』
「線ってなに」
「“次の一歩だけ”」
「全部じゃない?」
「全部決めようとすると、うさぎは跳ぶ。
だから一歩だけ。ドンは最初の一歩、って決めたろ」
千紗は頷いた。
今日の“よーい”が少し戻ってくる顔。
「じゃあ、今日のラビットマン、どこで跳ね始めた?」
「午前の会議。
『これ今日中』が二つ来て、
その直後に『急にクライアント来るから資料見せて』が来た」
「三連ぴょん」
「うん。
で、私は“全部やる”って言ってしまった」
“全部やる”は、うさぎにニンジンを十本見せるのと同じだ。
飛びつく。噛む。息が切れる。
「次の一歩だけ、なら?」
俺が聞くと、千紗はりんごをもう一口。シャク。
それから、ぽつり。
「……『今から十五分、どれを優先すればいいですか』って聞けばよかった」
「それ、線。
それが言えたら、うさぎは走路をもらえる。跳ばなくて済む」
「でも、聞くと“遅い”って思われるかも」
「そこに椅子」
「椅子?」
「“遅い”と“速い”の黒か黒かにしない。
“確認して速くする”って第三の動きにする」
俺は短い台詞を一つ書いた。
『台詞:
「速く出すために、優先順位だけ確認させてください」』
千紗がそれを見て、少し笑った。
沈まない笑い。いい。
「言えるかも」
「言える。稽古しよう」
鈴を鳴らす。ちりん。
「さぁ。ラビットマン稽古」
千紗は照れた顔をして、でも頷く。
照れは沈みじゃない。戻りの合図。
俺は上司役の声を作る。ちょっとだけ大げさに。
「千紗、これ今日中。あとこれも今日中。あ、それより今、資料見せて」
千紗の肩が一瞬だけ上がる。
跳ねそう。
俺は即座に言う。
「ブザー」
「凹凸」
千紗が合言葉を言って、呼吸する。
そして、ゆっくり言った。
「速く出すために、優先順位だけ確認させてください。
今から十五分、どれを先にしますか」
……着地がきれい。
うさぎが跳んでない。座ってる。
「完璧」と言いかけて、俺は言い方を整えた。
「すごく、しなやか。スプリングだ」
「スプリング」
「うん。押されたら沈むけど、戻るやつ」
千紗は自分で言って、自分で頷いた。
署名権が戻ってくる感じがする。
「でもさ」と千紗が言う。「現場って、うさぎが多いんだよね」
「多い」
「みんな跳ねてる。
跳ねないと置いていかれそう、って顔で」
「じゃあ、うちのラビットマンは“対策班”にしよう」
「対策班?」
「うん。跳ねるのを止めるんじゃなく、
跳ねた人を落とさない。受信機で拾う」
千紗は目を丸くする。
「私が拾える側?」
「拾える。
今日、後輩がキーホルダーくれたの、たぶん“拾おうとした”んだ。
『千紗さん、危ない』って」
千紗はスーツうさぎを手に取って、指先で耳を撫でた。
耳が長い。受信機みたいだ。
「ラビットマンって、耳がいいんだよね」
「そう。耳がいい。
だから、拾い方を覚えれば強い」
俺はメモの端に書き足した。
『追加:ラビットマンの耳の使い方
・相手の「急いで」は不安の叫び(受信)
・「今どれ?」で線を引く
・「三分ください」でスリット
・鈴で自分に“さぁ”』
千紗は鈴を指で弾いた。ちりん。
「さぁ」
その一音で、部屋が“着地場”になる。
跳ねる外の世界から帰ってきた人が、ここで息を整えられる場所。
「最後に」と千紗が言った。「合言葉、増やしたい」
「いいね。短いやつ」
千紗は少し考えて、りんごをもう一口。シャク。
そして言った。
「……『着地』」
「そのまま?」
「うん。
跳ね始めたら『着地』って言う。
“止まれ”じゃなく、“座れ”でもなく、
“着地”。戻る場所があるって言葉」
俺は笑って、鈴を鳴らした。ちりん。
「最高。合言葉、着地」
「着地」
「凹凸」
「凹凸」
「さぁ」
「さぁ」
千紗はスーツうさぎをテーブルの端に置いた。真ん中じゃない。
生活の真ん中に仕事の跳ね癖を座らせないための配置。
「ねえ」と千紗が言う。「明日も跳ねるかも」
「跳ねる。たぶん」
「でも、着地はできる?」
「できる。
追いかけないで、椅子を置く。
線を引く。スリットを作る。
シャクして、鈴を鳴らす」
千紗は最後に小さく笑った。
「うちのラビットマン、意外と頼れる」
「うん。耳がいいからな」
外の世界でぴょんぴょん跳ねた心は、家で着地できる。
その着地があるだけで、明日の跳躍は、怖くなくなる。




