スタートを揃えない勇気
玄関のドアが開いた音より先に、足音が近づいてきた。
千紗の足音はいつもより速い。速いのに軽くない。
速さで自分を押してる日だ。
「ただいま!」
声が高い。
高いのに、顔が笑ってない。
“よーいドン”の「ドン」だけが先に鳴ってる。
受信機が、ピッと点灯する。
「おかえり。刺さった?」
俺が言うと、千紗は一瞬だけ口をつぐんで、それから笑った。流す笑い。
「刺さったというか……今日、何回もスタート切らされた」
「よーいドン?」
「そう。
『よーい』を言わずに『ドン』だけ。
急に来る。急に決めろ。急に動け。
で、息を吸う前に走らされる」
千紗は靴を脱ぐ動作が雑になりかけて、途中で止めて揃えた。
第三の動き。雑になるか完璧にするかじゃない、「一度止めて整える」。
俺はテーブルに鈴を置いて、ちりんと鳴らした。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。うちでは“よーい”を増やす」
「増やす?」
「うん。
外のドンは止められないけど、家に帰ったら“よーい”を置ける。
“走ったこと”を無かったことにしないで、呼吸を戻す」
千紗はソファに座って、膝の上で指を組んだ。
指の先がわずかに白い。力が入ってる。
「今日さ、午前中に『これ今日中』が三回来た」
「三連ドン」
「うん。
で、午後に『方針変えたから最初から』が来て、
最後に『やっぱ戻す』が来た」
……ドンの連打は、体力じゃなく心の足首を削る。
ぐねる。スプリングが必要な日だ。
チッが舌の裏に浮いた。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「凹凸」
千紗も小さく「凹凸」と言った。
合言葉が揃うと、足場ができる。
「今日のドン、何番?」
「フラストレーション?……No.4。
五まではいってないけど、ずっとカウントダウンしてた」
「じゃあ今夜は、五になる前に“よーい”を挟む」
俺は冷蔵庫からりんごを出して、テーブルに置いた。
食感で割る。今日も万能。
「シャク、いる?」
「いる」
千紗がかじる。
シャク。
音が、ドンの残響を割る。
割れ目から、息が入る。
「ねえ」と千紗が言った。「よーいドンって、楽しい言葉のはずなのに、
今日は怖かった」
「スタートが怖い日、ある」
「私、遅れるのが怖いから走っちゃう。
でも走ると、息が切れて、次のドンで転びそうになる」
転びそう。
そこに椅子が要る。第三の動き。
走るか止まるかじゃない“歩く”。
「じゃあ、よーいドンを再定義しよう」
「また再定義」
「再定義が好きなんだ、うちは」
俺は紙に書いた。
『よーいドン(うち版)
・よーい=呼吸/線引き/確認
・ドン=最初の一歩(全部じゃない)
・途中で止まっていい(椅子)
・刺さったら凹凸
・合図は鈴』
千紗はそれを見て、少し笑った。
沈まない笑い。戻ってきた笑い。
「よーい=呼吸っていいね」
「うん。
外では『ドン』が先に鳴る。
だから家で“よーい”を後付けする。
走った後にでも、よーいを置いていい」
「後付けのよーい」
「最高の発明」
千紗が眉を上げる。
「でもさ、現場での“よーい”はどうやって作るの」
「一言でいい。短い“よーい”」
俺は鈴を指で弾いた。ちりん。
「さぁ。台詞を作ろう」
千紗は少し身構えた。稽古の顔。
「例」
「『確認させてください』」
「いつもの線引き」
「うん。
ドンの前に一秒作る言葉。
それが“よーい”」
千紗は頷いた。
「他には?」
「『三分ください』」
「椅子」
「そう。第三の動きの言葉。
よーいは、息を吸うための椅子でもある」
千紗はりんごをもう一口。シャク。
そして言った。
「……『今の優先順位、どれですか』も、よーい?」
「よーい。線を引くよーい。
走るコースを決める」
「コース」
「うん。
走るのが悪いんじゃない。コースがないのが悪い」
千紗は深く息を吐いた。
さっきまで浅かった呼吸が、少しだけ深くなる。
よーいが効いてる。
「ねえ」と千紗が言った。「私、スタートが揃ってないと不安になるんだよね」
「揃ってないと?」
「みんな一斉に走ってるのに、私だけ遅れたら置いていかれそうで」
これは、ふたりの話に似てる。
“正解の塊”に合わせさせられる怖さ。
だから、ここも再定義だ。
「スタートは揃えなくていい」
「え」
「うちのよーいドンは、スタートが各自。
同じレーンじゃない。
合流地点だけ決める」
「合流地点」
「うん。
今日なら“18時に骨子がある”とか。
そこに間に合えば、よーいの長さは自由」
千紗は少し考えて、頷いた。
「合流地点だけ決める……それなら走れる」
「走れる。
走ってもいいし、歩いてもいい。
スプリングで戻れる」
千紗が鈴を手に取って、ちりんと鳴らした。
「さぁ」
「さぁ」
「じゃあ今日の締め」と千紗が言う。「合言葉、増やす?」
「増やそう。短いやつ」
千紗はりんごを最後に一口。シャク。
そのあと、ぽつりと言った。
「……『よーい、息』」
「いい。
ドンが来たら、“よーい、息”って言う」
「よーい、息」
「凹凸」
「凹凸」
俺は冷蔵庫から炭酸を取り出した。ぷしゅっ。
炭酸が泡を立てる音が、スタートのピストルじゃなく、終わりの笛みたいに聞こえた。
「乾杯する?」
「する。今日は走ったから」
千紗は一口飲んで、少し顔をしかめた。
「強い」
「強いのが好きなんだろ。ヤワじゃないだろう」
「それはもう言わないで」
「はいはい」
千紗は笑って、ソファにもたれた。
“ドン”の姿勢じゃなく、”よーい”の姿勢。
外では今日も、よーいなしのドンが鳴る。
でも家に帰れば、後付けのよーいが置ける。
それだけで、スタートは怖くなくなる。
怖くなくなると、明日のドンも、少しだけ軽い。




