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人生の署名権を取り戻す

 玄関の鍵を回した瞬間、千紗の笑い声が聞こえた。

 明るい。軽い。…けど、軽すぎる。

 あれは“楽しい笑い”じゃなく、“流す笑い”だ。


 受信機が、ピッと点灯する。


「ただいま」


「おかえり。ねえ、今日さ、すごいよ」


 千紗はソファに座って、スマホを片手に笑っていた。

 笑っているのに、目が笑ってない。目だけが、ずっと現場に残ってる。


「なにがすごい」


「人生、勝手に決められかけた」


 言葉が強い。強いのは、強く言わないと折れそうなときだ。


 チッが舌先まで来た。

 俺は歯の裏で止める。


 チッ=ブザー。凹凸。


「誰に?」


「親戚。電話。

 『そろそろ家買うんでしょ?』って」


「……買う予定あったっけ」


「ない。

 なのに、ある前提で話が進むの。

『駅から何分がいい?』とか、『子ども部屋は二つ?』とか。

 なんか、私の人生の見取り図を勝手に描かれてる感じ」


 千紗の眉間に、細い線。

 線は握れる。でも今の線は“縛り”だ。

 ほどくには、別の線が要る。


「千紗、今、何番?」


「フラストレーション?……No.4。五に行く一歩手前」


「じゃあ止めよう。五番にしない」


 俺はテーブルの上に鈴を置き、ちりんと鳴らした。

 武器。刃物じゃない。背中を押す合図。


「さぁ。今日は“MY”を言い直す」


 千紗が眉を上げる。


「MY?」


「MY LIFE。

 人生の署名権は本人だけが持ってる。

 他人が勝手にサインしようとしたら、ペンを取り返す」


「ペンを取り返す……」


 千紗は笑いかけて、途中で止めた。

 笑いに寄せすぎない。今日は“取り返す”が本題。


 俺はキッチンから紙とペンを持ってきて、テーブルに置いた。

 それは契約書じゃない。

 でも、“線”を引く道具。


「取調室?」


「違う。署名台」


「胡散臭い」


「今日だけ胡散臭くていい。

 人生に勝手に図面引かれたなら、こっちで線を引き直す」


 千紗は深呼吸して、紅茶のマグを両手で包んだ。

 温度を掴む。戻ってくる。


「で、どうやって線を引くの」


「三段階。

 1) 事実

 2) 選択肢

 3) 署名」


「署名?」


「“私はこうします”って、自分の言葉で終わらせる」


 千紗は少し考えて、言った。


「事実は…『家は買う予定ない』」


「うん。選択肢は?」


「……『買うとしても、今じゃない』」


「いい。署名は?」


 千紗は口を開いて、閉じた。

 言葉が出ない。

 ここで、ゼロか百かにしない椅子が要る。


 俺は椅子を一脚引いて、千紗の斜めに座った。真正面じゃない角度。追い詰めない。


「出ないなら、スリットを作ろう」


「スリット?」


「言葉の隙間。

 いきなり“私はこうする”は重い。

 まずは、“MY”を取り戻す短い合言葉」


 俺は紙に書いた。


『MY:私のタイミング』


 千紗が見て、少しだけ笑った。


「私のタイミング」


「うん。

 家買うのも、子ども部屋も、全部“私のタイミング”。

 他人のタイミングじゃない」


 千紗はゆっくり頷いた。

 縛りの線が、少しほどける。


 俺は冷蔵庫からりんごを出してきた。

 今日の万能道具。食感で割る。


「シャク、いる?」


「いる」


 千紗がかじる。


 シャク。


 音が、電話の向こうの勝手な設計図を破るみたいに響く。

 破っていい。

 設計図は本人が描く。


「でもさ」と千紗が言った。「親戚は悪気ないんだよ。

 心配してくれてるのも分かる。

 だから強く言うと、罪悪感が来る」


「罪悪感の回避も、手順にする」


「手順?」


「うん。強く言わないで線を引く言い方。紅茶の出番」


 俺は紙に書いた。


『線を引く台詞(柔らかい版)

 ・心配ありがとう。今は予定ないよ

 ・決めたら私から話すね

 ・今は仕事(生活)を整える時期

・今日はここまでにしよ。ごめんね』


 千紗はそれを読みながら、口の中で言葉を試した。

 声に出さなくても、舌が覚える。


「“決めたら私から話すね”っていいね」


「それ、署名に近い」


「署名…」


 千紗はりんごをもう一口。シャク。

 そして言った。


「……私の人生は、私が決める。

 決めたら、私から話す」


 言えた。

 言えた瞬間、部屋の温度が半度上がる。

 春みたいに。


 俺は鈴を鳴らした。ちりん。


「さぁ。署名完了」


 千紗が笑った。今度はちゃんと笑い。


「胡散臭い署名台、悪くない」


「人生は契約だからな。本人のサインがいる」


「じゃあ、あなたのMYは?」


 千紗が聞く。

 受信機が起動する質問。


 俺は少し考えた。

 今日、自分の生活も誰かに勝手に決められそうになっていたのを思い出す。

 上司の「できたら夜のうちに」みたいなやつ。

 他人のペンが、勝手に俺の予定表にサインしようとする。


「俺のMYは……『睡眠は俺が決める』」


「いいね。強い」


「強いけど、押し付けじゃない。自分の署名」


 千紗は鈴に指を伸ばし、ちりんと鳴らした。


「さぁ」


「さぁ」


「凹凸」


「凹凸」


 千紗はスマホを裏返してテーブルに置いた。

 電話の余韻を、ここで終わらせる動き。

 第三の動きが、生活を守る。


「ねえ」と千紗が言った。「私、今日、笑って流したけど、

 流した自分が嫌だった。

 でも…今は嫌じゃない。

 流さない線を持てたから」


「それでいい。

 流さないって、怒鳴ることじゃない。

 署名すること」


 俺は紙の端に、今日の合言葉を書いた。


『MY:私のタイミング』


 冷蔵庫の磁石で貼る。

 毎日見える場所に。

 世界が勝手に図面を引いてきても、ここで線を引き直せるように。


 千紗が最後に言った。


「私の人生は、私の人生」


 俺は鈴を鳴らして返した。


 ちりん。


「さぁ」

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