まだの肯定
玄関を開けた瞬間、空気が走ってきた。
足音じゃない。気配が走る。
こういうとき、受信機は勝手に周波数を合わせる。
「おかえり!」
千紗の声がいつもより高い。高いのに軽くない。
テンションが上がってるんじゃなく、上げてる。
その違いは、だいたい眉間に出る。
「ただいま」
「ねえ、聞いて」
千紗はキッチンからリビングへ、何かを抱えたまま歩いてきた。封筒。薄い紙束。
“持ち帰ってきた”の匂いがする。
テーブルに置かれた封筒の表には、太い字でこう書いてある。
『差し戻し』
……来たな。
世界の「まだまだ」を、遠慮なく投げつけてくるやつ。
チッが舌先まで来た。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「刺さった?」
千紗はうなずいた。でも目はもう泣きそうじゃない。怒ってる。
怒ってるのに、崩れてない。バランス取ってる怒り。
「刺さった。
今日ね、上司に言われたの。
『まだまだだね』って」
言葉は短いほど、刺さりやすい。
しかも“まだ”っていう、先が見えない刃。
「何が、まだまだ?」
「プレゼン。資料。
作り直し。方向から」
千紗は息を吐いて、椅子に座った。今日はちゃんと座れる。
でも指先が封筒の角をいじっている。紙の端を噛むみたいに。
「『まだまだだね』ってさ、言い方がさ」
千紗は言葉を探しながら、眉間に線を作る。
線は握れる。けどいまは、線が鋭い。
「どんな言い方だった?」
「笑いながら。軽く。
“悪気ない”って顔で」
悪気ない顔の刃物。
BLACK or BLACKの親戚。
“どっちでもいい”と同じで、責任だけ残す。
俺はテーブルの上に鈴を置き、ちりんと鳴らした。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。今日の“まだまだ”を、敵にしない」
千紗が眉を上げる。
「敵じゃないの?」
「敵にすると疲れる。
でも“味方”にすると甘える。
だから第三の動き。椅子を置く」
「椅子」
「うん。“まだまだ”を、ただの判定じゃなく、手順にする」
千紗は封筒を開けて、中身を少しだけ見せた。
赤ペンの跡。付箋。矢印。
そして一番上の紙に、でかい字。
『まだまだ』
俺は深呼吸して、りんごを取り出した。
今日もシャク。食感で割る。
「割る?」
「割る」
千紗がりんごをかじる。
シャク。
音が、赤ペンの海にスリットを作る。薄い隙間。
そこから呼吸が入る。
「ねえ」と千紗が言った。「“まだまだ”って言われた瞬間、
私、全部否定された気がした」
「分かる、じゃなくて……受信する。
それは“全否定に聞こえた”っていう叫び」
千紗は小さく頷いた。
「じゃあ、全否定じゃない形に分解しよう」
「分解」
「うん。“まだまだ”は雑すぎる評価。
雑を雑のまま受け取ると、心が噛まれる。byteがbiteになる。
だから、byteのまま扱う。具体にする」
千紗が目を細める。
「今日、急に技術の話」
「byte x biteの回の続き。
じゃあ、取り調べ。被疑者は“まだまだ”」
「また取調室?」
「いや、今日は“評価の翻訳室”」
俺は紙に書いた。
『まだまだ=
1) 何が足りない?(要素)
2) どれくらい足りない?(量)
3) いつまでに?(期限)
4) 何を捨てる?(範囲)
5) 何を残す?(核)』
「核」
「うん。全部直すと百。
核だけ残して、周りを調整する。バランス」
千紗は赤ペンの指摘を見ながら、ぽつりと言った。
「核は……“この提案で何を守るか”が弱いって書かれてる」
「いい。核が見えた。
『守るもの』が出ると、線が引ける」
「守るもの……」
千紗はしばらく考えて、言った。
「利用者の時間。
手順を増やさないで、迷いを減らす」
その言葉が出た瞬間、千紗の眉間の線が少しほどけた。
自分の言葉が出ると、人は戻る。
「それ、めちゃくちゃ強い。
じゃあ“まだまだ”は何を言ってた?」
千紗は赤ペンを指でなぞって、答える。
「“数字はあるけど、想いが見えない”って」
「翻訳すると?」
「……『想いを一行で言え』」
「そう。
“まだまだ”は、実は『一行足して』だった可能性がある」
千紗が小さく笑った。悔しい笑いじゃない。発見の笑い。
「それなら、直せる」
「直せる。
じゃあ今日の一手。
“作り直し”じゃなく、“一行を足す”」
「一行」
「うん。
『この提案は、利用者の時間を守るためです』
それを冒頭に置く。線」
千紗はペンを取って、紙の余白に書いた。
字が、少し大きい。
大きい字は、自分を信じようとしてる字だ。
「……書けた」
「さぁ」
俺は鈴を鳴らした。ちりん。背中を押す合図。
「まだまだ、の扱い方、決めよう」
千紗はノートを開いて、自分の字で書き足す。
『まだまだ(再定義)
・全否定ではない(雑な言葉)
・翻訳する(要素/量/期限)
・核を残す(守るもの)
・一行足す(線)
・刺さったら凹凸
・合図は鈴』
千紗は最後に、りんごをもう一口。シャク。
そして言った。
「ねえ。
“まだまだ”って、嫌いだったけどさ」
「うん」
「“まだ”って、伸びしろの言葉でもあるんだね。
終わってない、ってことだもん」
冬の終わりの逆。
終わってない、の肯定。
それを暗くせずに言えるのが、今夜の勝ち。
「そう」と俺は言った。「まだは、余白。スリット。
空白があるから、書き足せる」
千紗は鈴に指を伸ばして、ちりんと鳴らした。
「さぁ。まだまだ、だってさ」
「まだまだ、でいい。
まだまだ、だから、いける」
封筒の『差し戻し』は、テーブルの端に移された。
真ん中に置かない。生活が仕事に食われるから。
端に置けば、扱える。
“まだまだ”を、ちゃんと自分の手順で噛める夜になる。




