自分の中の遊園地を開ける
玄関のドアを開けた瞬間、千紗の「おかえり」が、いつもより低い位置から飛んできた。
床に近い。つまり、座ってる。つまり、今日は椅子が先に置かれている。
「ただいま」
「おかえり。……ねえ、今日さ」
千紗はソファの端っこにちょこんと座って、膝の上で指を組んでいた。背筋は立ってるのに、目がぼんやり。
受信機が、ピッと点灯する。
「刺さった?」
「刺さったっていうか……疲れた。なんか、ずっと人のアトラクションに乗せられてた」
うわ、分かる。
でも今日は“分かる”が刃になりそうな日だ。俺は受信する側に回る。
「どんなやつ」
「くるくる回るの。説明が長いのに、結論は『急いで』。
終わったと思ったら次の列。待ち時間は長いのに、乗ってる時間は短い。
で、最後に『楽しかったでしょ?』って顔される」
千紗は笑ってるのに、笑ってない。
“楽しかったでしょ?”の圧は、黒い。BLACK or BLACKの親戚。
チッが舌先まで来た。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「千紗、いま何番?」
「え」
「フラストレーション。番号で管理しよう。溜めると怖いから」
千紗は少し考えて、指を三本立てた。
「……No.3。まだ三。だけど、四がすぐ来そう」
「じゃあ、今日は四を防ぐ」
俺はテーブルの上に、小さな鈴を置いた。ちりん。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。うちのアトラクションに乗る?」
「……うちの?」
「俺の。正確には、“ボクの”。今日だけ言う」
千紗が眉を上げる。
「なにそれ。急に子ども」
「子どもって言うな。テーマパークの支配人だ」
「支配人、胡散臭い」
「今日だけ胡散臭くていい。
人のアトラクションに乗せられて疲れたなら、こっちは“降りられる”やつを用意する」
千紗は笑いかけて、途中で止めた。
寄せすぎない笑い。ちょうどいい。
「降りられるアトラクション?」
「うん。途中下車OK。合言葉もある」
「凹凸?」
「そう。刺さったら凹凸で手すり。
あと、椅子。第三の動き。ゼロか百かにしないための安全バー」
俺は椅子を一脚、ソファの前に置いた。座らせるためじゃない。置くだけ。
置くだけで“選択肢”が増えるから。
「で、何に乗るの」
「まずは“入園”から。チケット渡す」
俺はメモ用紙を一枚ちぎって、ペンで書いた。
『入園券:本日の目的
外の「急いで」を置いてくる
代わりに「ゆっくり」を拾う』
千紗が受け取って、じっと見る。
その目が、少し戻ってきた。
「……いいね。拾うって言葉」
「受信機は拾う装置だからな」
「うん。拾われたい」
千紗の小さな叫び。受信完了。
俺は冷蔵庫を開けて、りんごを取り出した。
いつもの道具。食感で割るやつ。
「入園ゲート。シャク」
「万能すぎ」
「今日は効く」
千紗がかじる。
シャク。
その音で、部屋の空気にスリットが入る。薄い隙間。そこから呼吸が入る。
「で、次。アトラクション一号」
俺はテーブルに、飲み物を五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。
内なる五人。今日の運営スタッフ。
「これなに」
「キャスト。あなたの中にもいる。今日の千紗、誰が前に出てる?」
千紗はコーヒーを見て、炭酸を見て、白湯を見て、それからほうじ茶を指差した。
「ほうじ茶。焦げないようにってずっと言ってる」
「偉い。じゃあ、アトラクション一号は“ほうじ茶列車”。ゆっくり走るやつ」
「列車……」
「うん。急加速しない。急停止しない。
目的地は“今ここ”。乗車時間は三分。途中下車OK」
俺はスマホのタイマーを三分にセットした。
数字があると、安心するタイプの人間がいる。千紗はたぶん、そう。
「三分、なにするの」
「呼吸を合わせない。呼吸を見える化する。
吸う、吐く、を数える。ゼロか百かにしない。四拍だけ」
千紗は最初、照れた顔をした。
でも照れは、沈みじゃない。照れは、明るい抵抗。
俺たちは三分だけ、呼吸した。
途中で千紗が笑いそうになって、でも笑わなかった。
笑いに寄せすぎない。今日は“戻る”の方が先。
タイマーが鳴る。
「はい、到着。今ここ駅」
千紗が小さく息を吐いた。
「……駅、地味」
「地味が強い」
千紗が笑った。今度はちゃんと笑い。
その笑いが、さっきより高い位置にある。床から浮いた。
「次、二号」
「二号は“スリットの迷路”」
「迷路……嫌な予感」
「怖くない。一本道じゃない迷路。
“正解にたどり着く”んじゃなくて、“分岐を見つける”だけ」
俺は紙に線を一本引いて、その横に細い切れ目を描いた。
「これがスリット。
今日の千紗が嫌だったのは、分岐がないアトラクションに並ばされたこと。
だからここでは、分岐を増やす」
「分岐って?」
「たとえば今日、仕事で『急いで』が来たとき」
千紗の眉間が少しだけ動く。線が入りかける。
俺はすかさず鈴を鳴らした。ちりん。
「さぁ。ここは安全」
千紗が頷く。
「『急いで』って来たら、分岐はこう」
俺は指を二本立てた。
「A:『今日中の範囲、どこまでですか』
B:『三分ください』」
「椅子、置く感じ」
「そう。第三の動き。
急ぐか壊れるか、じゃない。確認するか、三分取るか」
千紗は紙を見て、ふっと笑った。
「……私、今日、分岐が見えなかった」
「見えなかったなら、今日は“見える化”した。これで勝ち」
「勝ちって言うな」
「じゃあ、回収」
「回収?」
「アトラクションの出口にあるやつ。今日の良かったところを一つだけ拾う」
千紗は少し考えて、りんごをもう一口。シャク。
そのあと、ぽつりと言った。
「……帰ってきて、ここに座れたのは良かった。
無理に元気なふりしなかった」
「それ、最高。バランス取る人の動き」
千紗は照れて、炭酸を指で弾いた。ぷしゅ。
泡が少し跳ねて、夜が明るくなる。
「ねえ、支配人」
「なに」
「ボクのアトラクションって言うならさ、最後は?」
「最後は“FACE TO FACE観覧車”」
「観覧車?」
「うん。上に上がるけど、揺れない。
外の景色を見ながら、言葉を二つだけ交換する」
「二つだけ」
「多いと混ざって消えるから。ひとつになっちゃえ、じゃない。
ふたりのまま、同じ景色を見る」
千紗はマグを両手で包んで、言った。
「私の二つは……
『疲れた』と、『でも帰ってこれた』」
俺は頷いた。受信完了。
次は俺の番。
「俺の二つは……
『迎えに行けなくてごめん』と、『迎えに来てくれてありがとう』」
千紗が目を細めて笑った。
沈まない笑い。観覧車の頂上みたいな笑い。
「ねえ」と千紗が言う。「このテーマパーク、毎日やってる?」
「常設。だけど毎日全部は回らない。
今日は三つだけ。入園、列車、迷路、観覧車。……四つだな」
「数えられてない」
「炭酸が数えた」
「炭酸、うるさい」
「うるさいのもキャスト」
千紗が鈴に指を伸ばし、ちりんと鳴らした。
「さぁ」
「さぁ」
「凹凸」
「凹凸」
千紗はソファの背もたれに一度だけ頭を預けて、言った。
「……人のアトラクション、明日も並ぶかも」
「並ぶ。たぶん」
「でも、帰ってきたら、ここがある」
「ある。降りられるやつしか置かない」
千紗はりんごを最後に一口。シャク。
その音が、閉園の合図みたいに部屋に響いた。
俺はメモ用紙の裏に、今日の追加ルールを書いて、冷蔵庫の磁石で貼った。
『ボクのアトラクション:途中下車OK
合言葉:凹凸
合図:鈴
必需品:シャク』
千紗がそれを見て、笑った。
「子どもっぽい」
「子どもっぽいのは、救命具だよ」
「……じゃあ明日も、救命具、貸して」
「いつでも。入園券、何枚でも刷る」
外の世界がどれだけ早回しでも、
この部屋には、降りられるアトラクションがある。
ふたりで乗って、ふたりで降りて、ふたりのまま息を整える。
それが、うちのいちばん人気のやつ。




