黒か黒かの世界に椅子を置く
黒いコートを脱いだら、中も黒かった。
黒いニットに黒いパンツ。黒い靴下。
偶然の黒。だが今日は、その偶然がやけに意味を持って見える。
「……BLACK or BLACKだな」
俺が独り言を言うと、キッチンにいた千紗が顔だけ出してきた。
「なにそれ」
「今日の俺の服」
「ほんとだ。全部黒」
千紗は笑った。笑いは軽い。
でも、その次の一秒で笑いが止まる。止まるとき、人は刺さってる。
受信機が、ピッと点灯する。
「刺さった?」
千紗は少し迷ってから、頷いた。
「うん。今日、黒しか選べない感じだった」
黒しか選べない。
“白か黒か”ならまだいい。
“黒か黒か”は、逃げ道がない。
選択肢があるフリをした、一本道。
チッが舌先まで来た。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「何があった」
千紗は紅茶を淹れながら言った。
湯気が上がっても、話の温度はまだ上がらない。
「今日、上司に言われたの。
『A案かB案か決めて。どっちでもいいから』って」
「どっちでもいい、が一番厄介」
「そう。どっちでもいいのに、決めたら責任が乗る。
で、AもBも、どっちも黒」
千紗はマグを二つ出しながら、テーブルの上に置いた。
白湯と紅茶じゃなくて、今日は両方コーヒーだった。
黒が二つ。
「……わざと?」
「うん。今日の気分」
黒い液体が二つ並ぶと、テーブルが“選べない”みたいに見える。
俺はそれが嫌で、椅子を一脚引いた。
第三の動きの準備。
「じゃあ、黒を白にしない」
千紗が眉を上げる。
「白にしない?」
「うん。無理に明るくしない。
でも、黒と黒の間に“スリット”を作る」
俺はポケットから小さな鈴を出して、テーブルの真ん中に置いた。ちりん。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。隙間を増やす」
千紗は少し笑って、でもすぐ真面目な顔に戻る。
「隙間って、具体的にどうやって」
「まず、黒を分解する。
AとBを“黒”って呼んでるから、どっちも同じに見える。
黒の種類を言葉にする。線を引く」
千紗はノートを開いた。
書く姿勢になると、彼女は戻ってくる。
「A案は?」
「Aは、早い。雑になりやすい。短期で終わるけど、後で修正が増える」
「B案は?」
「Bは、遅い。丁寧。長期で持つけど、今の期の数字に間に合わないかも」
千紗が書きながら言う。
「どっちも黒だけど、黒の種類が違うね」
「そう。
黒を“黒”でまとめない。
黒を“黒A”と“黒B”にするだけで、選び方が変わる」
千紗はペンを置いて、眉間の線を少しほどいた。
「でもさ、選ぶのが怖いの。
どっち選んでも、『なんでこっちにしたの?』って言われそうで」
怖さの正体は、責任という名の矢印だ。
選んだ瞬間に、矢印が全部自分に刺さる感じ。
受信機、拾え。
「矢印を分散しよう」
「どうやって」
「受信機。相手の小さな叫びを拾う。
上司の『どっちでもいい』は、たぶん“自分も決めたくない”の叫び」
「……あるね」
「じゃあ、一手。
“決める”じゃなく、“確認する”」
千紗は顔を上げる。
「確認?」
「うん。
『どっちでもいいなら、どっちが“痛い”ですか』って聞く」
「痛い?」
「どっちを選んだら、誰がどこで痛むか。
痛みが見えると、黒が選べる黒になる」
千紗は笑いそうになって止めた。
ギャグに寄せすぎないギリギリ。
「でもそれ、言い方ミスると刺さる」
「紅茶の出番。言い方を整える」
俺はメモに書いた。
『黒と黒の間の質問(丁寧版)
・どちらのリスクが“今”大きいですか
・どちらの痛みを先に引き受けたいですか
・最小合格ラインはどこですか(範囲)』
「範囲って、今日中の範囲と同じだ」
「同じ。線を引くと、黒が薄くなるんじゃなくて、扱える黒になる」
千紗はうなずいて、鈴を指で弾いた。ちりん。
合図が鳴ると、体が一段落ち着く。
「さぁ。じゃあ今日の“BLACK or BLACK”対策、作ろう」
千紗が自分でノートに書いた。
『BLACK or BLACK 手順
1) 黒を分解する(黒A/黒B)
2) 痛みの場所を聞く(リスク)
3) 最小合格ラインを聞く(範囲)
4) 椅子を置く(第三の動き=保留)
5) 凹凸で手すり
6) 鈴で“さぁ”』
「いいね」
俺は冷蔵庫からりんごを出して、テーブルに置いた。
今日も食感で割る。
黒い話に、白い果肉は似合うけど、白を増やすためじゃない。
噛むため。
「シャク、いる?」
「いる」
千紗はりんごをかじった。
シャク。
その音が、黒いコーヒー二つの間に、目に見えないスリットを作る。
呼吸の隙間。
「ねえ」と千紗が言った。「黒ってさ、嫌いじゃないの。
でも、黒しかないって言われると、私が消えそうになる」
「だから、黒を選ぶときは“自分の形”を残す」
「どうやって残すの」
「合言葉」
「凹凸?」
「凹凸もあるけど、今日専用のやつ。短いやつ」
千紗はりんごをもう一口。シャク。
そして言った。
「……『スリット』」
「スリット?」
「うん。
黒と黒の間に、私はスリットを作る。
それが私の居場所」
俺は笑って、鈴を鳴らした。ちりん。
「最高。合言葉、スリット」
「スリット」
「凹凸」
「凹凸」
「さぁ」
「さぁ」
黒い服の俺と、黒いコーヒー二つと、
黒か黒かの話題。
それでも部屋は暗くならない。
白を増やさなくていい。
ただ、隙間を増やす。
椅子を足して、線を引いて、合図を鳴らして、りんごをシャクする。
そうやって、黒を“生きられる黒”に変える夜。




