苛立ちの五番目を曲にする
朝いちばんの苛立ちは、だいたい小さい。小さいくせに、鋭い。
駅の改札で、いつものICが反応しなかった。
「ピンポーン」と機械が丁寧に言う。丁寧な拒否。
「……え、なんで」
後ろから人が詰まる気配。肩が熱くなる。舌の裏に「チッ」が浮く。
チッ=ブザー。
凹凸。
心の中で合言葉を握って、深呼吸。改札脇に避難する。第三の動き。止まるか突っ込むかじゃない、「一歩ずらす」。
結局、カードは財布の別ポケットに刺さってただけだった。
刺さってたのは俺だ。朝から。
会社に着いて、二つ目。
コピー機が紙詰まりしていた。
誰かが開けたままのトレイ、半端に引き出された紙。
剥がそうとすると、紙がちぎれる。
ちぎれた端っこが、無言で煽ってくる。
「……今日か」
舌の裏がまた動く。チッが上がる。
チッ=ブザー(二回目)。
凹凸。
一手。
俺は紙を引っ張る前に、まず電源を一回落とした。いきなり力技に行かない。ゼロか百かにしない。
ゆっくり抜く。
直る。
直った瞬間、勝った気がしてしまうのが危ない。勝ったと思うと、次の苛立ちに負けやすい。
午前中、三つ目。
チャットで「これ、今日中で」って来た。
いつものやつ。いつもの刺さり方。
俺は歯の裏でチッを止めたまま、指だけ動かす。
「承知しました。最優先範囲と理由を教えてください。どこまでが必須ですか?」
送信して、椅子を少し回す。第三の動き。
肩が落ちる。白湯が頭の中で「息」と言う。
昼過ぎ、四つ目。
自販機で買ったコーヒーが、ぬるかった。
ぬるいのが悪いわけじゃない。悪いのは「いまは熱いのが欲しいのに」というズレだ。
ズレは、心を噛む。byteの噛み傷みたいに。
「……ぬるっ」
炭酸が頭の中で暴れた。「買い直せ!」
ほうじ茶がなだめる。「落ち着け、焦げるぞ」
紅茶が口を挟む。「言い方を整えて」
チッ=ブザー(四回目)。
凹凸。
一手。
買い直さない。代わりに、デスクの引き出しから飴をひとつ取り出して舐めた。
食感で割る、の代替。
舌に甘さが乗ると、ぬるさが許せる温度に変わる。人間は単純で助かる。
そして、問題の五つ目は、帰宅直前に来た。
上司が言った。
悪気のない顔で、軽い口調で。
「これさ、明日の朝イチで出してくれる? いや、できたら今日の夜のうちにざっくりでも」
“できたら”の仮面を被った“やれ”だ。
語尾が柔らかいほど、刃が薄くてよく刺さる。
俺の視界の端で、世界が「ダダダダーン」って鳴った気がした。
派手な音じゃない。心の中の金属が鳴るやつ。
舌の裏に、最大のチッ。
チッ=ブザー(五回目)。
……フラストレーションNo.5。
凹凸。
俺は呼吸だけして、口角を上げた。笑顔は刃物じゃない。自分の背中を守る盾だ。
「確認させてください。必須は“何が見えればOK”ですか。数字だけ? 文章も? スライド形式ですか?」
上司は「そうそう」と言って、結局、数字だけで良いと分かった。
“今日の夜のうちに”は、ただの不安の叫びだった。受信機が拾えた。
それでも、五回目のブザーは体に残ったままだった。
苛立ちって、処理しても、余韻がある。
余韻は、家で回収しないと、寝てる間に勝手に増幅する。
帰宅。玄関を開けると、千紗が「おかえり」と言った。
その声は、今日の俺のノイズを一段下げる。
「ただいま。……今日さ、フラストレーションが五番まで行った」
「番号で管理してるの、怖い」
「怖いのは、番号つけないで溜めること」
千紗はキッチンからりんごを持ってきて、テーブルに置いた。
シャクの準備。うちの定番。
「五番って、どんなやつ?」
「今日の最後のやつ。『できたら夜のうちに』」
「うわ」
千紗は顔をしかめて、それからすぐに受信機の顔になる。
「チッ出た?」
「出た。五回目」
「じゃあ、儀式。チッ=ブザー→凹凸→一手。やろ」
千紗は椅子を二脚、テーブルの両側に置いた。真正面じゃなく、斜め。
第三の動きの空間ができる。
それだけで、俺の胸の圧が少し減る。
テーブルの上に、小さな鈴が置かれる。ちりん。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。No.5を、曲にしよう」
「曲にする?」
「苛立ちを、ただの苛立ちで終わらせない。
“どう刺さったか”を言葉にして、番号の意味を回収する」
千紗はノートを開いて、丸を五つ描いた。
白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。内なる五人の席でもある。
「今日は誰が暴れてる?」
「炭酸が元気。コーヒーも強い。白湯が追いついてない」
「なるほど。じゃあ白湯を先に飲ませよう」
千紗は白湯を注いでくれた。湯気が、喉の奥のトゲを丸くする。
「で、No.5。何が一番嫌だった?」
俺は少し考えて、りんごをかじった。
シャク。
食感で割ると、答えが出る。
「“できたら”って言いながら、逃げ道を塞ぐ感じ」
「逃げ道がないと、ゼロか百かになる」
「そう。百に寄る。徹夜でも、って」
「椅子、置こう」
千紗は椅子の背もたれを軽く叩いた。
第三の動き。
俺は立ち上がりかけた体を、座り直す。中間に落とす。
「一手は?」
「一手は……“範囲を聞く”」
「もうやった」
「じゃあ家での一手。
“今日の五番を明日に持ち越さない”」
「具体的に?」
千紗がペンを構える。
俺は鈴を鳴らした。ちりん。背中を押す。
「上司に出した数字の骨子だけ、メモにして封筒に入れる。
送信はしない。明日の俺に渡す。
『明日の俺へ:No.5の後始末』って書く」
「最高。バランス取ってる」
「バランス、最近の合言葉になってきたな」
「だって必要」
千紗はにやっとして、ノートに書いた。
『No.5対策:
・“できたら”は不安の叫び(受信)
・範囲を聞く(線)
・送信はしない(椅子)
・明日の俺に渡す(スリット)』
俺はメモを書いて、封筒に入れて、テーブルの端に置いた。
端っこに置く。真ん中に置かない。
真ん中に置くと、生活がまた仕事に食われる。
「じゃあ、最後」
千紗が鈴を指で押さえた。
「フラストレーションNo.5、終幕の合図」
「合言葉いる?」
「いる。短いやつ」
千紗は少し考えて、りんごをもう一口。シャク。
そして言った。
「……『五番は、曲にする』」
俺は笑って、同じ言葉を繰り返した。
「五番は、曲にする」
「凹凸」
「凹凸」
千紗が鈴を鳴らす。ちりん。
「さぁ」
「さぁ」
今日の苛立ちは消えない。
でも、番号をつけて、手順で扱って、食感で割って、合図で締めると、
苛立ちは“俺を壊すもの”じゃなく、“俺を整える材料”になる。
ダダダダーン、じゃなくて。
ちりん、で終われる夜が、いちばん強い。




