終わりの気配を抱く
コートのポケットに、去年のレシートが残っていた。
折り目が固くて、指先に冬の乾きが引っかかる。
俺は玄関でその紙を広げて、笑った。
「……冬、まだいる」
「いるね」
千紗は靴を揃えながら、いつもより軽い声で言った。
軽いのに、嬉しい軽さじゃない。
“軽くしようとしてる”軽さ。
受信機が、ピッと点灯する。
「刺さった?」
千紗は一瞬だけ目を逸らして、それから頷いた。
「うん。刺さったというか……終わりが来た感じ」
「終わり?」
「冬の終わり。
今日、職場で『送別会の候補日出して』って言われた」
送別会。
それだけで、部屋の温度が半度だけ下がる。
別れの匂いって、まだ起きてないのに先に来る。
チッが舌先まで来た。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「誰が?」
千紗はマグを二つ出しながら言った。
白湯と紅茶。いつもの二人。
「部署の人。四月で異動。
……人の異動って、季節みたいに来るね」
千紗は紅茶の袋を指で揉んだ。
くしゃ、と鳴る。
音が、心の中の雪を踏む音に似てる。
「千紗、異動するの?」
「私じゃない。
でも、その人と組んでたプロジェクト、終わる」
終わる。
“終わる”は、冬に似ている。
白い息。固い地面。歩幅が小さくなる。
俺はテーブルに小さな鈴を置いて、ちりんと鳴らした。
武器。背中を押す合図。
「さぁ。冬の終わりを、暗くしないで扱う」
千紗が少し笑った。
「難易度高い」
「でもできる。
終わりは、沈むだけじゃなくて、軽くなることでもある」
俺はコートを脱いで、椅子にかけた。
その動作が、今日の“第三の動き”みたいに見えた。
身につけたものを、いったん椅子に預ける。
「ねえ」と千紗が言った。「終わりってさ、悪いものじゃないのに、怖い」
「うん。
終わりは“空白”を作る。リオの空白じゃなくても、空白は怖い」
「空白、嫌いじゃないはずなのに」
「嫌いじゃない。でも、空白に風が入ると寒い」
千紗は紅茶を淹れながら、湯気を見つめた。
湯気が上がると、冬が少し薄まる。
「今日はさ、帰り道で思ったの。
私、ずっと“冬を着てた”んだなって」
「冬を着る?」
「うん。
ちゃんとしなきゃ、っていうコート。
崩れないように、っていうマフラー。
バランスよく、っていう手袋」
言いながら、千紗は自分の首元を触った。
そこに何もないのに、あるみたいに。
受信機が拾う。
千紗の小さな叫びは、「脱いでもいい?」だ。
「じゃあ今日は、脱ぐ練習」
「何を?」
「冬を。
全部じゃなくて、ボタンを一つ外す練習」
俺は冷蔵庫からりんごを出してきた。
今日の道具。食感で割る。
「割る?」
「割る」
千紗がかじる。
シャク。
その音が、雪を踏む音じゃなく、氷が割れる音に聞こえた。
割れると流れる。
流れると春が近づく。
「送別会の候補日、って言われたとき、何が刺さった?」
千紗は少し考えた。
指が無意識にマグの縁をなぞる。
円を描く癖。自分を落ち着かせる儀式。
「“ちゃんとしなきゃ”が刺さった。
送別会って、気持ちを言葉にしなきゃいけない場でしょ。
私はそういうの、うまく言えないのに、言わなきゃいけない」
千紗が“うまく言えない”と言うとき、それは“言いたいけど形が怖い”の意味だ。
ひとつになっちゃえ、のときと同じ。
言葉が正解になりそうで怖い。
「じゃあ、正解にしない手順」
俺はメモを出して書く。
『冬の終わり手順
1) うまく言おうとしない
2) 事実+ひとつだけ温度
3) スリットを作る(余白を残す)
4) 鈴で“さぁ”
5) 凹凸で手すり』
「事実+ひとつだけ温度?」
「うん。
『一緒にやれて助かりました』は事実。
そこに温度を一つ足す。
『寂しいです』とか、『嬉しかったです』とか。
全部言わない。ひとつだけ」
千紗は目を丸くする。
「それなら言えるかも」
「言える。
言えなくても、手順がある。
鈴を鳴らして、息を整えて、凹凸」
千紗は小さく鈴を鳴らした。ちりん。
「さぁ」
「さぁ」
その合図だけで、冬の終わりが“敵”じゃなくなる。
終わりを扱うための道具がある。
千紗はりんごをもう一口。シャク。
そして、ぽつりと言った。
「……でもさ。終わりって、楽になるのに、楽になったら罪悪感も来る」
「来るね。
『寂しい』と『ほっとする』が同居する。
それもバランス。釣り合わない日の釣り合い」
千紗が笑った。
沈まない笑い。
“同居”という言葉が、今日の救いになる。
「じゃあ、二つ言っていい?」
「いい。二つなら、ひとつにならない」
千紗は深呼吸して、言った。
「一緒にやれて助かりました。……寂しいです。
でも、終わるって、ちょっとほっともします」
言えた。
その瞬間、部屋の空気が半度だけ上がった。
春の予告みたいに。
俺はコートのレシートを折りたたんで、ゴミ箱に捨てた。
去年の冬の証拠を、今日の夜に置いていく。
「ねえ」と千紗が言う。「冬の終わりって、あったかいんだね」
「うん。寒さが薄くなると、余白が増える。
余白は怖いけど、呼吸はしやすい」
千紗はマグを持って、ソファに座った。
今日はちゃんと座れた。第三の動きが「休む」に寄る。
「明日、送別会の候補日、出す」
「出せる?」
「うん。
うまく言おうとしない。事実+温度ひとつ。
凹凸。さぁ」
俺は鈴を鳴らした。ちりん。
「さぁ」
冬の終わりは、終わりじゃなくて、ボタンを一つ外すこと。
コートが軽くなること。
息が白くなくなる予感を、ちゃんと明るいまま抱くこと。




