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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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言葉にする練習

 「好き」より先に「ありがとう」が出る人間は、だいたい不器用だ。


 私はその代表選手で、しかもポジションが固定されている。

 ご飯を作ってもらったら「ありがとう」。

 駅まで迎えに来てもらったら「ありがとう」。

 体調が悪いときに水を出してもらったら「ありがとう」。

 それはもちろん、感謝として正しい。正しいのに、今日の私には困りものだった。


 今日は、別の言葉を言うと決めているから。


 テーブルの上に、付箋が六枚並んでいる。

 黄色が四枚、ピンクが二枚。色が違うのは、気分の問題だ。気合いの部分を視覚化すると、私はちょっと強くなれる。


 黄色の一枚目:

 「落ち着け」


 二枚目:

 「呼吸」


 三枚目:

 「“いつもありがとう”で逃げるな」


 四枚目:

 「笑ってごまかすな」


 ピンクの一枚目:

 「言う」


 ピンクの二枚目:

 「三つの言葉」


 三つの言葉。

 たった三つ。

 なのに私の舌は、それを“特別扱いしすぎて”言えなくなる。特別扱いしすぎて、厳重に箱に入れて、鍵をかけて、鍵の置き場所を忘れる。


 スマホの画面に、メッセージが一通届いていた。


『今日は遅くなる、ごめん。先に食べてて!』


 読みながら、私は口の中でその“ごめん”を転がした。

 彼は軽く言う。軽く言える。軽く言える人は、たぶん重く抱えない。羨ましい。私は何でも重くする才能だけがある。


 私はキッチンに立ち、鍋に水を張って火をつけた。

 湯が沸く音は、いつも味方だ。世界がちゃんと進んでいる音がする。


 今日、彼は残業。

 私は休み。

 だから夕飯は私が作る。いつも通りのこと。いつも通りにできること。

 でも、今日は“いつも通り”の中に、違うことを一つ入れる。


 理由は簡単で、今日が彼の誕生日だからだ。


 サプライズは下手なので、私は“サプライズじゃないサプライズ”をすることにした。つまり、帰ってきたらそこにある、くらいの温度。

 リビングの棚の上に小さな箱。包み紙は地味。リボンは不器用に曲がっている。私の性格が全力で出ている。


 プレゼントよりも問題は、その後だ。

 箱を渡して「おめでとう」を言って、彼が笑って「ありがと」と言って、私は反射で「こちらこそ」と言って、流れで「いつもありがとう」って言ってしまう。

 それで終わる。終わってしまう。


 だから、私は付箋を置いた。

 逃げるな、と。


 湯が沸いた。

 私はパスタを入れて、タイマーを押した。

 料理の手順は数字で助けてくれるから好きだ。心は数字で助けてくれない。


 ソースはトマト系。辛くない。重すぎない。

 彼は辛いのも好きだけど、今日は“優しい味”がいい気がした。自分にとっても、彼にとっても。


 フライパンにオリーブオイル、にんにく、玉ねぎ。

 じゅっ、という音。

 それだけで少し、覚悟が温まる。


 「言う」


 私は声に出してみた。

 キッチンで独り言を言うと、ちょっと狂気っぽいけど、今日だけは許してほしい。


 「……言う」


 付箋を見て、私は頷く。

 言う。

 言うと決めた。


 言う言葉は、あの三つの言葉だ。


 それを言うタイミングを、私は今日一日考えてきた。

 玄関で?

 プレゼントを渡すとき?

 ケーキを切るとき?

 寝る前?

 どれも正解っぽくて、どれも怖い。

 怖いから、私は一番難しいところに置こうとする。寝る前。最後。逃げても逃げても時間が来る場所に。


 でも、そうやって自分を追い詰めるのは、私の悪い癖だ。

 癖を直す日でもあるんだった。


 玄関の鍵が回る音がしたのは、夜九時を過ぎた頃だった。

 私は思わず包丁を置き、タオルで手を拭いた。心臓が走り出す。


「ただいまー……」


 声が少し疲れている。

 それだけで私は、予定していた“いいタイミング”を全部捨てたくなる。今言ったら、重い? 彼は疲れてる。楽にしてあげたい。だから今日はやめよう。明日でいい。明日。


 明日。

 明日はいつも、便利な逃げ場所だ。


 彼がリビングに入ってきて、私を見る。

 そして、いつもの笑顔を作ろうとする。疲れを隠す笑顔。

 私はその笑顔が好きで、好きだから嫌だった。隠さなくていいのに、と思う。


「おかえり」


「ただいま。うわ、いい匂い。……え、なに、今日、豪華じゃない?」


 彼が上着を脱ぎながら言う。

 私は、笑いそうになって、付箋を思い出して止めた。笑ってごまかすな。


「今日は、日付を見て」


 彼が一瞬きょとんとして、スマホを見て、目を丸くする。


「あっ……やば。俺、自分の誕生日忘れてた」


「忘れるな」


「忘れるだろ、平日残業だぞ」


「忘れるなって」


 彼が笑って、私の肩を軽く叩いた。

 軽い触れ方。

 それが、今の私には合図みたいに感じた。


 彼がテーブルの上の小さな箱に気づく。

 目が柔らかくなる。


「これ……」


「うん。たいしたものじゃない」


「そういうの、先に言うの禁止」


 彼は箱を手に取り、包装を丁寧にほどいた。丁寧すぎて、逆に焦る。早く開けて、早く笑って、早く“いつもありがとう”の流れに乗せてくれ。

 そんなことを思ってしまう自分が、情けない。


 箱の中身は、革の小さなキーケースだった。派手じゃないけど、毎日触れるもの。私は“毎日”に贈りたかった。


 彼が手に取って、指で縫い目をなぞる。


「……これ、めちゃくちゃ好き」


 好き。

 その言葉の軽さが、今の私には眩しい。


「ありがとう。大事に使う」


 ありがとう。

 来た。

 ここで私が反射で「こちらこそ」と言ったら、終わる。


 私は息を吸った。

 付箋の「呼吸」を、心の中で指差す。


「……うん」


 うん。

 それだけ言う。

 それだけでも、私にとっては小さな革命だ。


 彼が不思議そうに私を見る。

 いつもの私じゃないから。

 その視線が、逃げ道を塞ぐ。


「どうした? 疲れてる?」


「疲れてない。ええと……」


 私は、テーブルの下で自分の膝を握った。握ると、身体が“ここにいる”って分かる。


「先にご飯食べよ。伸びる」


「おっけー」


 食事が始まった。

 トマトの酸味と甘み。彼が「うまっ」と言う。私は「よかった」と言う。

 会話はいつも通りに流れる。

 流れるほど、私は焦る。流れの中で溺れないように、言葉を掴まないといけない。


「今日さ」


 彼がフォークを置き、少し照れた顔で言った。


「こんなちゃんと祝ってもらえると思ってなかった」


「……祝うよ」


「うん。祝ってもらえるの、すごい嬉しい」


 その瞬間、私の中で何かがカチッと組み上がった。

 “嬉しい”って言ってくれた。

 それなら、私も言っていい。

 嬉しいの先の、もっと根っこの言葉を。


 私は、コップの水を一口飲んだ。

 喉が乾いている。

 緊張は、喉に出る。人間は分かりやすい。


「ねえ」


 私が呼ぶ。

 彼が「ん?」と顔を上げる。

 目が合う。

 私は逃げたくなる。逃げるな。付箋。


「言いたいことがある」


 彼が少し背筋を伸ばす。

 その反応が優しい。ちゃんと聞く姿勢。

 私はそれに甘えず、乗る。


「……いつも、ありがとうって言ってるけど」


「うん」


「それだけじゃ足りない日がある」


 彼が瞬きをした。

 驚いている。

 でも怖がってはいない。

 私は続ける。


「言葉にするの、苦手で」


「知ってる」


 彼が笑いそうになって、でも笑わずにいてくれた。

 私が笑ってごまかさないように、彼も合わせてくれた。

 その気遣いが、今日の私には刺さらない。助けになる。


 私は息を吸って、吐いて、もう一度吸う。

 ピンクの付箋が、頭の中で光る。


 三つの言葉。


 私は、言った。


「……愛してる」


 言えた。

 音になった。

 空気を震わせた。

 言った瞬間、世界が大げさに変わるわけじゃない。花火も上がらない。照明も落ちない。

 でも、私の胸の奥でずっと塞がっていた引き戸が、少しだけ開いた。


 彼は、目を丸くしたまま固まっていた。

 それから、ゆっくり息を吐いて、笑った。

 笑い方が、優しい。照れくさい。嬉しそう。全部混ざってる。


「……今、言った?」


「言った」


「え、もう一回」


「調子に乗るな」


 私は思わず言ってしまって、二人で同時に吹き出した。

 笑ってごまかすなって付箋に書いたのに、これは逃げじゃない笑いだ。

 これは、ちゃんと届いたあとに出る笑いだ。


 彼は椅子を少し引いて、私の手を取った。

 触れ方が丁寧で、でも遠慮がない。

 “日常の中の特別”みたいな触れ方。


「俺も」


 彼が言う。

 短くて、真っ直ぐで、眩しい。


「愛してる」


 私は、瞬きが遅れた。

 目の奥が熱い。

 泣くのは恥ずかしい。

 でも恥ずかしいって思ってる時点で、私はまだ自分を守ってる。


「……それ、反則」


「反則って何」


「私が言うの、どれだけ練習したと思ってるの」


「付箋?」


 彼がテーブルの上の付箋を見て、眉を上げる。


「これ、作戦会議だったの?」


「そう」


「黄色が自分に厳しくて、ピンクが可愛いな」


「ピンクは決意の色」


「じゃあ、今日から俺も覚える。ピンクは決意」


 彼が真面目な顔で言うから、私はまた笑ってしまった。

 笑いながら、私は思う。


 言葉は、魔法じゃない。

 でも言葉は、手渡しできる形をしている。

 気持ちは目に見えない。

 でも言葉にすると、相手の手のひらに置ける。


 彼は私の手を握ったまま、少しだけ照れた顔で言った。


「なんかさ、今日、誕生日っていうより……」


「うん?」


「“生きててよかった日”って感じ」


 私は、胸がいっぱいになった。

 「ありがとう」を言いそうになって、でも今日は別の言葉で返す。


「……うん。生きててよかった。あなたが」


 彼が笑って、私の手を軽く引いた。

 私は立ち上がって、彼の肩に額を預けた。抱きしめるほど大げさじゃない。でも離れてない。

 こういう距離が、私にはちょうどいい。


 窓の外では、夜の街の光が静かに滲んでいる。

 世界は変わらない。

 明日も仕事はある。洗濯物もある。ゴミ出しもある。

 でも私たちの間に、たった三つの言葉が増えた。


 それは、日常の中に小さく灯る火みたいだ。

 近づきすぎたら熱いかもしれない。

 でも、ちゃんと扱えば温かい。


 私は、もう一度だけ言った。練習の成果を、無駄にしないために。


「愛してる」


 彼が、今度は即答した。


「知ってる。今、受け取った」


 私は頷いた。

 付箋はいらない。

 でも捨てない。

 決意の痕跡は、しばらく部屋に置いておく。


 次に言うとき、今日より少しだけ簡単になるように。

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