決意の顔を作る
“本当の自分”って、どこに置き忘れるんだろう。
財布みたいに落としたら交番に届くのに、心のものは届かない。届け先がない。本人が本人に届けるしかない。
だから私は、今日だけは自分に宅配することにした。
不在票を何枚も溜めたままの私へ、ちゃんと受け取らせるために。
朝の鏡の前で、私はマスクを外した。
外しただけで、顔が寒い。冬の空気が頬の毛穴に入り込んで、そこから「逃げんな」と言ってくる。
机の上には、紙が一枚。
昨夜、震える手で書いたメモ。
・言う
・笑わない
・ごまかさない
・逃げ道は用意していい(でも嘘はだめ)
最後の一行が、私の良心と弱さの折衷案みたいで苦笑いが出た。
逃げ道は用意していい。
でも嘘はだめ。
それができたら苦労しない。
私はスーツじゃなく、私服を選んだ。
今日は休みを取った。
会社に出す理由は「私用」。それ以上は書かない。書かないことも、今日の決意の一部だ。
黒いコート。白いニット。ジーンズ。
この組み合わせは“会社の私”から一番遠い。
それだけで少し心臓が軽くなるのに、次の瞬間、怖さが追いかけてくる。
会社の私から遠いってことは、守ってくれる鎧がないってことだ。
スマホが震えた。
相手からのメッセージ。
『今日、会える? 駅前のカフェ、いつもの時間で』
“いつもの時間”。
その言葉が、私の胃をきゅっと縮める。
いつもの私は、いつも通りの顔で、いつも通りの返事をする。
でも今日は、いつもの私は連れて行かない。
私は返信した。
『会える。だけど、話したいことがある』
送信した瞬間、指先が冷たくなった。
もう引き返せない。
でも、引き返さないと決めた日だ。
駅前のカフェは、平日の昼間でもそこそこ混んでいた。
テイクアウトの列。PCを開いた人。ベビーカー。学生。
生活が流れている。
その流れに紛れれば、私の決意も薄まる気がして、逆に怖い。
私は窓際の席に座り、手元のメニューを意味もなく眺めた。
注文はいつも同じ。
カフェラテ、ホット。
今日も同じにしてしまったら、私はきっと同じ話をしてしまう。
だから、今日は違うものを頼んだ。
「……ハーブティーください」
自分の声が、少しだけ高い。
店員の「かしこまりました」が優しい。優しさが、今日は全部刺さる。
彼が来たのは、約束の五分前だった。
いつもより早い。
それだけで、私の胸が痛んだ。
彼は、私のために早く来た。
私が話したいと言ったから。
「お待たせ」
「まだだよ」
彼が座り、コートを脱ぎ、笑った。
いつもの笑顔。
私はその笑顔が好きで、好きだからこそ、今日壊したくなる。
「ハーブティー? 珍しい」
「今日は、ちょっと」
ちょっと、は便利な言葉だ。
でも今日は“便利”を使いすぎないと決めた。
沈黙が落ちる。
いつもなら、私が埋める。
仕事の話、近況、面白かった動画、愚痴のふりした笑い話。
私は人の間を埋めるのが得意だ。
空白を作るのが下手だ。
空白は、本音が滲むから。
彼が先に口を開いた。
「話したいことって、何?」
その問いは、刃じゃない。
でも、逃げ道を消す光だ。
私は昨夜のメモを思い出した。
言う。
笑わない。
ごまかさない。
「……私、最近、しんどい」
言えた。
言えた途端、目の奥が熱くなった。
泣くつもりはないのに、身体が正直すぎる。
彼は眉を寄せた。
「仕事?」
「仕事も。……それだけじゃない」
「じゃあ、何が」
私はカップを両手で包んだ。
温かい。
この温かさに頼りたくなる。
でも私は、言葉で温めたい。
「あなたに会うのも、しんどい時がある」
言った瞬間、彼の表情が固まった。
固まるのは当然だ。
私は今、好きな人の胸に石を置いた。
「え……俺が、何かした?」
声が小さくなる。
私の胸が痛い。
痛いから、私はいつも逃げてきた。
でも今日は逃げない。
「あなたが悪いって意味じゃない」
その言葉は、免罪符。
でも今日は、免罪符で終わらせない。
「ただ、私が“いい人”をやりすぎてる」
彼が目を瞬いた。
「いい人?」
「うん。あなたにとっての、都合のいい人。会社にとっての、都合のいい人。友達にとっての、都合のいい人。……自分にとっても」
自分にとっても。
そこが一番痛い。
私は自分にすら、都合よく振る舞ってきた。
傷つかないふり。大丈夫なふり。疲れてないふり。
彼は何か言おうとして、言葉を探した。
その探す時間が、私にはありがたかった。
空白がある。
空白を、私は今、ちゃんと生きている。
「……俺、君のこと、そんな風に思ってない」
「知ってる」
私は頷いた。
本当に知っている。
でも知っていても、私は“そうなるように”自分を置いてしまう。
「あなたは優しい。優しいから、私が崩れそうなときも、守ってくれる」
「守りたいよ」
「うん。守られてる。……でもね、守られるほど、私が“本当の私”を出す場所がなくなる」
彼の目が揺れた。
理解しようとしている。
それが分かる。
だから私は、次も言える。
「私は、弱いところを出したら、嫌われるって思ってる」
「嫌わない」
「分かってる。でも、思ってる。思っちゃう。癖みたいに」
ハーブティーの香りがふわっと広がった。
ミントと、何か花の匂い。
鼻の奥が少しだけ楽になる。
彼は手を伸ばして、私の指先に触れかけて止めた。
触れたい。
でも今は触れたら、私がまた“いい人”の顔で頷いてしまう。
彼は、それを分かって止めたのだと思う。
そう思いたい。
「じゃあ、どうしたい?」
彼が問う。
その問いは、私に選択を返してくれる問いだ。
私は、昨夜書いたメモの最後を思い出した。
逃げ道は用意していい。
でも嘘はだめ。
「少し、距離が欲しい」
言うと、胸がひゅっと縮む。
距離を置くと言うことは、火を消すみたいで怖い。
でも、消さないと燃え尽きる火もある。
「別れるってこと?」
彼の声が震える。
私は首を振った。
でも、完全に否定できない自分がいるのも分かる。
中途半端は、いちばん残酷だ。
「分からない。……今は、決めきれない」
正直に言う。
正直は、刃にもなる。
でも今日は、その刃を自分で握る。
「ただ、私が私のまま居られる時間が欲しい。
あなたに合わせる私じゃなくて、会社に合わせる私じゃなくて、誰かの期待に合わせる私じゃなくて」
私は息を吸った。
ここが一番大事だ。
「“私”のまま居られる私」
彼は黙った。
黙るのは、拒絶じゃない。
受け止めるための黙りだと、私は信じたかった。
信じるのも、今日の決意だ。
しばらくして、彼が言った。
「……俺、怖い」
「うん」
「君が離れていくのが」
「うん」
「でも、君が壊れるほうが、もっと怖い」
その言葉で、胸の奥がほどけた。
涙が落ちる。
落ちてもいい。今日は、笑って誤魔化さない。
「ありがとう」
「謝るなよ」
「……謝ってない」
私が言うと、彼が少しだけ笑った。
その笑いは、いつもの軽さじゃなく、ちゃんと痛みが混ざっていた。
痛みが混ざっていると、笑いは本物に見える。
私はポケットから、もう一枚の紙を出した。
これはメモじゃない。
休職の申請書のコピー。
提出は、明日。
でも今日、私は誰かに言いたかった。私が“自分を選ぶ”ってことを。
「明日、会社に出す」
彼がそれを見て、目を見開いた。
「休むの?」
「休む。休むって決めた」
決めた。
その言葉が、口の中で硬い。
硬いけど、頼もしい。
「……すごいじゃん」
「すごくない。やっと」
私は笑わずに言えた。
やっと。
この“やっと”が、私の人生の実感だ。
彼はゆっくり頷いて、今度はちゃんと手を伸ばして、私の手を握った。
握られても、私は頷いて“いい人”にならなかった。
ただ、握られた。
それだけでいい。
「距離、どうする?」
「連絡、毎日じゃなくていい」
「会うのは?」
「……しばらく、短め。昼だけとか。
無理そうなら、無理って言う」
「言える?」
「……言う練習する」
「一緒に練習する?」
その提案が、優しさだった。
でも今日は刺さらない。
刺さらないのは、私が受け取る準備を少しだけ持てたからだ。
「うん」
私は頷いた。
頷いた自分が、少し誇らしい。
誇らしいという感情を、私は久しぶりに味わっていた。
カフェを出ると、冬の空気が頬を撫でた。
マスクをつけるか迷って、私はつけた。
全部を一気に変える必要はない。
逃げ道は用意していい。
でも嘘はだめ。
駅までの道、彼と並んで歩く。
いつもの歩幅。
でも今日は、私の足が少しだけ自分の速度で動いている。
「ねえ」
彼が言った。
「君って、ほんとはどんな人?」
私は考えた。
答えはすぐには出ない。
でも今日は、答えが出ないことを言える。
「……分からない。けど」
私は立ち止まって、息を吸った。
「探す。今から」
彼が頷いた。
その頷きが、私の背中を押すんじゃなく、隣に立ってくれる頷きだった。
私は自分の中で、小さく宣言する。
本物のふりをやめる。
“本物”は、ふりをしない。
私は、私の実感で生きる。
今日の私は、似合わない本音を着て外へ出た。
少し寒い。
でも、ちゃんと息ができる。




