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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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日常の小さな勝利

 サラリーマンの朝は、戦争じゃない。

 でも、戦争じゃないからこそ終わらない。


 目覚ましは二回鳴って、三回目で私はようやく人間になる。

 布団の中でスマホを握りしめ、「今日は休みたい」と送る先もないメッセージを頭の中で打っては消し、結局いつものように起き上がる。寝癖がひどい。顔がむくんでいる。メンタルもむくんでいる。むくみは全部、塩分だけのせいじゃない。


 洗面台の鏡に向かって、私は自分に言う。


「今日も、普通に生きろ」


 スーツを着る。

 ネクタイを締める。

 この行為は、鎧を着るというより“看板を下げる”に近い。私は私の胸に、小さな札をぶら下げる。

 「社会人」。

 「ちゃんとしてる人」。

 「怒らない人」。

 「頼まれたらやる人」。


 その札は便利だ。誰かが私を扱いやすくしてくれる。

 同時に、私を私じゃなくしていく。


 玄関を出る直前、靴べらがないことに気づいた。

 なくすなよ、私。

 私は靴を無理やり押し込み、かかとを踏みそうになり、ギリギリで耐えた。初手からもう、負けている気がする。


 駅までの道は、同じ匂いがする。

 焼き立てパンの香り。排気ガス。コンビニの揚げ物。冬の乾いた空気。

 そして、コートの内側にこもる自分の体温。これが案外、頼りになる。


 改札前で、通勤の群れに飲まれる。

 人は多いのに、目は合わない。目が合わないのに、肩はぶつかる。

 社会は接触して、無関心で、器用だ。


 電車に乗ると、隣の人のイヤホンから微かに漏れる音が聞こえた。陽気なリズム。思わず足で拍を取りそうになって、自分を止める。

 ここは戦場じゃない。

 ここは“公共の顔”の展示会場だ。


 会社に着く。

 エレベーターの中で、同じ部署の先輩と目が合う。


「おはようございます」


「おー、おはよ。今日も早いな」


「いえ、普通です」


 普通。普通。普通。

 普通が口癖になると、人生は自動運転になっていく。

 でも今日の私は、なぜか自動運転が少しギクシャクしていた。


 席に着くなり、メールが積もっている。

 山。

 文字の山。

 登山家でもないのに、毎日登る。


 午前中は会議が二本。

 一つ目は議事録係。

 二つ目は空気係。


 空気係というのは、誰かが怒りそうになったら「すみません、確認なんですが」と柔らかい言葉で間に入る係だ。私はいつからこの資格を取ったのだろう。国家資格じゃないのに、更新が厳しい。


 会議室のホワイトボードに書かれた数字を眺めながら、私は自分の心の中で小さく呟く。


(本日のHP:残り70。MP:残り15。バフ:ネクタイ。デバフ:寝不足)


 ゲームにすると笑える。

 笑えるうちは、まだいける。


 昼休憩、食堂の隅の席でコンビニおにぎりを頬張っていると、同期の真壁が隣に座った。


「最近さ、元気?」


 この質問は、地雷原に花を植える行為に似ている。

 踏んだら爆発する。踏まなければ不自然。どっちも困る。


「元気だよ」


 私は反射で言う。

 真壁は、ふっと鼻で笑った。


「元気な声じゃない」


「声って、元気にも種類あるから」


「種類? 何、ビタミンみたいに?」


「そうそう。私のは今、ビタミンB群不足の元気」


「絶妙に嫌なやつ」


 真壁が笑う。

 笑われると、救われる。

 救われると、私はまた“元気”を演じそうになる。


「お前さ、定時で帰ったのいつ」


「……去年?」


「去年っていつ」


「……秋のどこか」


「秋のどこかって何」


「秋って、存在してた?」


 真壁が吹き出して、むせた。

 私はそのむせ方に、ちょっと元気が出た。人間っぽい。

 こういう人間っぽさが、会社の中でいちばん尊い。


「今日さ」


 真壁が言った。


「定時で帰れ」


「無理」


「無理じゃない。やれ。命令」


「命令って、誰の」


「友達の」


 その言葉が、胸の奥を軽く叩いた。

 友達の命令。

 会社の命令より、ずっと聞く価値がある気がするのに、私はそれを優先する術を知らない。


 午後、事件が起きた。

 と言っても、火事とかではない。

 サラリーマンの事件は、大体が“予定外の依頼”だ。


「急で悪いんだけど、今日中にこれ、まとめられる?」


 部長が私の机に紙を置く。

 紙の厚みが、私の寿命の厚みに見えた。


「……今日中、ですか」


「うん。明日の朝イチで使う」


 部長の顔は悪くない。

 悪くない顔で、悪い依頼をする。

 社会の技術だ。


 私は頷きかけて、止まった。

 その瞬間、真壁の“友達の命令”が頭の中で光った。


 定時で帰れ。


 帰れ。


 帰れ、は、逃げじゃない。

 帰れ、は、生存だ。


 私は喉の奥で唾を飲み、言った。


「……すみません。今日中だと、品質が落ちます。明日午前中までなら、確実に仕上げられます」


 自分の声が、自分じゃないみたいに落ち着いていた。

 心臓は暴れているのに、口は丁寧だ。

 このギャップが、サラリーマンという生き物の怖さでもあり、強さでもある。


 部長が眉を動かす。

 一瞬、空気が冷える。

 私は腹の底で「終わった」と思った。


 でも、部長は紙を取り上げず、ただ頷いた。


「……分かった。じゃあ明日の午前で。ありがとな」


 ありがとな。

 ありがとな、って言われた。

 私はその場で崩れそうになった。

 拒否しても、世界は崩れなかった。

 むしろ、少しだけ整った。


 真壁が後ろから小声で言う。


「今の、見た?」


「見ないで」


「英雄」


「英雄は定時で帰れないでしょ」


「帰る英雄が、新しい」


 新しい英雄。

 私はその称号を、心の中でこっそり受け取った。

 ネクタイが旗に見えたのは、そのときだ。


 定時が近づくにつれて、仕事が増える。

 これは物理法則だ。

 人は帰ろうとすると、世界が引き留めてくる。


「これ、確認お願いできます?」


「この資料、どこにあります?」


「すみません、ちょっとだけ」


 ちょっとだけ。

 この言葉は、残業の種だ。

 ちょっとだけが積もって、夜になる。


 私は深呼吸して、言った。


「ごめん。今、手が離せない。明日の朝一でいい?」


 言えた。

 言えたことが、奇跡みたいに嬉しい。

 嬉しいのに、申し訳ない。

 申し訳ないのに、胸が軽い。

 矛盾が、今日は勝ちに見える。


 定時のチャイムが鳴る。

 私は立ち上がった。

 立ち上がるだけで、周囲の空気が「え?」になる。


「お先に失礼します」


 声が震えないように言う。

 言った。

 言った瞬間、背中に視線が刺さる気がした。

 でも、その視線が全部悪意じゃないのも分かる。驚き。羨ましさ。あるいは「いいな」。


 エレベーターに乗り、会社のビルを出た瞬間、外の空気が胸に入った。

 まだ明るい。

 空が青い。

 夕方って、存在してたんだ。


 私は駅に向かう道を、少しゆっくり歩いた。

 コンビニの前で立ち止まり、普段買わないホットスナックを買った。からあげ棒。

 理由はない。勝利の戦利品だ。


 ホームに立って、電車を待つ。

 スマホが震えた。真壁からのメッセージ。


『帰れてる? 英雄』


 私は笑って、返信した。


『帰れてる。からあげ棒持ってる。英雄の証』


 すぐに返事が来る。


『いいな。今度俺にも英雄させて』


 私は画面を見て、少しだけ泣きそうになった。

 泣かない。

 今日の私は、勝っている。

 勝ち方が小さいほど、大事にしたい。


 電車が来て、私は乗り込んだ。

 窓に映る自分の顔が、いつもより少しだけ柔らかい。

 ネクタイが、ただの布じゃなく、今日の旗に見える。


 家に着く。

 玄関で靴を脱ぎ、コートを掛け、リビングの明かりをつける。

 誰もいない。

 なのに、寂しさより先に「自由」が来た。


 私はネクタイを外し、腕を伸ばした。

 肩が痛い。背中も痛い。

 でも、痛みの種類が違う。

 “耐えた痛み”じゃなく、“自分で選んだ痛み”だ。


 冷蔵庫を開けて、ビールじゃなく炭酸水を取った。

 からあげ棒を皿に乗せ、レンジで少し温める。

 生活の火を点ける。


 私は小さく言った。


「今日だけは、定時で英雄」


 誰も拍手しない。

 でも、私の中の誰かが拍手している。

 それで十分だ。


 明日また戦争じゃない日が始まる。

 終わらない日常が続く。

 でも、終わらないからこそ、こういう小さな勝利を何度でも拾える。


 私は炭酸水を一口飲んで、喉の奥で笑った。

 泡が弾ける。

 今日の勝利も、泡みたいに小さい。

 だからこそ、ちゃんと味がする。

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