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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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燃えるのは恋より生活

 火は、嘘をつかない。


 弱火にしたつもりでも、鍋底が「違う」と言えば焦げるし。強火で押し切れば、芯まで温まる前に表面が叫ぶ。料理が下手だとか上手いとかの前に、火はただ正直で、こちらの生活の甘さを遠慮なく炙り出す。


 そして今日、私の家の火は……台所ではなく、玄関で燃えていた。


「それ、誰がやったの」


 低い声。静かなのに、やけに響く。


 玄関マットの上に、真っ赤な紙袋が転がっている。中身は分かる。花束。しかも“反省の花束”みたいなサイズ。ベランダに置く観葉植物じゃなく、完全に「許して」用のボリューム。


 私は鍵を閉めたまま靴を脱ぎかけて、固まった。

 視線の先には、腕を組んだ彼。いや、彼女……でもいい。火の正体は、恋人でも家族でもなく、うちの共同生活の“火元担当”だ。


「……別に、いいでしょ。もらっただけ」


「もらっただけ? 誰から」


「……会社の」


「会社の“誰”から」


 詰め方がプロだ。容疑者を“会社”という集合体に逃がしてくれない。問いが鋭いのに、声が荒れていないのがいちばん怖い。荒れてないってことは、火が中で回ってる。


 私は紙袋を拾い上げ、花束の上に刺さったメッセージカードを裏返した。見えないように、見せないように。見せないほど怪しいのは分かっているのに、反射が勝つ。


「別に……仕事の付き合いだし」


「付き合いねえ」


 彼女は、片眉だけ上げた。その表情は“火災報知器が鳴る直前”の顔だ。


「その“付き合い”って、誰の何を守るための言い方?」


「……は?」


「私が聞いてるのは、花の種類じゃない。あなたの言い訳の種類」


 言い訳の種類。

 その言葉で、胸がきゅっとなる。

 私は靴を脱ぎ終えて、やっと部屋に入った。いつものリビング。いつものソファ。いつもの洗濯物の山。いつもの“ほっとする場所”。


 でも今日は違う。

 ほっとする場所が、取り調べ室みたいに見える。


「ねえ、これ…」


 私は花束を持ち上げた。

 彼女は受け取らない。受け取らないまま、花束を見つめた。色の強い花が混ざっている。赤、オレンジ、黄色。まるで火の色。選んだ人の悪意がなくても、火力が出る配色。


「……その人、前にも何かくれたよね」


 心臓が跳ねる。

 覚えてる。全部。私より覚えてる。

 こういうとき、人は記憶が良すぎるほうが苦しい。


「缶コーヒーとか、差し入れとか、普通のやつ」


「普通のやつを、普通の頻度で?」


 黙る。

 黙ると火は増える。

 でも、言葉にすると火が爆ぜる気もする。


 彼女は大きく息を吐いた。苛立ちじゃない。酸素の確保みたいな吐き方。

 そして、キッチンに向かい、エプロンを掴んだ。いつもの動作。いつもの“段取り”。


「……ご飯作る」


「今!?」


「今。火がついたときは、鍋を先に見ろって、どこかの誰かが言ってた」


 誰だよ、と言いかけて飲み込む。

 彼女のこういうところが、ずるい。怒ってるのに生活を止めない。生活を止めないから、私は悪者になりきれない。悪者になれないまま、火の前に立たされる。


 コンロに火がつく。

 カチッ。

 青い炎が揺れる。

 その音で、私の中にも青い火が点く。


「ねえ」


 彼女は背中のまま言った。


「今日、何があったの」


 責めるための“何”じゃない。

 知るための“何”。

 だから余計に、私は逃げられない。


「……会議で、ちょっと助けてもらった」


「助けてもらった?」


「資料の修正。私、間に合わなくて」


「あなたが間に合わないの、珍しいね」


 棘。

 でも、事実。


 私はソファの端に座り、花束を膝の上に置いた。花の匂いが、妙に甘い。甘いのに、胸の奥が苦い。


「最近さ」


 声が小さくなる。


「……仕事でミスが増えてる」


 言った瞬間、肩が落ちる。

 認めると、崩れる。

 崩れると、誰かが拾わないといけない。

 拾わせたくない。拾ってほしい。矛盾。


 彼女は鍋に水を張り、野菜を放り込んだ。包丁の音が、トントントンと一定のリズムを刻む。怒りのリズムじゃない。落ち着かせるためのリズム。


「……睡眠」


「足りてない」


「食事」


「適当」


「で、その人が、優しかった?」


「……優しかった」


 その一言で、彼女の包丁が止まる。

 止まった音が、部屋に落ちる。


「あなた、優しさに弱い」


 言い切られて、私は苦笑いしかできない。

 否定できない。私は優しさを“救い”として抱えてしまう。抱えたまま、酸欠になるのに。


「優しさってさ」


 私は花束のリボンを指でいじった。ほどけない結び目を、ほどくふりだけする。


「火みたいだね。あったかいけど、近いと熱い」


 彼女が、小さく鼻で笑った。


「詩人やめて。今、現場」


 現場。

 火災現場。

 私は笑いたいのに笑えない。


「……でも、近くにいる人は、熱いのが先に来る」


 彼女は鍋をかき混ぜながら、背中のまま言った。


「私はね、熱いのが先でもいい。火傷する前に言って」


 私は息を止めた。

 その言葉は、火ではない。

 消火器みたいな言葉だ。


「言えないよ」


「なんで」


「言ったら、あなたが怒るから」


 私は、やっと振り向いた。

 彼女も、振り向かない。火の前から目を離さない。生活の火から。


「怒るよ」


 即答。

 でもその即答に、優しさが混じる。


「怒るけど、あなたを置いていかない。怒るのは、置いていかないため」


 胸が、じわっと熱くなる。

 こういう火なら、嫌いじゃない。

 むしろ、欲しかった火だ。


 鍋がぐつぐつ鳴り始めた。

 彼女は火を少し弱める。強火のまま押し切らない。焦がさないために。


「それで」


 彼女が続ける。


「その花束、あなたはどうしたいの」


「どうしたいって……」


「捨てる? 飾る? 返す? 受け取る? 受け取らない?

 どれでもいい。ただ、あなたの選択で」


 私の選択。

 それが、いちばん難しい。


 私は花束を見下ろした。

 可愛い。綺麗。元気が出そうな色。

 けれど、今の私には“元気”が重い。元気を要求されるみたいで。


「……返すのは、角が立つ」


「角が立つのは、あなたの角?」


「……相手の角」


「相手の角を守るために、うちの角を削るの?」


 うちの角。

 私たちの角。

 それは、心の輪郭だ。


 私は唇を噛んだ。

 言葉が出ない。

 出ない言葉のかわりに、身体が正直に泣きそうになる。


「私、嫌われたくないんだよ」


 やっと出た本音。

 誰に、かは分からない。会社の誰かに。彼女に。自分に。全部に。


「嫌われたくないの、分かる。人として」


 彼女は鍋の火を消し、こちらに向き直った。真っ直ぐ、逃げ場を潰さない目。


「でも、嫌われないために、あなたが燃えるのはダメ」


 燃える。

 私は今まで、燃えることで温かさを作ってきた。

 自分が燃えて、場を温めて、笑って、回して。

 それが得意だと思っていた。

 でも得意は、よく燃える素材ってだけだった。


「ねえ」


 彼女は、少しだけ声を柔らかくした。


「うちの愛、火力強めって自覚ある?」


「……ある」


「じゃあ、火力は私が持つ。あなたは、燃料にならない」


 私は、変な笑いが出た。泣き笑い。

 料理の話みたいに言うのに、ちゃんと心の話になっている。


「燃料って、私、薪?」


「乾燥してる薪。すぐ火がつく」


「悪口?」


「褒めてない。でも責めてもない」


 彼女はキッチンの引き出しから、透明な小さな花瓶を出してきた。

 花束を受け取る気はないはずだったのに。

 でも、花瓶を持っている。


「これ、どうする?」


 彼女は花瓶をテーブルに置き、私の方にスプーンを差し出した。

 スプーン。選択肢の象徴みたいで可笑しい。


 私は花束のカードを、ようやく表にした。

 短いメッセージ。

 “いつも助けてもらってるから。無理しないでね”

 攻撃じゃない。

 むしろ守りの言葉。

 それが、私をさらに揺らす。


「……悪い人じゃない」


「うん。悪い人じゃない。だからこそ、線引きが必要」


「線引きって、冷たくない?」


「冷たくない。火事を防ぐ柵。冷たさじゃなくて、安全」


 安全。

 私はその言葉に、少しだけ救われた。

 安全があると、優しさを受け取っても死なない。


 私は花束から、数本だけを抜いた。派手すぎない色。白と淡いオレンジ。

 花瓶に挿す。

 残りは、紙袋に戻す。


「全部は、いらない」


 私が言うと、彼女が頷いた。


「うん。全部は熱い。部分なら、あったかい」


 彼女はスマホを取って、私に差し出した。


「返す文、作ろう。あなたが書く。私は隣にいる。火力調整担当」


 火力調整担当。

 その役職が、妙に頼もしい。


 私は深呼吸して、画面を見た。送る相手の名前。

 指が震える。

 でも、隣に彼女がいる。鍋の匂いがする。湯気が上がっている。生活がある。


 私は文章を打つ。


『ありがとうございます。すごく嬉しかったです。

 ただ、これ以上は受け取れないので、お花は数本だけ飾らせてください。

 仕事のことは仕事で返します。』


 送る前に、私は彼女を見た。

 彼女は、目だけで「いい」と言った。

 そして小さく、親指を立てた。消防士みたいに。


 送信。


 スマホが静かに震え、既読がつくわけでもないのに、胸の圧が少し抜けた。

 私は息を吐いた。

 火が、少し落ち着く。


「……これで、嫌われるかな」


「嫌われる可能性はある」


 彼女はあっさり言って、すぐに続けた。


「でも、嫌われないために自分を燃やすより、嫌われても燃えないほうが、長持ちする」


「長持ち」


「うん。私たち」


 “私たち”が出た瞬間、胸の奥がふっと明るくなる。

 火は怖い。でも、火がないと、冬を越せない。


 彼女はお玉でスープをよそい、私の前に置いた。

 湯気が上がる。

 熱い。

 でも今度の熱さは、ちゃんと食べるための熱さだ。


「いただきます」


「どうぞ。火傷すんなよ」


「誰に言ってるの」


「あなたに。あと、あなたの中のすぐ燃える子」


 私は笑ってしまった。

 泣きそうだったのに、笑えてしまった。

 笑えるとき、人は少し回復しているらしい。


 窓の外、雨雲が流れていく。

 花瓶の中で、小さな白い花が揺れた。

 派手な火じゃない。

 暖炉の火みたいな、静かな光。


 私はスープをひと口飲んだ。

 塩気がちょうどいい。

 舌が「生きてる」と言う。


「ねえ」


 私は湯気越しに、彼女を見た。


「うちの愛って、火力強め?」


「強め。だから鍋見ろって言ってる」


「鍋、見てるよ」


「じゃあ、次は自分も見ろ」


 私は頷いた。

 火を怖がるんじゃない。

 火を扱える人になる。

 燃えるんじゃなく、温めるほうに回る。


 その日、玄関で燃えかけた火は、台所の鍋に移された。

 鍋は焦げなかった。

 私も、まだ焦げてない。

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